私はこれから、確かに教育について或る種のエッセー
を書こうとしてはいるのだが、それは、私が教育につい
てわかっているつもりだからでもなく、自信があるから
でもないことを先に述べておかなければならない。
私は今年大学一年になる息子を一人だけ育てた。今日
までの所、彼は大体人並であり、法にふれるようなこと
もしていない。それだからこそ私はこういう所で、教育
に関するエッセーを書くお許しを得たのだろうと思う。
それが世間の常識というものである。しかし、私の息子
は明日にもケンカのあげく人を殺すかも知れないし、酔
っ払い運転で人をはねるかも知れない。その場合、私は
一人の母として、教育について言う権利をさしとめられ
そうである。
しかし、そんなものだろうか。子供がさまざまな形で
ぐれてしまった母がいるとして、その母は果して教育的
でなかったのだろうか。
事はそんなに簡単ではないのである。むしろ、その母
は普通の母より教育的であり過ぎたから、子供はぐれた
のかも知れない。
私が小さな教育に関するエッセーを書こうと思ったの
は、或る意味では、世の中を教育的と言われているとい
うことで、どうも自分の心にしっくりと定着しないもの
が多いからであったかも知れない。本当にそうなのだろ
うか。それなら私はどうもダメだ、と思うことがよくあ
る。
もちろん、私は決して謙譲でも素直でもないから、こ
のあたりでそろそろ地を出すのである。なあに、これば
かりがやり方じゃない。教育に定型なし、である。私の
やり方だってマンザラ悪くないのではないか……
自己肯定と自己否定は、同じくらい大切なものである
らしい。自己肯定だけの人間は、やり切れないが、自己
否定だけしていると、生きていられないからである。私
は自信を失いながら、居なおる。居なおりながら、実は
内心から決して自信満々なんじゃないんだけどなあと、
考える。恐らくこれからこのエッセーを書きながら、こ
の私の二つの顔が交互にのぞくであろう。自己肯定の顔
も醜く、自己否定の表情もいやらしいものである。しか
し、それならばどうして生きたらいいのかわからないか
ら、私はこの矛盾した二つの弱点を、醜悪な人間の一つ
の顔として自然に覗かせてしまう。お許しを頂きたい。
私は素人として、第一の疑問からゆっくり考えてみた
いと思う。果して教育は可能かということである。
私は今、我が家の小さな書庫に降りて行きしかるべき
本を探せば、この点に関する幾つかのきちんとした答え
はたちどころに見出せるであろう、と思う。しかし、私
は廻り道であっても、答えが出なかろうと、今、自分の
実感からだけ考えてみたいのだ。
教育は可能か、ということについて、「可能である」
という答えはまず、私の中に浮び上って来る。
私はこの頃、祖父から父へ、父から息子へと三代を同
じ仕事に生きた家系によく出合うようになった。この場
合、かなりよくできた三代目は実に闊達である。その仕
事の虚しさ愚かしさも知り抜いたところから足を踏み出
そうとしていて危げない。少しよくできた三代目は非常
に用心深い。その職業につきものの危険が、あらゆる角
度から見えすいているからである。
いずれにせよ、それらは、人為的に揃えられた材料を
うまく使った教育によって、他人よりも早く深く、その
道について知り、考え得るようになることを示している。
それならば、それらの有効な材料も持たず、教育的意
図も何もない環境におかれた場合の人間は全くだめにな
るかというと、そうでもないのである。
怠けものの父と、酒乱の母親との間に生まれた息子と
して育ち、常識的に見ると、子供の足を引っ張るような
ことしかしなかったように見える両親をかかえながら、
人並み以上の教養を身につけ、人並み以上の仕事をした
人を私は知っている。この場合、そのような両親の生活
から脱け出すこと、そのような両親を超えること、がそ
の青年の目標になった。これはすばらしい教育的情況な
のである。
肉体的に五体満足な子であることを我々は願う。しか
しヘレン・ケラーはやはり五体満足でなかったからこそ、
それを足がかりに自分を教育したのであった。
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