絶望からの出発 私の実感的教育論


しつけは家庭でしかできない  曽野綾子


■めんどうでも子供に手伝わせる
■なぜ子供が敬語を使えないか

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めんどうでも子供に手伝わせる
 いつから親たちの間で、子供のしつけを学校或いは先
生にお願いする、というような怠惰な考え方が生まれた
のだろう。しつけは元来家庭のものである。なぜならし
つけには、その家の生活に対する嗜好、価値観などが、
きめ細く加味されるべきであって、一足す一は二という
ような画一的なルールがないからである。
 子供のしつけには、二つの要素がその底に含まれてい
る。一つは子供がいつ親の保護を失っても何とか生きて
行くだけの、生活の技術を一刻も早く身につけさせるこ
とである。自分で服を脱ぎ着したり、顔を洗ったり、髪
をとかしたり、蒲団を上げ下し、茶碗を洗い、というこ
とは、すべてそのためである。これらは本来はしつけと
は言えないものであった。西部に移住したアメリカの移
住者の子は、幼いころから馬に乗り、木を切ったり、水
を汲んだり、家を建てたり、牛を飼ったりすることを覚
えた。生活に参加することすなわちしつけであった。
 このルールは今でも変らない。子供は親の生活に早く
から参加させるべきなのである。もっとも西部の暮らし
と違い、アパートの生活では水汲みや薪割りの必要もな
い。父親と一緒に木をかついで柵を作る機会もない。食
事に使う茶碗だって数知れたものだし、一つ押し入れを
開けるのだから、ついでに子供の蒲団も敷いてしまおう、
ということになって、子供は何もせずにいられる。
 しかししつけは本来、手間ヒマかかるものなのである。
初めは親がやってしまう方がずっと時間的に早い、とい
うことが多い。それをあえてめんどうでも子供にやらせ
るというのは、一種の保険をかけておくことと似ている。
「先生、うちの子は、家では何も手伝いもしないんです
よ。だから学校で、給食の後片付けをすることを、しつ
けてやって下さいよ」
 と言ったという母親の話を読んだことがあるが、この
話は二重のエゴイズムを含んでいる。この母はこういう
発言をすることが、自分の教育的配慮を含んでいると、
相手から受けとられるだろう、と計算しているふしがあ
る。もし彼女が本当に教育的であろうと思うなら、娘と
二人でお喋りしながら毎日茶碗を洗いさえすればいいの
である。しかし彼女の家庭にはそれだけの折り目正しさ
がないし、彼女がかりに娘にご飯の後片付けをさせたい
と思っても、その命令は行われにくい状態になっている
だろう。つまり彼女は、母親としてしつけをする威厳を
失ってしまっているので、食事を済ませた娘がテレビに
齧(かじ)りついているか、さっさと自分の部屋に入って
しまうことを、とうていやめさせられない。そして、そ
れほどの手数のかかることならば、この際ただで、学校
の先生にやってもらえ、という二重のずるさが働くので
ある。
 しつけの第二は、対外的な言語や行動である。学齢未
満の幼児はまだ充分な言語能力がないので、時期的に早
いのだが、私はまず敬語についてふれておきたい。
 家庭のしつけの最大のものは言葉遣いである。戦後の
民主的な教育なるものは、何人(なんびと)も人権上平等
だからあえて尊敬する必要はない、という実に貧しい人
間関係を作った。学校の中を見廻しても、先生の中にさ
え敬語をきちんと使える方が減った。
「校長先生、どこへ行きますか?」
 などという声も聞かれる。母親たちは先生に対する尊
敬(私から言わせれば、先生である、というだけで尊敬
すべき人間関係)の念などないから、ホスト・バーのホ
ストに近いお手軽さで受けとめられている。
「××君がね、こう言うのよ」
 という××君は先生なのである。このような態度は、
自然に当の××君に対する時にもあらわれ、
「ちょっと、××先生!」
 などという呼びかけを平気でするのだが、この馴々し
い呼びかけ方に、先生側は反撥を感じていられるかどう
か。逆に自分は気さくだと思われ人気があると錯覚して
いらっしゃる方もありそうな風潮である。
 いきおい生徒に向って、自分に対しては敬語を使えな
どということを毅然と言える先生はなくなった。生徒は
家庭で、親たちが先生に対して尊敬を抱いていないこと
を知っているから、もしかりに先生が学校で敬語教育を
しようとでもしようものなら、たちまち総スカンを食う
であろう。
「どうして、先生に敬語を使わなきゃ、いけないのさ」
 まさに子供たちは正しい点を衝いているのである。敬
語の背景には他人に対する根源的な尊敬をこめた関心、
自分の能力に対する謙虚さといったものが必要とされる。
敬語が使えない親には二つの理由がある。一つは高慢な
人である。もう一つは不勉強な人である。そして親が敬
語を正しく使えない限り、子供は決して自由にそれを使
いこなすことはできない。 

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なぜ子供が敬語を使えないか
 高慢でひとをひととも思わぬ人の場合は今、別にしよ
う。これは救いようがないから、それはそれで放ってお
くほかはない。高慢でもなく素直でもあるのだが、自分
の育った家庭環境がいわゆる敬語を使うようなものでな
かったので、どういう時にどう言っていいかわからない
というコンプレックスを持っている前良な女性たちがい
る。
 この人々はおそらく読書が足りないのである。小説は
あらゆる階層の、あらゆる人々の生活を描き、言葉遣い
はそれらのものを多く読むことによってもかなり身につ
くのである。
 私は高貴の方々とのおつき合いはない上に、昔はやや
きちんとしていた言葉遣いも年々くずれて来てしまった
が、それでもいわゆる上流階級と言われている人々の会
話を聞く機会は度々あった。よく上流階級をからかう言
葉にザアマスという表現があるが、あれこそ上流階級を
知らない人々の思いつくことであろう。「ザアマス」は
「ございます」という発音のくずしである。上流階級と
いうのは、私たちと違ってくずさないことをもって特徴
としているのである。彼らは明晰にきちんと発音する。
「はあ」と言わないで「はい」と言う。
 上流階級の特徴は言葉の軽重の自由なことである。悪
い言葉も失礼な言い方も、時には伝法なふざけ方もでき
る。しかし節々はきちんと改り、親しき仲にも礼儀ある
ことを見せる。つまり使い方の範囲が実に広くなるので
ある。
 その点、敬語のない表現は短調である。どんな人に会
っても、
「おれがよう、昨日、畑から帰(けえ)って来た時によ、
村長さんがこの坂を上って来ただよ」
 式の言い方しかできない人は、悪気のないことはわか
るが、複雑な人間関係を持つことはできない。
 私が敬語について最初に味った絶望は具体的である。
息子が小学校の時であった。受持の女の先生から、お宅
の子供さんには裏表があると言われたのである。表裏は
悪いことではあるが、それについては私は又、少々別の
感じを持っている。表裏もないような人間が当節は多す
ぎるのである。が、その時、私が感じた疑念は我が息子
は表裏を持てるほど心情が大人だろうか、ということで
あった。彼は充分に、年相応に幼稚であった。
 私は先生に、「それは重要なことだから、どういう点
で、表裏があるとお思いになったのでしょうか」と伺っ
た。すると息子は先生に、友達とは違う言葉遣いで話し
かけるから、という答えであった。
 私は頑固な母親であった。私はすぐその日に息子に、
先生からどんな誤解を受けようとも断じて言葉遣いをく
ずさないように命じた。友人にも「××君、どこへ行く
の?」先生にも「先生、どこへ行くの」では日本語では
ない。それは英語である。他の言葉は知らないが、フラ
ンス語でも、ドイツ語でも、スペイン語でも、親しい相
手とそうでない純然たる他人に対する呼びかけは明らか
に違う。
 現代の教育は母親が敬語を教えないばかりではない。
先生の方でそうして言葉を破壊していくこともあるのだ
から、母親の方でガンバラなければならないのである。

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