絶望からの出発 私の実感的教育論


教育にお手軽な効果を期待しない  曽野綾子


今すぐ必要のない認識を身につけさせる
「貧乏人はいつも正直者」
  という御伽噺を信じてはいけない

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今すぐ必要のない認識を身につけさせる

 私自身、毎日の生活の中でなんとかして、できるだけ
働かずにウマイ事にならないものかと、ウロウロ考えて
いる方なので、あまり他人の事を言える義理ではないけ
れど、教育というものの根本は効果を期待してはいけな
いということにある。
 というとそれならば何のために算数や英語を習わせる
のかといわれるであろう。確かに通常教室で行なわれる
事は、まずたし算、ひき算が間違いなくできることなの
である。しかし、もしそのような数の計算が出来るだけ
を目的とするなら、それは必ずしも現代では勉強する必
要はない。いつかテレビで7ケタも8ケタもの数を一瞬
のうちに掛けたり割ったりする、天才的な少年が現れた
事があったが、2ケタのたし算さえしばしば間違える私
にも、電子計算機を与えられれば、この天才少年と同じ
くらいの速度で答えを出すことは出来るのである。
 教育というものはもっと全人的なものだと言われ、そ
れを口では親たちも先生たちも承認するのだが、事実と
なると、それらはまるで守られていない。模凝テストの
結果や有名校への進学率という形で、勝った敗けたでは
ないのですよ、といくら言ってもそれは耳に入らない。
 私は土木工事を見学するのが好きで、よく大きなダム
を作る現場を見学するのだが、私たち部外者が通常見て
いるダムというものは、ダムの本体やその附属設備のほ
んの一部である。ダムは言うまでもなく水を塞き止めて
作るわけだが、あの大きな堰堤を作るまでには、人々は
川の流れを変え、川底の土砂を取り去り、さらに弱い部
分を爆破し、安定した岩盤を出すまで掘る。さらにコン
クリートを打つ前に、ジェット水流で小石のかけらもな
いように掃除する。この後に行なわれる監督官庁の検査
を岩盤件さといい、この検査に通らないとコンクリート
を打ちはじめることは許されない。少なくとも、1世紀
以上の間、何億トンという水圧に耐えるためのダムは、
このようにしてムダではないかと思われるところに注意
を払い、余力を持たせて築かれていく。
 ダムが完成した時、私たちの目に触れるのは思いのほ
か薄い鉄筋コンクリートの壁だけである。しかしその内
部には、ダムが根本的に力学上のあらゆる圧力に耐えう
るだけの余力が内臓されている。
 教育も本来はそうでなければならないのである。大自
然の変化もある意味では予測しがたいところがあるが、
私たちの生きる生涯はそれよりもっと変化に富んだもの
といえるかも知れない。明治の初めの人は、第2次大戦
も原子爆弾もともに予測することは出来なかった。あれ
ほどの大量の死が人間の力でもたらされ得るとはだれも
考えられなかったであろう。私たちは今もまた、同じ立
場に立っている。
 予測しがたいことの耐えうる力をつけることが教育の
最終目的なのである。人間の心を強める要素は実にさま
ざまなものから成り立つ。歴史は原則と非原則を教え、
語学は情報をより広い地域から収集することを可能にし、
文学は計算もなにも出来ない理不尽な形で人間の心を力
づける。哲学と宗教は、あらゆる知識を結びあわせ燃え
上がらせる触媒の作用をし、心理学はそれらの学問が筋
道立てて考えているものの割れ目を警告する。
 私の知人に大へんな物知りがいて、どんな事でもたち
どころにしてその周辺の問題を教えてくれるという便利
な人がいる。この人物に言わせると、彼の頭の中にはた
くさんの引出しがあって、さまざまなものがつまってい
るのだが、一たび、一つの命題が与えられると、どの引
出しとどの引出しを開ければよいかが一瞬のうちに見え
るような感じなのだそうである。もっとも彼の引出しに
も、からのものが一杯あってそのうちの一つは文学なの
だと言う。私から見れば彼は人並以上には小説を読んで
いると思うのだが、それでも彼の自覚から見れば、文学
の引出しには、パラリパラリとしかものがつまっていな
いという風に思えるのだろう。
 私のように記憶も判断力も悪い人間は、この引出し人
間に会うとコンプレックスを感じ、ついで不愉快になり、
しかしすぐ諦めて、時々引出しを拝借しますからという
ところで落着く。教養とは何か、教育とは何を目的にす
べきかと言われると、私は一応知ったかぶりで答えるこ
とはあっても、本当はすぐに心の中でひそかに、そんな
もんじゃないだろうなあという感じがしている。しかし
ごく具体的にいうなら、教育とは今すぐ使う必要のない
(もしかしたら一生使う必要さえない)認識をそのような
形で身につける事なのかもしれない。実はこれは安全き
わまりないやり方で、火事地震風水害の時にもいっさい
運び出す必要もなく、当人が死なない限り失われる心配
のない財産である。「教育にお金をかけるだけが、本当
の投資ですよ」と言う人がいるが、それはこういう事な
のかと思ってしまう。
 ただし困った事には誰でもがこのような膨大な量の引
出しを持てるとはかぎらないし、さらに困ることには、
その人間がいわば「よき心根」とでも言うべきものも持
っていないと、それは単なる知識の堆積に終って、本当
の意味でそれを使いこなす事が出来ない。
「よき心根」と言うものをもう少し説明すると、それは
利己的でない、他の人間へのまったく無欲な愛情のよう
なものである。

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「貧乏人はいつも正直者」
  という御伽噺を信じてはいけない

 私はこれで20年間も小説を書いて来てしまった。す
ると口幅ったいようだが小説というものがどうしたら出
来るかという事については、少しは見通しのようなもの
をもつことが出来るようになったのである。このテーマ
なら短編でこういう風に書いて20枚とか、これだけの
事を長編で言おうとすると、こういう構成をとって、6
00枚ぐらいはいるだろうかという感じである。もっと
もそれさえもしばしば狂い、20枚の予定が17枚分く
らいしかなく、600枚の小説が1200枚にのびた事
もある。まあこの程度の誤算は目をつぶってもらう事に
しても、私が小説の作り方がわかったと言うのはあくま
で錯覚であり、職人的な技術の部分をさしているだけな
のである。
 本当の文学においては、1度自分のものにした技法は
たえず壊して行かなければならない。不可能な事ではあ
るが、理想としては一作一作、その作品にのみ合った文
体というものもあって、それを創っていかなければなら
ない。芸術においても、教養においても危険なのは、効
用性に堕する事である。
 このごろ時々、教育関係の本を見ていると気になるこ
とがある。それは、問題を提起し答えを三つほど並べて、
どれが正しいでしょうという形にもっていくやり方であ
る。
 たとえばこういう説明である。
「成績の悪い兄と、勉強家の弟がいます。兄弟の父は医
者でした。母親は何かにつけ、出来のいい弟に期待し、
後をついで医者にするのも弟と決めていました。母は弟
息子の方には、解剖の道具でも昆虫でも、どんどん買っ
て与えました。兄の方は半ば見捨てられて、ウサギを可
愛がる事で、心を慰めていました。
 ある時、弟が、兄のかわいがっているウサギを解剖し
てしまいました。兄が怒ると、
『しかたがないじゃないか、勉強のためなんだから』
 と言いました。兄はそれ以来動物を飼うのもやめまし
た。理由なく殺されてはかわいそうだからと言うのです」
 この記事には、たまたま、○×式の答えを出すように
なっていなかったが、おそらく教育の専門家にちがいな
い筆者は、兄の方を男らしい人間としている。好きな事
を弟のためにあきらめた事が男性的だし、弟の方は医師
になることを名目に、動物を殺しているという考え方で
ある。 
 私は一応も二応もこの見方に賛成だが、しかしそうば
かりも単純には言えないのである。第1にウサギは理由
もなく殺されたのではない。人間的に幼くはあっても、
弟の旺盛な興味の結果であった。さらに諦める事が男ら
しいかどうかもまた別問題である。世の中には常にこの
弟程度の、無茶な人間や外的困難がつきまとう事が普通
だから。ペット一つ飼うにしても、それらの苦難な状況
を排除しつづけてもなおそれを行なうという気力が大切
なのである。  

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