「読んできましたか」という検査官
私は今日、「教えるということ」を題にしました。な
ぜかと申しますと、「教える」ということをしない教師
がたくさんいて、困るからです。それでは、「教えない」
というのはどういうことなのでしょうか。
例えば、国語の場合、よくこういうことがあります。
まず、教室に子どもを入れて、開口一番、「読んでき
ましたか」という人があります。これは何も教えないと
いうことになりませんか。学校はあくまで「学校」で、
学習するところです。教室は学習室なのです。「家庭」
は学校の勉強をするところではありません。「生活の場
所」であって、勉強は、もしあるにしても、片隅に存在
しているでしょう。ないかもしれません。とにかく、「
家庭」は勉強室でないことは確実なことです。生活の場
なのです。そこは子どもにとって、勉強をもちこむこと
自体、多少の問題があるところなのです。
ところが、本来の学習室である学校を学習室にしない
で、「読んできましたか」というのは、「読む」という
いちばん大事なことは家庭でやるわけですから、それで
は家庭が勉強の場所になり、学校は検査室になります。
読んできたかどうかをみる検査室、読めるかどうか調べ
る所、おっかない場所ですね、学校は。私は、そういう
教師が多いということを、たいへん強く感じます。
みなさんはいかがですか。みなさんの学校時代に、「
読んできたか」と言われませんでしたか。「よく読んで、
上手に読めるようにしてこい」と言われたでしょう。
先生に読み方を習おう∞先生に字を教えてもらおう
と思って、一生懸命になって、「先生、おはようござい
ます」と教室にはいってきた子どもたち……。それなの
に、「読んできたか」と検査するというのは、先生の
面目いずこにありや≠ニ私は言いたくなります。
そして、読むことの学習では、「読むこと」がいちば
ん大事なのです。しかも最初の「読み」をみていなかっ
たら、あとをどうして教えるのですか。だれが早いか遅
いか、だれの目が一行飛ばすか、こういうことを知らな
くていいのですか。それをよく知らないでいて、どうや
って教えるつもりなのでしょう。子どものなかには、ど
うかすると五行くらいで飽きてしまう子どもがいます。
五行ほど読むとひと息いれてぽっかりしていて、また少
し読む。こんな集中力のない子どもがだれとだれなのか
おわかりでしか。一字一字見ている子どもと、ひとまと
まりのことばをちゃんととらえるように成長してきた子
ども、それはいつごろからかご存じですか。いつごろと
いえば、小学校にはいった始めごろ、すでにそうなって
くる子どもが、今、たくさんいます。ですけれども、三
年生くらいでは、もうそれは完全にできなければなりま
せん。字をとらえるのではなく、ことばをとらえること
です。その次、四年生ぐらいになりますと、文でとらえ
てくれないと困ります。一行飛びなんていうのはとても
困ります。
それから、唇が少し動いている子どもは、声帯を動か
して読んでいるのです。これは、小学校で受け取った時
はもう遅いかもしれません。これはお母さんの問題で
す。その子は、早く読めるようにならないというわけで
す。しかし、小学校で受け取った時、早く発見すれば、
まだ直せます。最初に読ませてみる時に、見つけてくだ
さい。早く見つけて、教師が飛びついて世話をしてやら
なければなりません。これは人数が多くてはできません
し、たいへんです。
それに、唇が動かなくても声帯が動く子がいます。声
帯が動くということは、やはり発声しているということ
です。声を出さないだけです。早く「黙読」の癖をつけ
るということは「読むこと」を速くするためです。今、
「情報化時代」という流行(はやり)ことばがありますが、
一日でも百冊ぐらいの本が出ているそうです。本を非常
にうまく選んで、しかも速く読めなければだめで、「読
書百ぺん、意おのずから通ず」というわけにはいきませ
ん。もちろん繰り返し、じっくり読むべき本、たとえば
『歎異抄』などという本もありますが、一方では、ざっ
と読むことで一日に五冊も六冊もこなさなければならな
いこともあります。そうしなかったら、どうしてこの情
報化時代を行きぬけますか、子どもたちが。その速く読
む力は、文字が一度意味になって、どんどん頭の中へは
いっていくことをいうのです。一度音声化されたら、「
音読」は絶対に「黙読」より遅いに決まっています。と
ころが、黙読できない子どもは、「黙って読みなさい」
と注意されても音声化してしまっています。
こうした子どもは、小学校一年のうちに絶対に直さな
いと、時機おくれになります。それで、そういうことを
発見したり、直したりするには、「家で読んでくる」の
ではだめです。ですから、「読んできましたか」と聞く
教師は、何も教えないで、いちばんたいせつなことを家
でやらしてしまっていることになります。ただ、検査官
として、どの子が読めるようになったかを音声化させて
聞いている。ペラペラと上手に暗唱するように読むと、
「よく読めました」という。しかし、ほんとうに「よく
読めた」のかどうか。それからその子が読んでいる時、
他の子どもはどうしていたこか。「黙って読め」といわ
れても、声帯が動いてしまう子どもに、その時教師はど
のように手当てをしたのでしょうか。このように、学校
でやるべきことをしないのを、「教えない」と私はいう
のです。
「教える」ということは、「読むこと」を教えること
ですから、最初に文章を読む感動、その感動をもって学
習にはいらなければなりません。いちばん感動すること
を家で、「おもしろいなあ」という調子でやってしまっ
て、学校へきた時は二度目で、しかも一時間になんべん
も読まされたりして……。なんと悲しいことでしょう。
だいたいなんべんも読むなんて、社会生活にはそんなに
あることでしょうか。ふつうは一ぺんしか読まないもの
なのに。まあ、小学校の小さいうちは、他のことも教え
なくてはなりませんから、なんべんか読むということも
ありますが、それは単なる方便にすぎないので、なんべ
んも読むということは、できるだけ早く卒業させてしま
わなければならないことです。繰り返し繰り返し読むの
がよい読みだなどと、子どもの本が日本中に十種類もな
かったような時代と同じ教室になるということは、私は
やはり、教師が「教えていない」からだと思います。
最初に本をあけて、感動をもって読む第一読は、学校
で感動をもってなされるべきではないでしょうか。そし
て教師は、そういう際に子どもの読む病気をどんどん発
見して手当てをすること、あの子にどうするかという案
をたてて、それぞれの指導をすること、それが「教える
」ことだと思います。……略……
黙って書かせる批評家
「教えていない」例をもう一つあげましょう。それはた
とえば、作文を家で書いてこさせることです。学校の学
習時間が少ないから、家で書かせるというのは、小学校
ではやや少ないようですけれども、中学校にはたくさん
あります。しかし書く時世話しないでどうするのでしょ
うか。また、学校で書かせるかたでも、個性を傷つける
といけないからなどと言って、
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