<starting>
風景ぜんたいがキラキラと光って、ハレーションをおこして
いる。
<ending>
立派な職についている二人の息子も、父にそんな気配はまっ
たく感じられなかったと言ったのだった。
〔『公務用ボールペン』干苅あがた〕
<starting>
もしも君が、ほんとにこの話を聞きたいんならだな、まず、
僕がどこで生れたかとか、チャチな幼年時代はどんなだった
かとか、僕が生れる前に両親は何をやってたかとか、そうい
った《デヴィッド・カッパーフィールド》式のくだんないこ
とから聞きたがるかもしれないけどさ、実をいうと僕は、そ
んなことはしゃべりたくないんだな。
If you really want to hear about it,the first thing
you'll probably want to know is where I was born, and
what my lousy childhood was like,and how my parents
were occupied and all before they had me,and all that
David Copperfield kind of crap,but I don't feel like
going into it,if you want to know the truth.
<ending>
話せば、話に出てきた連中が現に身辺にいないのが、物足り
なくなって来るんだから。
〔『ライ麦畑でつかまえて』J.D.サリンジャー
野崎 孝訳 「The Cather in the Rye」
Little,Brown and Company〕
<starting>
「えびをとりに行くの、ヴァンカ?」
<ending>
《ぼくは英雄でもないし、死刑執行人でもない……ちょっと
ばかりの苦痛と、ちょっとばかりの快感……ぼくが彼女に与
えたのは、それだけ……ただそれだけだった……》
〔『青い麦』コレット 手塚伸一訳〕
<starting>
三本足の犬が、通行人の足元を縫って歩いてきた。
<ending>
それはもはや丸い象牙の玩具ではなく、細長い棒から突き出
される邪悪なエネルギーにもてあそばれて、目に沁みるばか
りの鮮やかな緑色の小宇宙を輾転する、小さな切ない生命体
であった。〔『道頓堀川』宮本 輝〕
<starting>
ときおり彼は妻のことを思った。
<ending>
父親は床にかがみこんだまま苦痛に身をよじりながら、うな
ずいてみせた。
〔『闇の色』ジェイムズ・パーディ 越智道雄訳〕
<starting>
クローケーは、思いおこすと、どういうわけか、さまざまな
心象風景と結びついてくる、夏のゲームである。
<ending>
ブリックは、その後ろで、なんの意味もなく、愛想笑いをし
たり、うなずいてみせたりしていた。それはまさしく、シー
ザーか、アレキサンダー大王、ハンニバルのような古代の征
服者が、新たに征服した国の王侯を鎖につないで、首都の大
通りを引きまわしているような光景だった。
〔『追憶の夏』テネシー・ウィリアムズ 山本 晶訳〕
<starting>
森のいちばんこちらに近い端の輪郭は、ときには空の色より
もわずかに濃く、灰色がかった青い色で、中身のつまった壁
のように見えるのだったが、この日の午後は、ほとんど黒に
近く、そのうしろの空は鉛色に鈍く光っている白だった。
<ending>
天使が切りひらいてくれた輪のなかで予言者たちが踊ってい
るかのようだった。
〔『火のなかの輪』フラナリ―・オコナ― 須山静夫訳〕
<starting>
国電蒲田駅の近くの横丁だった。
<ending>
ゆっくりとした調子の、音楽のように美しい抑揚だった。
〔『砂の器』松本清張〕
<starting>
彼は林のなかの褐色の松葉の散りしいた上に、組みあわせた
腕にあごをのせて腹ばいになっていた。
<ending>
彼は、森の松葉の散りしく地面に押しつけられた心臓が、は
げしく鼓動するのを感じとることができた。
〔『誰がために鐘は鳴る』ア―ネスト・へミングウエイ
大久保康雄訳〕
<starting>
ひとりの単純な青年が、夏の盛りに、ハムブルクをたって、
グラウビュンデン州ダヴォス・プラッツへ向った。
<ending>
この世界を覆う死の饗宴の中から、雨の夜空を焦がしている
あの恐ろしい熱病のような業火の中から、そういうものの中
からいつか愛が蘇ってくるだろうか。
〔『魔の山』トーマス・マン 高橋義孝訳〕
<starting>
シチューキン市場の画商の店先ほど、人だかりのする所はど
こにもあるまい。
<ending>
居あわした者はみな長いこと狐につままれたような感じで、
実際にその不思議な目を見たのか、それとも単に、あまり長
い間古い絵ばかり眺めていたため目が疲れてしまって、束の
間そんな夢幻を見たにすぎなかったのかわからなかった。
〔『肖像画』ゴーゴリ著 北垣信行訳〕
<starting>
ある省のある局に……とだけ言って、なんの局なのか、はっ
きり名ざさずにおいたほうがいいようだ。
<ending>
もっとも、この亡霊は背もはるかに高いし、ひどく大きな口
ひげをたくわえていて、どうやら、オブホフ橋のほうへ足を
むけたようだったが、それっきり宵闇のなかに姿をかき消し
てしまったということである。
〔『外套』ゴーゴリ著 北垣信行訳〕
<starting>
町 長 みなさん、みなさんをこうしてお呼び立てした
のは、大変いやなことをお知らせするためです。
この町さ検察官が乗りこんで来るんだそうです。
<ending>
憲 兵 特命によってぺテルブルグより来られたお役人
が、即刻みなさんのご出頭を求めておられます。
その方は旅館に御泊まりであります。
(この言葉に、一同雷に打たれたようになる。婦人たち
の口から驚きの声が異口同音に飛びだす。全員、突如
姿勢を変えて、硬直状態になる)
〔『検察官』ゴーゴリ 北垣信行訳〕
<starting>
きょう、ママンが死んだ。
<ending>
一切がはたされ、私がより孤独でないことを感じるために、
この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見
物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだ
った。
〔『異邦人』アルベール・カミュ 窪田啓作訳〕
<starting>
冬の太陽は乳色にかすれて厚い雲におおわれたまま、狭い町
の上にわずかにとぼしい光を投げていた。
<ending>
そこには憧れと、憂鬱な羨望と、それから少しばかりの軽蔑
とあふれるばかりの清らかな幸福感とがあるのです。
〔『トニオ・クレーゲル』トーマス・マン高橋義孝訳〕
<starting>
この数年来、小畠村の閑間重松は姪の矢須子のことで心に負
担を感じて来た。
<ending>
どうせ叶わぬことと分っていても、重松は向うの山に目を移
してそう占った。
〔『黒い雨』井伏鱒二〕
<starting>
八月、ひどく暑いさかりに、この西松原住宅地に引越した。
<ending>
できなかった・・・・・・。
〔『海と毒薬』遠藤 周作 〕
<starting>
高校二年生の山本太郎は、世の中の大ていのことに機嫌のい
い、典型的な都会っ子だが、一つだけときどき気分によって、
気にくわないものがあった。
<ending>
その下の言葉はついに口に出ず、太郎はアノラックの背を心
もち丸めながら、薄い冬の日にうたれていた。
〔『太郎物語』(高校編) 曽野綾子〕
<starting>
クラッチを踏んで、ギアを低速に入れかえる。
<ending>
無意識のうちに、ぼくはその薄っぺらな猫のために、名前を
つけてやろうとし、すると、久しぶりに、贅沢な微笑が頬を
融かし、顔をほころばせる。
〔『燃えつきた地図』安部公房 新潮社〕
<starting>
[おかめさん]中央区蛸薬師通富小路東入ル、みなもと旅館。
<ending>
「この人たちが大人なんだ」と一郎は思った。
〔『少 年』 ビート たけし〕
<starting>
[スタンド・バイ・ミー]なににもまして重要だというもの
ごとは、なににもまして口に出して言いにくいものだ。
<ending>
そしてわたしもまた、そうだ。
〔『スタンド・バイ・ミー』スティーヴン・キング
山田順子訳〕
<starting>
感化院へ送られるとすぐ、おれは長距離クロスカントリー選
手にさせられた。
<ending>
それだけはよくわかっている。
〔『長距離走者の孤独』A・シリトー
訳 丸谷才一、河野一郎〕
<starting>
人々は生きるためにこの都会へ集まって来るらしい。
<ending>
しかし、神はまだなかなか彼を愛そうとはしないらしかった。
〔『マルテの手記』R・M・リルケ 大山定一訳〕
<starting>
ものうさと甘さとがつきまとって離れないこの見知らぬ感情
に、悲しみという重々しい、りっぱな名をつけようか、私は
迷う。
<ending>
悲しみよ こんにちは。
〔『悲しみよ こんにちは』フランソワ―ズ・サガン
朝吹登水子訳〕
<starting>
省線三宮駅構内浜側の、化粧タイル剥げ落ちコンクリートむ
き出しの柱に、背中まるめてもたれかかり、床に尻をつき、
両脚まっすぐ投げ出して、さんざ陽に灼かれ、一月近く体を
洗わぬのに、清太の痩せこけた頬の色は、ただ青く沈んでい
て、……
<ending>
昭和二十年九月二十二日午後、三宮駅構内で野垂れ死にした
清太は、他に二、三十はあった浮浪者の死体と共に、布引の
上の寺で荼毘に付され、骨は無縁仏として納骨堂へおさめら
れた。
〔『火垂るの墓』野坂昭如〕
<starting>
死刑囚!
<ending>
四時!
〔『死刑囚最後の日』ヴィクター・ユーゴ
豊島与志雄訳〕
<starting>
昭和二十一年四月、たしかその日は十三日ではなかっただろ
うか。
<ending>
あたたかい、風一つない春の夜であった。
〔『道ありき(青春編)』三浦綾子〕
<starting>
銀蔵爺さんの引く荷車が、雪見橋を渡って八人町への道に消
えていった。
<ending>
風がやみ、再び静寂の戻った窪地の底に、螢の綾なす妖光が
人間の形で立っていた。
〔『螢 川』 宮本 輝〕
<starting>
堂島川と土佐堀川がひとつになり、安治川と名うぃ変えて大
阪湾の一角に注ぎ込んでいく。
<ending>
熱い欄干の上に手を置いて、曳かれていく舟の家と、そのあ
とにぴったりくっついたまま泥まみれの河を悠揚と泳いでい
くお化け鯉を見ていた。
〔『泥の河』宮本 輝〕
<starting>
昔むかし、ふたりの貧しい樵が、大きな松林を通って家路に
ついていました。
<ending>
星の子の位をついだ男は、悪政をしきました。
〔『星の子』O・ワイルド〕
<starting>
毎日、夕方になると、若い漁師は海へ漕ぎ出しては、網を投
げ入れました。
<ending>
例の入江にも、前にはよくきたのに、海の族はやってきませ
んでした、海のまたどこかよそへ行ってしまいましたから。
〔『漁師とその魂』O・ワイルド〕
<starting>
「赤いばらを持ってきてくださったら踊ってあげましょうと、
あのひとは、言ったんだ」若い学生は叫びました。
<ending>
それで学生は自分の部屋へ帰ると、埃だらけの大きな本を引
出して、読みはじめるのでした。
〔『ナイチンゲールとばらの花』O・ワイルド〕
<starting>
町の空高く、高い円柱の上に、幸福な王子の像が立っていま
した。
<ending>
「おまえの選択は正しかった」と神様は言われました、
「天国のわたしの庭で、この小鳥が永遠に歌いつづけるよう
にし、わたしの黄金の町で幸福な王子がわたしを賞めたたえ
るようにするつもりだから」
〔『幸福な王子』O・ワイルド 西村孝次訳〕
<starting>
新しい年は昼食で明けた。
<ending>
モーリスはフランス語で挨拶を繰り返した。「ボン・ナネー」
〔『南仏プロヴァンスの12か月』〕
<starting>
推古天皇の御代、上宮太子が摂政として世を治めてをられた
飛鳥の頃は、私にとつて最も懐しい歴史の思ひ出である。
<ending>
美術の本をかゝへて夢殿へ行くためには何の苦惱もいるまい。
〔『大和古寺風物誌』亀井勝一郎「斑鳩宮」
<starting>
私の記憶の本の中でそこからまえの部分はほとんど読めない
あたりに「新生ここに始まる」と朱色で書いた表題がある。
<ending>
「代々にいたるまで限りなく祝せられる」者の御顔を、栄光
のうちに眺めているかの恩寵にみちみちたベアトリーチェを。
〔『新生』ダンテ 野上素一訳〕
<starting>
万物を動かすものの栄光は
宇宙をあまねくつらぬいてはいるが
輝きは一部で強く他では弱い、
私はその聖光をもっとも受ける天へ行って
もろもろの物を見たが、その高みから下ると
それを語る方法も能力もなくなった。
<ending>
私の高い空想力はここにいたって力が不足した、
しかしすでに私の願望と意思とは、さながら
等しく廻る輪のように太陽ともろもろの星を
動かす愛によって廻っていたのである。
〔『神曲』ダンテ「天堂篇」 野上素一訳〕
<starting>
あのような残酷な海をあとにして
もっと善い海を走るために、今私は
私の才能の小舟の帆をあげよう。
<ending>
さて、あのいとも聖なる波から戻ると
私はまるで若葉が萌え出でて新しく
なった若木のようにすべてが改まり、
純真でまたもろもろの星へ昇るにふさわしくなった。
〔『神曲』ダンテ「浄罪篇」 野上素一訳〕
<starting>
私たちの人生行路のなかば頃
正しい道をふみはずした私は
一つの暗闇の森のなかにいた。
<ending>
案内者と私は明るい世界へもどるために、
この地下道へ足を踏みいれ、すこしの休憩さえ
とろうとしないで、彼が先頭にたち、
私がその後につづいて、円形の美しいものを
見るまで、上へ上へと登りつづけた。ついで
そこから外へ出て私たちは再び星を仰いだのだった。
〔『神曲』ダンテ「地獄篇」 野上素一訳〕
<starting>
私が、はじめて天城を越えたのは三十数年昔になる。
<ending>
三十数年前の私の行為は時効にかかっているが、私のいまの
衝撃は死ぬまで時効にかかることはあるまい。
〔『天城越え』松本清張〕
<starting>
三岡圭助がぬいと一緒になったのは、明治四十二年、彼が二
十二歳、ぬい二十歳、の秋であった。
<ending>
彼女をよろこばすどのような幻聴があったのであろうか。
〔『菊 枕』――ぬい女略歴――松本清張〕
<starting>
昭和十五年の秋のある日、詩人K・Mは未知の男から一通の
封書をうけとった。
<ending>
田上耕作が、この事実を知らずに死んだのは、不幸か幸福か
わからない。
〔『或る「小倉日記」伝』松本清張〕
<starting>
He was an old man who fished alone in a skiff in the
Gulf Stream and he had gone eighty-four days without
taking a fish.
<ending>
The old man was dreaming about the lions.
〔『老人と海』アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ〕
<starting>
その男が乗って来たとき、だれも注意を向けなかった。
<ending>
ケン・シェフタンの息絶えたハーレムの一角は、ニューヨー
クの営みから切り放されたように信じられない静寂の底にい
つまでも沈んでいた。
〔『人間の証明』森村誠一〕
<starting>
大田太郎は山口の紹介でぼくの画塾へくることになった。
<ending>
窓から流れ込む射光線の明るい小川のなかでぼくはふたたび
腹をかかえて哄笑した。
〔『裸の王様』開高健〕
<starting>
飼育室にはさまざまな小動物の発散するつよい匂いがただよ
っていた。
<ending>
「やっぱり人間の群れにもどるよりしかたないじゃないか」
〔『パニック』開高健〕
<starting>
町は小さくて古かった。
<ending>
煉瓦をおろし、砂漠へ行こう。
〔『流亡記』開高健〕
<starting>
夕方、ベッドのなかで本を読んでいると、ウェイン大尉が全
裸で小屋に入ってきた。
<ending>
森は静かだった。
〔『輝ける闇』開高健〕
<starting>
歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。
<ending>
彼はあの冒険を切り抜けたのが自分の力であることを知って
いた。
〔『潮騒』三島由紀夫〕
<starting>
井沢恵子は門を出た。――
<ending>
今では幻影にしかすぎなくなった冒険が懐かしくもあった。
〔『美しき闘争』松本清張〕
<starting>
あと数分で、二月九日(一九六七年)の午前零時を迎えよう
としていた。
<ending>
私たちは腕時計の針を一時間すすめて、解放区時間からサイ
ゴン時間に合わせた。
〔『戦場の村』本多勝一〕
<starting>
おびただしい人々の頭が、まもなく明けようとする薄病みの
なかで、ゆっくりと上下している。
<ending>
フロアの上を這っていた風が一瞬、ふわっと舞い上がって、
手を組み合っている私と弥生にまとわりつき、生まあたたか
い感触をのこして吹きぬけていった――。
〔『上海ララバイ』村松友視〕
<starting>
水を切る静かな櫓音……。
<ending>
利休の死はその意味からも、まことに象徴的だったといえる
のである。
〔『利休 破調の悲劇』杉本苑子〕
<starting>
その日、「森むら」へ勤めるようになって初めて四谷の下職
の家まで使いに出された萬理子は、馴れないので手間をとり、
帰りのバスで銀座へ向ったのは日暮であった。
疲れた目で窓から外をみると、バスは半蔵門にさしかかって、
宮城の濠端がゆったりと現れた。
<ending>
待つ兄と飛びこむ妹との幻影を抱きながら、束の間の幸福を
描くのであった。
〔『築地川』芝木好子〕
<starting>
日本画家滝川清澄の「葛飾暮色」が文展に出品されたのは、
大正四年秋のことで、同じとき上村松園の「花がたみ」も並
んで、ともに賞に入った。
<ending>
祖母がすでに亡くなっていてよかったと思い、長い前途に立
向う気持ちであった。
〔『葛飾の女』芝木好子〕
<starting>
ミクロネシアのその島の、柱と草葺きの天井だけでできてい
る空港建物は、熱い、灰色の霧のような雨の中に煙っていた。
<ending>
再び、めくるめくような、打ちのめすような熱帯の太陽の下
を、男の後からエアポートに戻る道のりを歩きながら、女は、
彼女についに与えられなかったこの美しい島での余分の1週
間について、痛切に惜しんでいる自分の心を、もてあますの
だった。
〔『エアポートは、雨』森 瑤子〕
<starting>
小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが
泣きながら渡っていた。
<ending>
「堪忍してくれよ栄ちゃん」と雨戸の外で云うのが聞えた、
「おふくろがいま息をひきとるか、いまひきとるかっていう
ありさまで、つい今日まで延び延びになっちまったんだ、悪
かったよ栄ちゃん、勘弁してくれ、おらだよ、ここをあけて
くんな、さぶだよ」。
〔『さ ぶ』山本周五郎〕
<starting>
「はい、」トウェーンさま、わたしの身の上のことであなた
様のお聞きになりたいことは何なりとお話しいたしますわ」
と彼女は正直そうな目をあだやかに私の顔にすえながら静か
な声で言った、「だって、わたしを気に入って下すって、わ
たしのことを聞きたいと仰るあなた様はご親切でお優しいん
ですもの」
彼女はさっきから小さな骨のナイフで、頬についた鯨の脂を
こすり落とし、それを毛皮の袖になすりつけながら、北極光
が空から燃えるような光を投げかけているのをぼんやり眺め
ていた。その射光は孤独な雪原と神殿のような氷山を美しい
虹の色に染め、ほとんど筆紙に尽くせないほど輝きわたる壮
観を展開していた。……
<ending>
このようにしてあわれな娘のつつましやかな短い物語は終っ
た――この物語によって私たちの学ぶべきことは、ニューヨ
ークの一億ドルと、北極圏の辺境の二十二本の釣り針が、同
じように金銭標準の最高を代表するとしたら、釣り針が十セ
ントで買えるニューヨークに残って苦しい境遇にとどまり、
移住しないでいる者は馬鹿だということである。
〔『エスキモー娘のロマンス』マーク・トウェーン
古沢安二郎〕
<starting>
『トム・ソーヤーの冒険』って本を読んだことのねえ人だっ
たらば、おらのこともしらねえだろう。
<ending>
おしまい。
あんたの忠実な
ハック・フィン
〔『ハックルベリー・フィンの冒険』マーク・トウェーン
野崎孝訳〕
<starting>
私たちが自習室で勉強していると、そこへ校長が、平服を着
た「新入」と、大きな机をかついだ小使いを連れてはいって
きた。
<ending>
彼は近ごろ名誉勲章をもらった。
〔『ボヴァリー夫人』フローベール 伊吹武彦訳〕
<starting>
ジャーヌは、自分の荷造りをすまして、窓のところへ行って
みたが、雨はやんでいなかった。
<ending>
「なんのはや、世の中というものは、そんなに人の思うほど
善くもなし悪くもなしですわい」。
〔『女の一生』モーパッサン 杉 捷夫訳〕
<starting>
一七九六年五月十五日、ボナパルト将軍は、ロジ橋を渡って
シーザーとアレクサンダーが幾多の世紀を経て一人の後継者
をえたことを世界に知らしたばかりの、あの若々しい軍隊を
ひきいてミラノに入った。
<ending>
かれらは大公の政府をトスカナの大公たちの政府に比較する
のであった。
〔『パルムの僧院』スタンダール 生島遼一訳〕
<starting>
一八二×年の春のことである。
<ending>
新聞の報道によると彼女はリヴィオ・サヴェリ公爵といよい
よ結婚したそうである。
〔『ヴァニナ・ヴァニニ』スタンダール 生島遼一訳〕
<starting>
夜明けまえの暗闇に眼ざめながら、熱い「期待」の感覚をも
とめて、辛い夢の気分の残っている意識を手さぐりする。
<ending>
すくなくともそこで草の家をたてることは容易だ。
〔『万延元年のフットボール』大江健三郎〕
<starting>
メイ・ストーム、五月初旬に日本列島を襲う、あの爽やかな
低気圧が東方洋上に去るのを待ちかねて、ぼくは特急「出雲」
にとび乗った。
<ending>
まったく、ゆれなし。
〔『隠 岐』田村隆一〕
<starting>
風邪が吹くと寒い。
<ending>
鳴り終ったあと、兆治は、フューッという女の啜り泣きが受
話器から洩れて聞こえてきたように思った。
〔『居酒屋兆治』山口 瞳〕
<starting>
ことしの夏末に、大連から瀋陽へ行ってきた。
<ending>
五十年近く経ってしまうと、ほとんどの四十八年前、ぼくが
乗った「のぞみ」が本渓湖あたりで夜をむかえ、凍った雪原
を走っていた夜空もかすかにうかぶのだけれど、あの夜のか
くれて見えなかった月が、四十八年目にのぞいたのだった。
〔『瀋陽の月』水上 勉〕
<starting>
ここは大森山王の木原山、うっそうたる緑に囲まれ、耳を聾
するばかりの蝉時雨のなかで、たったいま取り込んできた洗
濯物をたたんでいると、すうーっと眠気がさしてくる。
<ending>
声をかけられなくともそれは小鈴が最後の見廻りにやってき
たことは判っており、何やら身内のひとりがあらわれたよう
な親しさで、汀子は指先でゆっくり涙を拭った。
〔『菊亭八百善の人びと』宮尾登美子〕
<starting>
デパートのハンドバッグ売り場というところは、男にとって
実に腹立たしい場所だ。
<ending>
次の瞬間、別れた妻はデパートの雑踏の中に消えていた。
〔『別れた理由』森 瑶子〕
<starting>
信号が変わったので、反射的に横断歩道を歩きだした、まさ
にその時、塩見は反対側から来る妻の姿を見かけた。
<ending>
ホテルのバーでウオツカ・トニックを飲んでいた方の女は、
とうてい塩見の手におえそうにもなかったからだ。
〔『見かけた妻』森 瑶子〕
<starting>
閉店まぎわのデパートの食料品売り場は、たいていひどく混
雑している。
<ending>
藤田は我にかえって、千二百円を払い、ごったがえす人々の
群れから歩み出た。
〔『エアメイル』森 瑶子〕
<starting>
ミクロネシアのその島の、柱と草葺きの天井だけでできてい
る空港建物は、熱い、灰色の霧のような雨の中に煙っていた。
<ending>
再び、めくるめくような、打ちのめすような熱帯の太陽の下
を、男の後からエアポートに戻る道のりを歩きながら、女は、
彼女についに与えられなかったこの美しい島での余分の1週
間について、痛切に惜しんでいる自分の心を、もてあますの
だった。
〔『エアポートは、雨』森 瑤子〕
<starting>
美也子の夫は、妻との別居にようやく踏み切る決心がついた。
<ending>
美也子の背後でエレベーターの扉が静かに閉まった。
〔『別れの朝』森 瑶子〕
<starting>
蒸し暑い夜が続いていた。
<ending>
おかげで、なんとなく一人でおかしくなってニヤニヤしてい
る顔を、男に見られずに済むと佐枝子は思った。
〔『ナイトシアター』森 瑶子〕
<starting>
七月の宵の口。
<ending>
七月の金曜の夜のことだった。
〔『金曜日の女』森 瑶子〕
<starting>
夜の六本木には何があるのだろう?
<ending>
ハハハハと喉をのけぞらせる響子を、むこうから来る男女が
気味悪そうにみつめてすれ違った。
〔『誘われて』森 瑶子〕
<starting>
女は贈り物されるのが好きだ。日頃から心憎く思っていない
相手から、誕生日でもなんでもないある日、深紅のバラの花
束が三十本ばかりばさりと届けられたりしたら、恋のボルテ
ージは一気に上昇すること、まちがいなしだ。
<ending>
歩み去る前に、敬介は灰皿の中の指輪にチラと視線を落とし
たが、黙って歩きだした。
〔『宝 石』森 瑶子〕
<starting>
圭子のマンションまで来てしまった時になってようやく、阿
里子は電話をかけずにいきなりやってきたことを少し後悔し
ていた。
<ending>
来た時よりも、いっそう重い足取りで、彼女はエレベーター
にむかった。
〔『夫の恋人』森 瑶子〕
<starting>
庄司三郎にふと絵葉書でも出してみようかという気になった
のは、麻耶子の傷がすっかりとはいわないまでも、かなり癒
えた証拠である。
<ending>
自分が今何をしているのか全くわかっていない様子だった。
〔『絵葉書』森 瑶子〕
<starting>
岡田三治がが、妻の考子と、その大根畑の中の土地に、小さ
な家を建ててもう二年になる。
<ending>
岡田は今、妻の存在だけを、不気味に安定した海のように、
大きく深く感じていた。
〔『青い水差し』曽野綾子〕
<starting>
東京港は夕暮れであった。
<ending>
その時雨は驟雨に変った。
〔『室蘭まで』曽野綾子〕
※《その時雨は驟雨に変った》は《そのとき雨は驟雨に変っ
た》のほうがいいと思う。その時雨(しぐれ)は……と読まれ
そうなので。
<starting>
チェラティン・ビーチの凪は二昼夜続いた。
<ending>
ふりかえると、何マイルも続く海岸線は全く無人で、ただ彼
女の足跡だけがココ椰子の林の方へと続いているだけだった。
〔『スコール』森 瑶子〕
<starting>
女は新しい煙草にライターの火をつけて、カウンター・バー
の後の時計を見た。
<ending>
その週は男からの電話はなく、次の土曜日には、女はホテル
のバーへ出かけて行かなかった。
〔『教職の女』森 瑶子〕
<starting>
夕方の七時をとっくに過ぎているのに、湖の上にはまだ西日
が射している。
<ending>
そこで彼女は湖岸に接した道の端に車を寄せてエンジンを切
ると、じっと湖面に動かぬ視線を注いだ。
〔『湖』森 瑶子〕
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