絶望からの出発 私の実感的教育論


受験教育が招いた利己的な他罰精神



■先生に当たりはずれがあるか
■「不利益には黙っていない」ことを教える先生
■先生を告発してどんなトクがあるのか

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先生に当たりはずれがあるか
 たまたま先々月、私は朝日新聞社から発行されている
「のびのび」という教育雑誌の中で、大変意欲的な特集
を読むことができた。それは、「『先生の当たりはずれ』
をめぐって」というテーマであり、とり上げられている
のは、都内の某小学校六年三組の受け持ちの先生で、い
わゆる「はずれ」た先生とみなされるY先生とその父兄
の言い分にも欠落したところはあろう。
 頁の上で作られた状況は次のようなものである。六年
三組がだんだんおかしくなって来た。学校のことを口に
しない子もある。弱い子を殴ったり蹴ったりした。先生
の顔を見るのもいやだという子がでて来た。先生はヒス
テリックでやたらに立たせた。 
 私に表現力がないからだろう。こう書いて来ると、何
だかとめどがない。しかし当事者は不信感に満ち、憎し
みに燃え、とめどがないなどというものではない。恐ら
く地獄の思いに苦しんだらしいのである。
 そもそも、「先生の当りはずれ」というものがあるの
かどうか。編集部はきちんとその表現をカッコでかこっ
ているところを見ると、いちまつの疑念を持っているよ
うである。一人の自称「はずれ」派の先生にもエッセイ
を書かせ、教師の側からも、「当り教師の十ヵ条」を推
定させているが、二人とも、そのような言葉があること
に、違和感を覚えているらしい。
 私はこの記事を読みながら、或ることを思い出してい
た。それは数年前、一人の文化人類学者から聞いた話だ
った。
「我々が発掘に行きましてね、大切なのは隊員の心身の
管理なんです」
 この人は、そんなふうに離し出した。
「通常、外国へ行くと、生活も風土も食事も、いつもと
違ったものですし、中にはひどい僻地の場合も多い。そ
こで往々にして文化ショックが起るわけです。文化ショ
ックのあらわれは、初め胃や頭が痛んだり、気短かにな
ったり、まあ一般的に情緒不安定のような状況が見えて
来る。中でも一番はっきりしたものは、意味の拡大解釈
が行われることです。普通、我々は限定認識をする、あ
の男はだらしがない。しかし、だからといってあお男の
勤める会社は、立派な訳はない、とは思わない。しかし、
人間が疲れて神経が異常になってくると、何もかも悪く
なって来る。足を踏みつけられると、普段なら『イテ!
』『あ、ごめん』で済むことが、『あいつは、そもそも、
初めからオレのことをナイガシロにしてた』ということ
になる。そういう傾向が見えて来たら、管理者としては
用心しなけりゃならんのです。薬ですか? 薬はそうで
すね、軽い場合は酒、重度の場合は精神安定剤です」
 なぜ、私がこの話を思い出したかと言うと、この都内
某校の六年三組では、意味の拡大解釈が行われているか
らである。別の言葉で言うと、たかが担任の教師、たか
が父兄のことなのに、そう思えなくなっているのである。
初めから理想的な人間がいる訳はない。だから適当にお
互いに聞きのがしておけばいいことを、両者ともまじめ
人間なのでことが不当に拡大されるのである。たとえば、
Y先生に「家庭にも問題があるのではないか」と言われ
た母は、臨時父母会で次のように発言している。

母「子どもがいろいろご迷惑をおかけしまして、と先生
に申し上げたら、『ご家庭がみたい』とおっしゃいまし
た。私はうしろ指をさされるような覚えもないし、家庭
に対して自信を持っているつもりです。ほんとうにショ
ックで家に帰って泣きました。父母会にも絶対来ないつ
もりでしたし、顔も見たくありません」
Y先生「私はそんなつもりで言ったのではありません。
兄弟のこととか――」
母「つい先日も兄弟仲がよいとほめられたばかりで、思
い当たることはありません」
Y先生「本当に申しわけありませんでした」
 もちろんこれは感情的会話である。だから表現の拡大
はさし引いて考えねばならない。しかし、受け持ちの先
生くらいに「家庭がみたい」と言われたからと言って泣
かなければならぬこともないだろう。自信があるのなら
なおさらである。もしこの母が言う通りであるとすると、
問題はむしろこの家の中にあるだろう。家庭生活に絶対
の自信を持つ母、兄弟げんかなどしない兄と弟など、ど
れもかなり普通ではないからである。
 一方このY先生は「不利益には黙っていない」ことを
子供に教えた、と言う。教えただけではない、学級目標
にした、という。この先生はきわめて当世風である。な
ぜなら、今、世の中をあげて「不利益には黙っていない」
ことを要求する時代なのだから、この先生こそ、まさに
時代の代弁者たるにふさわしい人でどうして嫌われたか
わからないくらいである。
 しかし、ここで考えてみなければならないのは「不利
益には黙っていない」というモットーの背後にある考え
である。「不正には黙っていない」という言葉なら、私
たちは昔から、よく聞いている。しかし「不利益には黙
っていない」というのはどういうことなのだろう。
 自分の利益に反することには黙っていない、これは商
人の道徳としてならよくわかる。しかし、学校というと
ころは商法を教えるとこではあるまい。教育とは、(私
流の言い方をすれば)時分の不利益になることでも、時
には自己をさし出せる程度に、強く自由で人間として豊
かな考え方をできるように、自分を開発するのを目的と
する場所なのである。利益になることしかしないのだっ
たら、教育でも何でもない。それは技術である。悪意に
解せば、自分の不利益を避けるためなら、相手にどのよ
うなことをしてもいいのか、ということになる。

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「不利益には黙っていない」ことを教える先生
  或る時私は匿名の手紙を貰った。私が他人のために生
きるとか何とか言うが(私は自分が他人のために生きて
いるなどと言ったことはない。他人のために自ら損をす
る心を尊敬すると書いたまでである)あなたは、自分の
家が公共の道路のためにとられるとなったら簡単に開け
渡すか、渡しはしないだろう、と書いてある。
 なぜこのような立派な趣旨の手紙を匿名にしなければ
ならないのか、私にはわからなかった。私は人並みにケ
チで欲深な人間ではあるが、自分の家が道路のためにと
られる時は動くつもりである。まんざらタダで動けとも
言わないであろう。そのお金でどこか次の住む所を探せ
るくらいの補償がなされるなら、多少の損は仕方ないの
である。こういうと、恐らくこの匿名の手紙の主は、あ
んたは親から家を貰ったのでそんな甘いことが言えるの
だ、と言うかも知れない。私いろいろな理由から、親か
ら遺産を全く貰わないでやって来た幸運な人間であった。
私は全く何もないところから自分で働いて生活を築くと
いうおもしろさを味えた幸福な女なのである。それだか
らこそ、私は日本でも将来、土地の私有を認めない、と
いう制度ができてもいいと内心ひそかに思っているので
ある。こんな時に有名な古典など引用するのはキザで滑
稽なものだが、「私は裸で母の胎を出た。又裸でかしこ
に帰ろう」と思えるのは、私が家代々、父祖伝来の土地
や家や書画骨董を持っていないからだろうと思う。
 不利益には黙っていないことは別に悪くはないが、モ
ットーとするにはあまりに貧しすぎは市内か。恐らくY
先生はもっと別のことを考えているだろう、とは推測が
つく。人間が自分を犯されないで生活するのは人間とし
ての権利なのだから、公害や物価値上げの元凶になる大
資本の横暴に対して、不利益を受ける我々は黙っていな
い癖をつけよう、ということに違いない。   
 一九七○年代の半ばの今日においては、公害と大企業
と経済的横暴が、我々を犯す二大要素ということになっ
ている。それは本当でもあり嘘でもある。原始性と近代
産業や大資本の欠乏が、その国の貧しさの原因になって
いる国もまだこの地球上にはけっこうあるのである。し
かし私たちは自分の良い訳になるような部分のことしか
言わない。大資本の企業が利潤をあげることが悪なら、
私たちはまずそのような大会社から給与を受けず、その
会社の生産するものを一切使用しないことから始めるべ
きであろう。私は目下のところ大会社から給与は受けて
いないが、それでもその生産物を使用している。電気、
ガス、紙から、ラーメンに至るまで、私は感謝して使っ
ている。と言うと、公害に苦しむ人がでても、それらが
あった方がいいのか、という言い方がでる。それならば、
公害を告発する人はただちに大気汚染と、騒音のもとに
なるタクシーや飛行機や新幹線には一切のらず、大企業
の作る生産財や消費財を一切使わずに済んでいるのか、
と聞き返したくなる。つまり世の中はいいことと悪いこ
とのないまぜなのである。単一に悪いことだけ、という
ものは全くないと言っていい。九十九パーセントは悪で
ある戦争にさえ、そのような異常な事態においてしか見
られぬ人間の偉大さをあらわす機会を含んでいた。だか
らと言って私は戦争や公害を肯定するわけではない。
 望ましい面と望ましからぬ面とが、宿命的についてま
わるのが世の中の現象なのだが、望ましくない部分が多
すぎるものは避けなければいけないし、望ましくない面
は常になくすようにし向ければいいのである。それらの
ことは、進歩的人間であろうがなかろうが、最近では一
様に心を向ける癖が一般について来ているのである。

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先生を告発してどんなトクがあるのか

 この六年三組でおもしろいのは、子どもたちの座談会
である。かれらは自ら、Y先生を嫌いになったと言いい
ながら、同時に母親たちに示唆されたことを告発してい
る。母親がY先生などダメだ、と言うと、先生のパンに
白墨で「これはYの食べるパンです」と書いたりする。
 これらの登場人物の特徴は、一様に他罰的なことであ
る。或る母親は授業参観に来てみただけで《あんな教え
方はダメだ》と子供の前で批判する。それがわかるほど
の母親なら、自分が教えられるのではないだろうか。



 私は六年三組事件について、じぃぶん勝手なお喋りを
して来てしまった。私はそろそろ本筋に戻らねばならな
い。
 日本の教育界は、今、疲れ切って異常に精神のたかぶ
ったような状況にいる。意味の拡大解釈が行われ一触即
発の一歩手前である。それは教育と思われているものが、
実は入学試験用の教育技術と混同されたからである。技
術学校に功利を追う人々が投入されたから修羅場ができ
るのである。技術だとなると、これは技術的に先鋭化さ
れねばならない。ところが教育というのは、もっと複雑
で鈍重なものである。
 教師も、親も、生徒も、そもそも初めからいい加減な
ものである。こずるく、こうるさく、こざかしいもので
ある。

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