絶望からの出発 私の実感的教育論


簡単な心理学を覚えて応用する  曽野綾子

■なぜ子供がご飯を食べてくれないか
■道草の楽しみを奪った親たち
■誰でも禁じられると欲しくなる
              という簡単な心理学
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なぜ子供がご飯を食べてくれないか
 教育というものがもし、実際に子供の心身の成長に影
響があるとすれば――それが疑わしい、ということにつ
いては、私は折りにふれて書いて来たつもりだが――そ
れは現実に行動を経て行われねばならないのだから、今
日はそのことについて書こうと思う。
 言いわけをするようだが、これから私が言おうとする
ことは、きわめて「低級」なことかも知れない。しかし、
それすらも行われていないことがあるので、敢えてふれ
ようと思うのである。
 よく私は子供の心理を知らなさすぎると思う親に会う
ことがある。まだ小さい子に、無理やりに食べさせよう
とする母親である。
「さあ、××ちゃん、食べるのよ。食べて、大きな子に
なりましょうね。どれだけ、食べられるか、ママに見せ
て頂戴」
「××ちゃん、どうして食べないの? お願いだから食
べて頂戴。いい子ねぇ。さあ、食べましょう、ね」
 こういう時の母親の声くらい、いやらしく媚をふくん
だものはない。私は夜の酒場なる場所に、そうちょくち
ょく出入りする訳ではないが、客から金をまき上げよう
とタクラんでいるホステスだって、これほどに虚偽的な
声を出すのは聞いたことがないような気がする。
 私はこんな時、いつも自分の体験を思い出すのである。
下らない体験である。こんな所へ書くのさえ申しわけな
いほどの愚劣な体験である。
 私は今までに何回も中国料理をごちそうになった。夜
はごちそうを食べられるのだと思うと、私のような小人
は朝からそれに備えるのである。つまり、行く以上はよ
くお腹をすかせておいて、人一倍食べてこなければソン
だと思うのである。
 当然、朝食も軽く、昼ご飯も軽くか、もしくは食べな
いで夜に備える。
 さて、いよいよ待ちに待った本番になる。メニューは
ずらりと、十幾皿も出ることになっている。招待して下
さった方は当然、「さあ、たくさん召し上がって下さい。
今日はお腹いっぱい食べて頂こうと思ってますから」な
どと、嬉しいことを言って下さる。
 ところが、そう言われて、どのお料理も大皿にどっか
り出されると、あれほどまでに備えたにも拘らずどうも
不思議なことにあまり食べられないのである。朝の分と
昼の分を合わせると、これっぽっちということはある筈
がない、この倍も三倍も食べられる筈だ、と自分をシッ
タゲキレイしても、そう行かないのが奇妙なのである。
もっともこのような愚かしい体験を持つ人は私ばかりで
はないと見えて、或る時、貴重な忠告を受けたことがあ
る。お腹はすかせすぎると食べられないのだというので
ある。私には胃の生理学はわからない。とにかく本当に
食べようと思う人は、私のように浅ましく断食めいたこ
となどせず、むしろ、ふつうに食べておくべきだ、とい
うのである。

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道草の楽しみを奪った親たち
 胃の生理学はこの際別とする。私は眼の前に出たごち
そうを、意気ごんだほど食べられなかった理由を、心理
学だと考えているのである。もし、ごちそうがあまりな
く、招いてくれた人も、「さあ、お食べなさい」と言っ
てくれなかったら、私の食欲は実に執念深いほど亢進し
持続するのではないかと思われるのである。
 先にあげた母親は、子供の食欲をいかに殺すか、とい
うことに全力をあげているとしか、私には思えない。子
供の食欲を確実にかきたてる道は幾つかある。一つは親
がついて行けないほど運動させることによってお腹をす
かせることである。しかし、子供にバーのホステス以上
のごきげんとりをする親に限って、ちょっと駆け出せば
「転びますよ。危いわよ」を連発する。その結果、子供
は早くからオフィスに坐りっきりの重役のように運動不
足になり、心からの空腹を味うことがない。第二に、食
べさせたかったら、意地でも食べろ、と言わないことで
ある。親共は、食べたがらない子供はほうっておいて、
夫婦だけでさっさと食べることだ。できれば、少し演技
力をもって、「うん、これはうまい」「おい、もう少し
ないか」「でめですよ。これは××の分ですよ」「だっ
てあいつはどうせ食べないだろう。とっとくことないよ、
おれが食べる」くらいの会話があっもいいかも知れない。
 国語の点の悪い子でも、不思議と性的な書物だけはよ
くわかるように、幼い子でも、こと食欲に関する状況判
断だけは、意外と小さいうちからわかるものなのである。
 彼は自分の食料を奪おうとする存在があることを嗅ぎ
つけるや否や、猛然と、それを守る姿勢を示す。飽食し
た動物園のライオンなどというものは少しもライオンら
しくない。子供(も大人)も、本来いつも、食物を見ると
眼を輝かせるのが自然なのである。
 母親というものは、このようにして、まず子供の食欲
を封殺するという残酷なしうちを平気でする。食欲ばか
りではない、実は子供の他の意欲を奪うようなことさえ
平気でする。
 つい先日のことである。私たち夫婦は車で或る小学校
の前を通りかかった。
「あれえ、この頃の小学校は、バスで通学するのか。ふ
ざけてるぞ」
 夫は言った。それは雨の日だったから、バス亭は子供
たちの傘で、長い長い列ができていた。とうてい一台の
バスには入り切らないくらいの人数であった。私は私立
の小学校に通っていたので気がつかなかったが、考えて
みれば、公立の小学校というものは生徒がそれほど遠い
所から通って来る訳はないのである。恐らく小学校のバ
ス通学というのは、特殊な例は別として、親や学校の「
愛情」から出たものであろう。しかしそこに何か、子供
の欲望を封じる気配がないではないのである。
 私たちの幼い時を考えてみると、歩いて帰る子供につ
きものの道草というものは、実に大切な世界を持ってい
たのである。大ぎょうに言えば、子供はそこでターザン
のように自然を扱うことを覚えるのである。或るいは町
を見ながら歩くことによって、自然に人々の生活と、時
には心にもふれ得たのであった。
 雨の日の道草は、晴れた日の道草より更におもしろか
った。私たちは長靴でできるだけ深い水溜りを選んで渡
った。或いは泥水の流れを板切れでせきとめようとした。
或いはあわれな蟻を、わざとその流れにつき落した。そ
れらは人生のあらゆるできごとの縮図であった。
 今の親たちは子供からそのような夢を奪うのである。
それでも危険には換えられない、というのがその理論で
ある。私はそのバス亭からあとずっと、バス路線の道を
観察して行った。すると、きちんと分離された歩道が続
いていた。通学路は決して危険なものではないのである。
それでもなお親は一駅か、二駅か、せいぜい五駅を(と
いうのは、五駅のればその小学校は国鉄駅についてしま
う)バスに乗るのである。
 もちろん暴走車は歩道の上を歩いている子供をもなぎ
倒すかも知れない。今の時代には、人々は、とくに親た
ちは百パーセントの安全を要求する。そして、この世に
百パーセントの安全などという概念は言葉の上でしかな
いのだ、ということを決して承認しないのである、この
現実の生活に百パーセントの安全などあるわけがない、
などと言おうものなら「お前は、大企業の手先か」とや
っつけられるのがオチである。
 しかし何と言われようと、子供にとって百パーセント
の安全な育て方というものはないという真実にかわりは
ないのである。子供を生かすということは、どれだけ用
心しても子供をいつ死なせてしまうか、という危険と必
らず抱きあわせで、なされるものなのである。
 自ら危いことはしないという、いい子はこの頃かなり
殖えた。親としては喜ぶべきなのである。そういう子供
に対して意欲がない、忍耐心がない、依頼心が多すぎる、
というような文句は、まかりまちがっても言ってはなら
ない。なぜなら、子供が自分の世界を拡げないことを、
冒険をしないで安全な日常性のみを追求することを、雨
の日に歩くなどというバカなことをしないことを、望ん
だのは、まさに親たちなのである。

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誰でも禁じられると欲しくなるという簡単な心理学
 親の叱る言葉には、やはり、意識せずして実に無残な
ものがある。
「あなたって、本当にダメな子ね」
 と言われて、親から心がそれない子がいたら、それこ
そお目にかかりたいくらいである。私は、これでも親子
だろうが夫婦であろうが、はっきりした節度と礼儀を持
つべきだと考えているのである。というと私の親しい友
だとは私の日常生活ぶりを思い出してゲラゲラ笑う。た
しかに私は行儀はよくない。家にいる時は夫と息子と二
人の男を相手に喋り方も男言葉で、お世辞にも上品とは
言いかねる。ケンカも売られないうちから買ってもいい
くらいに考えているのは本当だけれど、それでも夫と子
供に言ってはいけない言葉というのはあるつもりなので
ある。
 私が自分に禁じているつもりなのは、彼らの才能を根
本からないと決めつける言葉である。言い方から見れば、
それは愛情だというかも知れない。しかし、一人の人間
の本質的な部分を全面的に拒否するような言葉がいい結
果を生むとは思えない。私がもし、けなされた当事者だ
ったら、私は平凡な心理的反応しか示さない子供だった
から、ふてくされて「どうせ、オレはだめなのさ」と全
くやる気をなくしてしまうだろう。子供がダメな子だと
思ったら、親たるもの一層舌によりをかけて褒めるべき
なのである。
「あんたは、私と比べたら、理数科できるね。おかしい
ね」
「母さんはどうだったの」
「アハハ。先生に、算術に関しては、お前、低脳じゃ、
と言われたものよ」
 息子は、あまり釈然とはしないであろう。それほどで
きない親と比べたらまだそもできる、というのでは、喜
んでいいのか、バカにされたと言って怒ったらいいのか
わからない。しかし少くとも、
「あなたは、本当に数学の頭のない子ね」
 と真向から言われるよりは、未来に希望があると、錯
覚できるのである。
 一口に言うと母親たちは、もっと心理学を学び、いや、
心理学的見地からみて言葉の遣い方について、素人っぽ
い配慮をすべきなのである。
 それは、それほど複雑なことではない。複雑なことだ
ったら、素人の私が考えつくことではない。ルールはほ
んの二つか、三つである。
 つまり人間は禁じられると欲しくなる、ということを
忘れてはいけないのである。楽園のエワは神から禁じら
れていなかったら、知恵の木の実にさして興味を持たな
かったかも知れない。やらないと言われるとほしくなり、
遊びなさい、勉強などしてはいけません、と言われると、
本を読むことも少しおもしろそうに思えてくるのである。
このヘソマガリ的気分は、程度の差こそあれ、誰にでも
あることをうまく利用すべきなのである。第2に少しで
もよいことをすすめ、励まし、力づけることである。他
人の美点をわかることは才能である。他人の悪い点に気
づくことはどんな凡人にもできる。この美点の発見と顕
彰という作業は、自然に、という程度では足りない、と
私は思っている。もっと積極的に、激しく、意識的に、
私たちはこれをしなければいけない。美点の発見はお世
辞や、おだてとは根本的に違うものである。お世辞は実
体のないものに対して発する言葉である。しかし美点を
発見して褒めるということは、通常それほど簡単なもの
ではない。それを完璧に、美しく果たすためには、私た
ちは常日頃、人間を見抜く眼を養っておく、いや、研い
でおかねばならないのである。
 他人を褒めることの大切さについては前にも書いたが、
褒められたことのない青年というものが今の時代には多
くなったのではないか、と私は思うことがある。褒めら
れたことのない青年の多くは、秀才でもないのだろうが、
決して人並みはずれた鈍才でもないのが普通である。本
当の鈍才は意外とその成育の過程で、褒められるチャン
スを持っているものなのである。
 問題は絶対多数を占める中間層である。つまり我々の
子どもたちである。彼らはそれよりできが悪い子どもか
ら比べれば、褒めてもいい点をたくさん持っている。し
かし秀才から比べると、悲しむべきマイナス点だらけな
のである。
 彼らをあるがままの状態で日向に出してやるか、劣等
感をおしつけて日蔭におし込めるかは、親たちのやり方
次第である。
「僕はね、国立大学に入る7課目なんて、とうてい受験
する気力ないのよ」
 平凡な我が家の息子は或る日言った。私はその頃息子
のフガイナサ、ダラシナサを嘆いてもよかったのであっ
た。しかし私はその時ふと自分のことを考えた。私にも
7課目を受けて見せる、と言い切れる自信はなかった。
私はまっぴらであった。私はもの覚えも悪く、理数科は
ことにだめだった。
「そうだろうね」
 私は言った。
「うちは、あんまりがんばる一家じゃないからね。だけ
ど、どこでもいいけど、入ってから、勉強するか」




 1人ひとり、調査したわけではないから違っているか
も知れないが、ハイジャックする青年を見ていると、私
はふと、彼らは褒められたことのなかった青年たちなの
ではないかと思う時がある。彼らは1人前かそれ以上の
能力を持っている子なのに、もしかしたら、親が高望み
をしたために、彼らが今得ている才能は大したもんじゃ
ない、お前の人生は失敗した、と思いこむようにさせら
れたのではないだろうか。親からも、社会からも、国家
からも褒められない時、人間は最後に誰でもいいから褒
めてくれる場所に近づくようになる。ゲリラの組織だけ
がそれを果してやった、と考えると妙につじつまが合う
のである。

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