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後朝の別れ



   きぬぎぬの別れ
                              Copain:拙著            
                   
  万葉時代には、「妻問婚」が一般的であった。「ゆう
べ(夕)」は愛しい人(男性)が通ってくるのを待つ「
ゆうべ」であり、「あした(朝)」は後朝(きぬぎぬ)
の別れの「あした」であり、使いが届けにくる後朝の文
(ふみ)を待つ「あした」であった。
 東国では歌垣や暗闇祭りがおこなわれた。その日だけ
は独身者に限らず、おおらかに男女の交わりを謳歌した
という。
 やがて男女が一緒に住む古今集以降の「婿入婚」を経
て藤原氏の勢力の拡大にともない「嫁入婚」へと移って
いく。「妻問婚」の時代には女性にも財の相続があり生
活の支えがあった。「婿入婚」になっても女性の主導性
は失われていない。しかし、藤原氏が権力と富を一手に
してからは、女たちは男に従属して生きる以外にみちが
なくなった。「三界に家なし」といわれる悲劇は「嫁入
婚」とともに始まった。
 雑誌に掲載された「二○歳の嫁の手」という秩父山地
の農家の嫁の手を細密に表現した写真は、その家の「嫁
の」生活のすべてをものがたっていることで有名になっ
たのは東京オリンピックのころのことだ。   
 婚礼は婿方でおこない(嫁入婚)夫婦の寝所は嫁方に
おく(婿入婚)という「足入婚」は、婿入婚から嫁入婚
に移り変わっていく過程の折衷形式だが、千葉県の九十
九里地域では、婚姻の成立の祝いをすませずに嫁が婚家
に入り、朝は暗いうちから野良仕事にかりだされ、夜は、
夜ごとの夫婦生活。満足な食事も休息も与えられず、奴
隷に近い人権無視のあつかいを受け、あげくの果てに「
家風に合わない!」と実家へ帰されることが少なくない
という。「こんな風習はやめさせたい。」という中年の
男性の問わずがたりを何年か前に聞いた。
          *
「どっこにもかあちゃんひとりしかいじましたおったお
いいま、だれもおどごあどあいねごっだそたにも、なに
へでよべっとぁへってありってもいいごった、アハハハ」
(『朝日新聞』「新風土記」)

「妻問婚」のなごりがまだどこかにのこっている。


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