たまたま先々月、私は朝日新聞社から発行されている
「のびのび」という教育雑誌の中で、大変意欲的な特集
を読むことができた。それは、「『先生の当たりはずれ』
をめぐって」というテーマであり、とり上げられている
のは、都内の某小学校六年三組の受け持ちの先生で、い
わゆる「はずれ」た先生とみなされるY先生とその父兄
の言い分にも欠落したところはあろう。
頁の上で作られた状況は次のようなものである。六年
三組がだんだんおかしくなって来た。学校のことを口に
しない子もある。弱い子を殴ったり蹴ったりした。先生
の顔を見るのもいやだという子がでて来た。先生はヒス
テリックでやたらに立たせた。
私に表現力がないからだろう。こう書いて来ると、何
だかとめどがない。しかし当事者は不信感に満ち、憎し
みに燃え、とめどがないなどというものではない。恐ら
く地獄の思いに苦しんだらしいのである。
そもそも、「先生の当りはずれ」というものがあるの
かどうか。編集部はきちんとその表現をカッコでかこっ
ているところを見ると、いちまつの疑念を持っているよ
うである。一人の自称「はずれ」派の先生にもエッセイ
を書かせ、教師の側からも、「当り教師の十ヵ条」を推
定させているが、二人とも、そのような言葉があること
に、違和感を覚えているらしい。
私はこの記事を読みながら、或ることを思い出してい
た。それは数年前、一人の文化人類学者から聞いた話だ
った。
「我々が発掘に行きましてね、大切なのは隊員の心身の
管理なんです」
この人は、そんなふうに離し出した。
「通常、外国へ行くと、生活も風土も食事も、いつもと
違ったものですし、中にはひどい僻地の場合も多い。そ
こで往々にして文化ショックが起るわけです。文化ショ
ックのあらわれは、初め胃や頭が痛んだり、気短かにな
ったり、まあ一般的に情緒不安定のような状況が見えて
来る。中でも一番はっきりしたものは、意味の拡大解釈
が行われることです。普通、我々は限定認識をする、あ
の男はだらしがない。しかし、だからといってあお男の
勤める会社は、立派な訳はない、とは思わない。しかし、
人間が疲れて神経が異常になってくると、何もかも悪く
なって来る。足を踏みつけられると、普段なら『イテ!
』『あ、ごめん』で済むことが、『あいつは、そもそも、
初めからオレのことをナイガシロにしてた』ということ
になる。そういう傾向が見えて来たら、管理者としては
用心しなけりゃならんのです。薬ですか? 薬はそうで
すね、軽い場合は酒、重度の場合は精神安定剤です」
なぜ、私がこの話を思い出したかと言うと、この都内
某校の六年三組では、意味の拡大解釈が行われているか
らである。別の言葉で言うと、たかが担任の教師、たか
が父兄のことなのに、そう思えなくなっているのである。
初めから理想的な人間がいる訳はない。だから適当にお
互いに聞きのがしておけばいいことを、両者ともまじめ
人間なのでことが不当に拡大されるのである。たとえば、
Y先生に「家庭にも問題があるのではないか」と言われ
た母は、臨時父母会で次のように発言している。
母「子どもがいろいろご迷惑をおかけしまして、と先生
に申し上げたら、『ご家庭がみたい』とおっしゃいまし
た。私はうしろ指をさされるような覚えもないし、家庭
に対して自信を持っているつもりです。ほんとうにショ
ックで家に帰って泣きました。父母会にも絶対来ないつ
もりでしたし、顔も見たくありません」
Y先生「私はそんなつもりで言ったのではありません。
兄弟のこととか――」
母「つい先日も兄弟仲がよいとほめられたばかりで、思
い当たることはありません」
Y先生「本当に申しわけありませんでした」
もちろんこれは感情的会話である。だから表現の拡大
はさし引いて考えねばならない。しかし、受け持ちの先
生くらいに「家庭がみたい」と言われたからと言って泣
かなければならぬこともないだろう。自信があるのなら
なおさらである。もしこの母が言う通りであるとすると、
問題はむしろこの家の中にあるだろう。家庭生活に絶対
の自信を持つ母、兄弟げんかなどしない兄と弟など、ど
れもかなり普通ではないからである。
一方このY先生は「不利益には黙っていない」ことを
子供に教えた、と言う。教えただけではない、学級目標
にした、という。この先生はきわめて当世風である。な
ぜなら、今、世の中をあげて「不利益には黙っていない」
ことを要求する時代なのだから、この先生こそ、まさに
時代の代弁者たるにふさわしい人でどうして嫌われたか
わからないくらいである。
しかし、ここで考えてみなければならないのは「不利
益には黙っていない」というモットーの背後にある考え
である。「不正には黙っていない」という言葉なら、私
たちは昔から、よく聞いている。しかし「不利益には黙
っていない」というのはどういうことなのだろう。
自分の利益に反することには黙っていない、これは商
人の道徳としてならよくわかる。しかし、学校というと
ころは商法を教えるとこではあるまい。教育とは、(私
流の言い方をすれば)時分の不利益になることでも、時
には自己をさし出せる程度に、強く自由で人間として豊
かな考え方をできるように、自分を開発するのを目的と
する場所なのである。利益になることしかしないのだっ
たら、教育でも何でもない。それは技術である。悪意に
解せば、自分の不利益を避けるためなら、相手にどのよ
うなことをしてもいいのか、ということになる。
メニューへ戻ります
|