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ちょっと、気になる作品


♪公務用ボールペン 干刈あがた♪

   公務用ボールペン


  風景ぜんたいがキラキラと光って、ハレーションをおこして
いる。
(困ったものだが……)
 と思いながら、彼はメモ帳の置いてある机の前に腰かけ、ボ
ールペンを握ったまま、道路のむこうの風景を見ていた。
(叱るべきだと思う……だとは思う……が、しかし……)
 彼はボールペンで軽く机をたたいた。メモ帳には幾つかの名
前が書いてある。
雪子 ゆき子 ユキ子 ユキ
(考えてみれば、無理もないんじゃなかろうか……)
 彼は落着きなくボールペンをいじりながら、そのまま道路の
むこうに眼をやっていた。
(もう少し、このままにしておいてやりたい。だが、任務とい
うものもある……)
 彼はボールペンをペン皿に戻して立ちあがった。そして石油
ストーブの上で湯気を立てているヤカンを取り、急須のなかに
熱湯を注いでからヤカンを戻した。それからまた机の前に坐り、
ゆっくりと急須の口を茶碗に傾けた。お茶は出がらしの薄い色
をしていた。
(熟慮検討しよう……)
 彼は道路のむこうを見ながら、ゆっくりとお茶を飲んだ。
 風景を遮って、大型トラックが何台も泥水をハネながら道路
を走っていく。昨日の午後から降りはじめた雪が夜半まで降り
つづけ、今朝はめずらしく10センチほど積っていたのだが、
陽の当る側の雪はもうかなりとけている。
(雪は東京では、お祭のようなものかもしれない……)
 彼も昨日の午後、灰色の空から白いものがチラチラと舞い落
ちてくるのを久しぶりに見た時、胸がわくわくしたのだった。
それは故郷で雪が舞いはじめる季節の、暗鬱な気分とは違って
いた。
(それにしても、あれでは雪合戦というより泥合戦ではないか
い……)
(あの赤いジャンパーを着た坊主が、一番のヤンチャだなあ…
…)
 道路のむこう側、マンションと保険会社のビルとの間の、古
い建物を壊したあとの空地には陽が射さず、まだ雪に足跡もつ
いていなかった。そこにランドセルを背負った、学校帰りの1
年生か2年生くらいの男の子3人が通りかかり、雪合戦をはじ
めたのだった。
 泥まじりの雪玉を投げ合っているうちに、赤いジャンパーを
着た男の子の投げた玉が、マンションの白い外壁に当って泥の
跡がついた。するとその子は、ほかの2人に声をかけて、壁の
どのくらいの高さまで投げられるかの競べっこをはじめたのだ。
(まったく子供というものは、次から次へと遊びを考えつくも
のだ……)
 彼はそんな子供たちを、すぐ叱る気にはなれなかったが、そ
ろそろ限度のようだ。赤いジャンパーの子は、今度はマンショ
ンの小さな換気窓をねらいはじめていた。
(命中するなよ……)
 雪玉はなかなか小窓には当らなかった。3発目。4発目。
(あ! とうとう命中した!)
 崎口良二巡査はやっと立ちあがり、交番から出た。柔道をや
っているずんぐりした体型の、27歳のお巡りさんである。
 ポッタン……ポッタン……。
 ポタリポタリポタリ……。
 交番の軒先からも、街路樹のイチョウの枝先からも、いろい
ろなリズムで水滴がしたたり落ちている。交番の前の歩道には、
水たまりができていた。
「オーイ!」
 と彼は道路のむこうに呼びかけた。3人が手を止めて、こち
らを見た。
「雪合戦はいいけど、わざと窓にぶつけるんじゃないぞー」
 大声で彼が言うと、意外に素直な返事が返ってきた。
「ハーイ」
「わかりましたー」
「すいませーん」
 赤いジャンパーの子が、もう帰ろうぜ、というような仕草を
した。彼はちょっと残念な気がした。
(もっと思いきり遊べばいいのに。もうマジメな雪合戦ではつ
まらないのだろうか……)
 空地から出て、むこうの歩道を遠ざかっていく3人の子供の
後ろ姿を、彼は交番の前に立ったまましばらく見送った。
 こちら側の歩道を、老人が1人ゆっくり歩いてくるのが見え
た。手帳と鉛筆を持ち、立ちどまって街路樹を見上げたりして
いる。崎口良二巡査は、何度か立ち話をしたことのあるその老
人が近づいてくるのを待った。
 彼はなぜか老人とウマが合うのだ。子供の頃から、口下手な
両親や親類づきあいの嫌いな兄にかわって、届け物の使い走り
などは彼がやっていた。そんな時、縁先でお爺さんお婆さんの
話を面白がって聞いたり、おばさん達の話に加わって茶化した
りするので、「愛想のいい子」「ひょうきん者」といわれた。
大人になってみると、無愛想な兄は何をしても仕方ないと許さ
れるのに、自分は裏で「お調子者」と軽く見られる損な役回り
だということにも気がついたが。
「吟行ですか?」
 と崎口巡査は老人に話しかけた。散歩をしながら俳句を考え
ることを吟行というのだ、ということも立ち話の時にその老人
から教えてもらったのだった。
「相変らず、駄作ばかりですが」
 と品のいい老人は微笑した。会社勤めを辞めてから、老後の
楽しみにはじめたのだ、と言っていたことがある。俳句をはじ
めてから、今まで気がつかなかった風景がよく見えるようにな
った、とも言っていた。
「〈雪の日暮れはいくたびも読む文のごとし〉という句があり
ます。飯田龍太という人の作ですが」
 老人は自作を披露することはないが、自分の好きな句らしい
ものを、ときどき口にする。
「いくたびも読む文のごとし、ですか。なるほど」
 と崎口巡査は言った。わかるような気もするが、なるほど、
としか感想が言えなかった。
「自分にも少しは詩心(うたごころ)があればいいのですが」
「いや、人は誰でも詩人だそうですよ。生きとし生ける者、う
たわざる者なし、と昔の人が言いました」
 老人は1語1語区切りながら、律儀に言った。
「そうですか。実は昨夜、2番目の子が生れまして、名前を考
えるのに四苦八苦しています」
「ほう、それはおめでとうございます。男のお子さんですか、
女のお子さんですか」
「上が二つになる坊主で、誠という名です。今度は女でした。
どうも女の子は難しいです。雪子にしようかと思いましたが、
雪女のように冷たい感じで……何かいい名前はありませんか」
「それはやはり、ご自分でお考えになるのがいいでしょう。子
供というものは、自分の名の由来を聞きたがるものです。そし
て親がそれらしい説明をしてやると、自分は確かにこの親から
生れた子だと安心するようです」
「なるほど。ゆき子と平仮名ならどうでしょうか」
「それはいいですね。幸福の幸の字にもつながります」
「自分もそんな気がしました。やはりそうしましょうかね」
「子供のことで頭を悩ませるうちが人生の花です」
 穏やかに笑ってから、軽く会釈して去っていく老人の背中を、
彼は見送った。老人が会社でどんな地位だったのか、どんな人
生だったかは知らないが、今は今の境遇を楽しんでいるように
も、少し淋しそうにも見えた。
 彼は交番の中に戻って机の前に座ると、ボールペンを手に取
り、メモ帳を引き寄せた。そして老人から聞いた句を書いてみ
ようとしたが、もう思い出せなかった。
(雪の日には、いろいろなことを考える、というような俳句だ
った……いや、違うかもしれない……)
 彼は故郷の雪景色を思い出した。遠くに見える白い山なみ。
白鳥が飛来する葦のはえた広い川原の、真っ白な土手。彼の胸
が少し痛んだ。彼が幼かった頃、正月休みに、東京から従弟の
信雄が遊びに来た時のことを思い出したのだった。
(雪に慣れない信雄が寒さにびっくりしたのも、たまに来る信
雄を婆ちゃんが可愛がるのも、今ならわかるが……)
 信雄の父親は崎口良二巡査の父親の弟で、アルバイトで大学
を出たあと、東京で就職して結婚したのだった。信雄の一家と
白鳥を見に川原へ行った時、信雄は雪の上を吹き渡る風のあま
りの冷たさに、唇がしびれて動かなくなってしまった。それに
驚いて泣き出したのだった。
 それを見て良二は、東京っ子の信雄に誰かが仕返しをしてく
れたような気がした。盆や正月に信雄の一家が来ると、自分の
母親は台所に立ったり風呂をわかしたり、1人で忙しく立ち働
く。それを見るのも切なかったが、普段は婆ちゃんに可愛がら
れている兄の秀一が構ってもらえず、弟の良二に「あいつ殴っ
てやれ」と言うので、信雄の一家が来ることは子供心にも気が
重かったのだ。
 化粧をして手もつるつるの信雄の母親が、婆ちゃんの肩を揉
んだり珍しい料理を作ったりする陰で、黙っている自分の母親
が、寒さの中で毎日頬や指先を赤くして働いていることを、誰
も思いやっていないことも口惜しく哀しかった。誰にその気持
を訴えたらいいのかわからず、台所に行って母親にそっと言っ
た時のことを覚えている。
「あの子、早く帰ればいいのに」
 すると母親は困った顔をして、「たまに来るんだから」と小
さな声で言い、支度していたスキ焼き鍋の中から牛肉をつまみ、
フ―ッと吹いて冷まして彼の口に入れてくれたのだった。
 田舎料理しか作れない良二の母親は、スキ焼きが一番のご馳
走だと思っている。そして、お客さんがくるとアガってしまい、
農協マーケットで鍋物に入れてもよさそうなものを手当り次第
に買って入れる。竹輪、カマボコ、しめじ茸、ゴボウ、時には
イカが入っていることもある。
 そのため、いつもは豚肉なのに、お客さんの時だけ牛肉をつ
かうせっかくのスキ焼きが、ごった煮のようになってしまうの
だ。だが母親の料理しか知らない子供にとっては、それが本当
のスキ焼きだった。
(最後にうどんを入れて、くたくたになるまで煮て……あれが
美味いんだ。そのあと、お袋の漬けた白菜。あれより美味いも
のはない。そうだ、今夜の手料理は、濃い味つけのお袋流スキ
焼きにしよう)
 出産のために彦根に帰っている妻は、警察学校の友人の妹だ
が、どうも妻の味つけは薄味なのだ。それも双方歩み寄って、
妻は濃い味に慣れたと言い、彼も薄味に慣れてきたが、母親の
ゴチャゴチャこってりの味を思い出したら、胃液が活発に分泌
してきた。彼は苦笑した。
(自分は風流ではないな)
(親爺もお袋も、俳句を詠んだり趣味を持ったりすることはな
いだろう……)
 彼の胸がまた少し痛んだ。子供の頃は母親を可哀そうだと思
っていたが、今は自分が二男であることにホッとしているとこ
ろがある。順番からいえば長男でもあり、給料のもらえる警察
学校へ行った自分より、無理をして大学を卒業させてもらった
兄が親の面倒を見るべきだ、と思っているところがある。兄の
秀一は今は、大学卒の妻と結婚して東京に住んでいるが。
 まだ高校生の妹が、将来故郷で結婚して両親の近くで暮すか
もしれない、とも考えていた。だが昨夜、妻の実家の母親から
女児誕生の電話を受けたあと、東北の自分の実家に電話でそれ
を知らせた時、妹は来春には東京の服飾専門学校へ行くと言っ
たのだった。父と母が2人だけで、田植機のローンを支払いな
がら暮していくのが眼に見えるような気がした。
(かといって、東京に呼んでも、こんなコンクリートだらけの
ところでは、暮しにくいだろうし……)
 彼はボールペンを手の中でぐるぐると回した。
(自分が故郷に帰れば、みんなが安心するだろうが……なぜ…
…このごろやっと、苦虫かみつぶしたような親爺の方の気持が
わかってきた)
 まあ当分、両親が共に働けるうちは……と彼は頭の中からそ
の問題をしりぞけた。
  道路のむこうの歩道を、スカーフをかぶり大きなマスクで顔
のほとんどを隠したお婆さんが1人、ゆっくり歩いているのが
見えた。
(猫屋敷の婆さん……また一段と痩せて小さくなったようだ…
…)
 交番の管轄内で要注意の、1人暮しの老女だった。周囲にど
んどんマンションが建っても、親の残した家屋敷だからと土地
を売らず、ビルの谷間の古い家に住んでいる。近頃ひどく痩せ
てきたので、民生委員が訪問して健康診断を受けるようにすす
めても、自分がこの家を離れたら猫の世話をする人がいないか
らと、決して応じないのだ。
 周囲の民家やアパートが壊されて、猫の飼主が引越したあと、
置き去りにされた猫たちが餌を求めて、婆さんの家にたむろし
ているのだった。
 彼は勤務日誌を取ると、欄の隅にボールペンで書いた。
富田老婦人見かける
 正式な連絡事項ではないが、メモしておかないと、何日も見
かけないことがあるのだ。
 崎口巡査は時計を見て、そろそろ勤務交代の時間であること
を確かめると、日誌をつけた。
午後3時、車道歩道、日照部分積雪消える。日陰部分積雪5
センチ。車道歩道とも水たまり多し
 それから道路のむこうの空地と、マンションの壁の泥汚れに
視線をむけ、少し思案してから書いた。
事故なし
 ボールペンの黒インクが少し多めに出て滲んだ。考えごとを
している間ずっと、彼はボールペンを手の中に握っていたのだ
った。
 交代勤務の若い巡査が敬礼をして入ってきた。
「夜に入って路面が凍ると危険だな。都内ではチェーンを用意
してある車も少ないだろう」
 と言いながら、崎口巡査は日誌を閉じた。
「先輩、奥さんとお子さんは、いつ東京に戻られるんですか」
 と若い独身の巡査が聞いた。
「上の坊主も手がかかるから、ゆっくりするそうだ。今度の休
暇に彦根へ行ってみるよ」
 崎口巡査は本署に戻るために交番を出ると、横断歩道を渡っ
た。そして一応確認しておこうと、少し逆戻りして、さっき3
人の子供たちが雪投げをしていた空地へ行ってみた。雪の上に
小さな足跡がいくつもついていた。マンションの泥汚れは、2
度ばかり雨が降れば流れ落ちるだろう、と査定した。というこ
とは、見方によっては、かなり汚れていたのだが。
 彼は空地を出た時、小学校の方から、ランドセルを背負った
女の子が1人歩いてきた。女の子はつと、街路樹の根元にかが
んだ。そのつぎに女の子がしたことを見て、彼は背中に雪を入
れられたような気がした。
 女の子は赤い手袋を脱ぐと、そこに少し積っていた雪を両手
ですくって、口の中に入れたのだった。そして、とても嬉しそ
うな顔をした。なぜか彼は、自分の深いところから、涙が滲ん
でくるような気がした。  
 その日、その交番の管轄内で老人の心中が1件あり、救急車
とパトカーが出勤したのは、崎口巡査が本署から勤務あけで帰
ったあとだった。俳句老人が都営アパートの4階のベランダか
ら投身したのだった。室内には、彼の老妻が首をしめられて死
んでいた。老人は病弱な奥さんの面倒をよく見ていた、仲のよ
い夫婦だった、と同じアパートの住人たちは口をそろえて証言
した。立派な職についている2人の息子も、父にそんな気配は
まったく感じられなかったと言ったのだった。■

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