『北京の忍び逢い』

 
厳寒の砂漠
「蒙古(正確には内蒙古。現・内モンゴル自治州)のフフ
ホト(呼和浩特)という町にいました。チンパオ(京包)線
の終点パオトウ(包頭)の一つ手前です。冬季の気温は零
下30℃が普通で零下40℃が月に10日はあります。
零下40℃では羊毛でつくったフードをしていても自分
の吐く息で眉毛が凍り、オシッコをすると見る間にコチ
コチに凍ってしまいます。厳寒の地ですが日干しレンガ
を積み上げ泥を塗り固めて作った家の中はオンドルで、
とても暖かい。燃料は乾燥させた羊の糞です。……そう
いう体験をしたので、内地にいる今、すこしも寒いとは
思いません」
 村松城海さんの妻・はまさん(83歳)は、よどみなく
話し始めた――。

「内地にいると徴用に取られてしまいますので、それが
嫌で1936年(昭和11年)に、お友だちのお兄さん(
憲兵曹長)の照会で一緒に大陸に渡りました。19歳才
のときでした。猿橋(山梨県)から鉄道で門司(山口県)ま
で行き、そこから連絡船でプサン(釜山)に渡りました。
鉄道を乗り継ぎ北京から黄土高原を経て万里の長城を越
えて内蒙古に入る予定でした。
 
 あいついで、ご両親が亡くなられ1人ぼっちになった
彼女は唯一の肉親となったお兄さんの傍らにいたかった
のでしょう。家を内緒で出てきた私に親の証明がないこ
とからシャンハイコヮン(山海関)の検問所に留め置かれ
ました。
 お兄さんの保証があるお友だちには通行許可が出され
たのですが行動を共にしてくれましたのでチンチョウ(
錦州)に戻り、佐官・将官クラスの人が泊る高級旅館で
2人で働きました。
 1年くらいして、彼女のお兄さんが部下に証明書を持
たせて迎えに来て下さり内蒙古に渡れました。モンゴル
語を知らなくても、手まねで意思の疎通ができました。
ご近所の豚を飼っている人が親切で親しくなり、たびた
びご馳走になりました。
 アメリカ人・フランス人・ドイツ人・朝鮮半島の人・
中国人ともお付き合いしました。病院長のドイツ人のお
医者さんは東京大学で学んだ人で日本語が達者で愉しく
お付き合いしました。内地(日本)の人は30人くらいし
かいませんでしたが、その中に
「外国へ行くには、その国の文化を学んでから行くよう
にしなさい」
 と、教えてくれた人がいました。当時としては他言は
無用の2・26事件に関係したという人で、男爵でした。
 東大を出た学者のお坊さんがおり頭が良い上に興味深
い話をして下さいますので度々訪ねて行きました。
 日本にいたら決してお会いできないような人たちとの
交流で心が広くなり良い社会勉強にもなりました。狭い
ところにいて他人の噂話ばかりしているようでは人間的
に成長しませんものね」。

内蒙古のパーロ
 あるとき、6月ころのおだやかな季節にドライブとし
ゃれこんで砂漠の道を走って行ったらパーロ(八路軍の
こと。毛沢東が率いる国民革命軍第八路軍。現・中国人
民軍)の陣地に迷い込んで捕えられ、乗っていた5人が
全員、丘に掘られた5b四方くらいの横穴の中に入れら
れました。このままでは殺されると、3日目の夜に守衛
を殺し馬を盗んで逃げました。必死で逃げたので、どこ
をどのように逃げたのか思い出せません。とにかく、逃
げたのです。
 蒙古の馬は内地のと違って、騾馬(らば)で小さいので
鞍の無い裸馬でも乗れるのです。日頃の乗馬訓練の成果
がでました。遊牧民のパオに逃げ込んで助けを頼むと繰
り返されるパーロ(共産軍)の略奪行為に手を焼き、殺し
たいほど恨んでいた彼らは快く助けてくれました。蒙古
服を借りて次の日から同行しました。羊の群を追いなが
ら、まる2日かかって町まで行き日本軍に連絡して救け
に来てもらいました。

 あるときは私たちの住んでいる界隈にパーロがきまし
た。向いの2階の屋根上から機関銃を撃っている姿が見
えます。私たちの宿舎には6人いたのですが、わたしは
怖いので押入れに入って頭から布団を被ってじっとして
いました。
 部屋に入って来たと思った途端に発砲しサーっと出て
行きました。5人は即死です。そのときの戦闘では日本
軍がパーロを10人捕まえて砂漠で処刑しました。斬首
です。《行くな!》と言われ、知り合いの蒙古人にもた
しなめられましたが、お友だちを殺されて悔しいので見
に行きました。軍属にもひとり、首斬りの上手な人がい
ました。斬った瞬間に血しぶきが上がり、首が穴に落下
します。穴に落ちずに地面を転がる首も見ました。刀を
振り下ろして頚椎を切ったところで皮を残して止めると
穴に落下し、止めずに斬り流すと首が転がってしまうの
です。
〔はまさんは立ちあがり、ジェスチャーを交えて2通り
の斬首の仕方を示してくれた〕

 パーロは砂漠で狼煙(のろし)で連絡を取り合います。
のろしを見るたびに
「チクショー! パーロの奴らが!」
 と、忌々しく思いました。
 パーロが日本の民間人や女や子どもを殺さないという
のは、大嘘です。

切るしか……
 土曜・日曜は、野戦病院で看護の手伝いです。
 弾傷は少なく、ほとんどが凍傷です。重度の凍傷に罹
った手や腕は壊死が進むので切断しなくてはなりません。
設備の整ってない野戦病院では、それ以上の治療ができ
ませんので包帯をぐるぐる巻きにして北京の陸軍病院へ
すぐに送致します。
 最初は確かに気持ちが悪かったのですが「助けてあげ
たい」という一念で強い気持ちになれました。両腕を切
断した人がいました。見ていて辛かった。
 気の毒に思い、慰めるだけでは仕事になりません。勇
気づけるために、叱ったこともあります。ずいぶん兵隊
さんのお世話をさせて頂きました。大陸へは国のため自
分のため兵隊さんのために行ったようなものですから。
お金儲けが目的で渡った人が多かったのです。日本へ中
国人がお金をかせぎにきている、いまとは逆です。

虐める人・稼ぐ人
 部下を理不尽に虐める上官は嫌われます。
「いつか殺してやる」
 と、数人の兵士が言っていた下士官(軍曹)が撃たれた
死体を見ました。敵弾であれば
「……惜しかった。オレがやるんだった」
 くらいの声は聞えてきたでしょう。内地の家族に行っ
た通知は〈戦死〉だと思います

 アヘンを吸引する部屋を見に行ったことがあります。
 横たわって木でつくられた枕に頭を置いて長いキセル
のようなものでアヘンを吸っていました。内蒙古では向
こうが見えないほどの広い畑でケシを栽培している人が
います。行かないほうがいいと言われながらも、綺麗な
ので花を背景にして、よく写真を撮ってもらいました。
「あなたがケシの花より美しいと思ったら撮りなさい。
美しくないと思ったらやめときなさい」
 と、蒙古の人にいわれました。
 内蒙古にいた日本の陸軍憲兵にはこの人たちと、もち
つもたれつの関係になりアヘンを売りさばいて莫大な利
益をあげた人がいます。
 憲兵の権限で検問所を容易に通りぬけられたのです。

消 息
 辺境にいてもニュースは入ってきます。早いですよ。
『盧溝橋事件』を知ったのはフフホト(呼和浩特)にいた
時です。2・26事件に関係し退避して来ていた数人の
うちの1人(男爵)から知らされました。電話は通じてい
ませんでしたので電信で知ったのだろうと思います。

戦場の恋
 1944年(昭和19年)後見人になってくださってい
たお友だちのお兄さんの赴任地がかわることになり7年
間暮らした内蒙古を離れ、北京(ペキン)に移りました。
 主人(になる人)のことは人づてに聞いていました。
 三笠宮様のお荷物をお送りする輸送の監督官を命ぜら
れ内地に行って留守のときに私が北京にきたのです。内
地から戻ってきた彼と初めて軍司令部で会いました。 
 休日の逢引は愉しみでした。天安門前の広場、紫禁城、
天壇はデートコースでした。ペキンには日本人専用のレ
ストランがありましたが和食は食べ慣れているので、デ
ートのときは支那料理でした。美味しいお店がたくさん
あります。あちこちにある屋台料理も、簡単に食べられ
て美味しいのです。映画も見ました。

 翌年。吉野主計中将のご媒酌で結婚式を挙げることが
できました。支那料理で簡素ながら披露宴を催しました。
 同じ北京の軍司令部付きの、ある曹長が軍属の女性と
仲良くなり結婚を望んでいたのですが軍の許可が下りず、
ピストルで心中してしまいました。女性は妊娠していま
した。終戦の三ヵ月前のことでした。
 私たちの婚儀は、主人に功績があったことと私が錦州
でお世話をした人たちが見えぬところで応援してくださ
ったり、内蒙古で兵隊さんのお世話をしたことなどが認
められて赤十字の勲章を受けたりしたことで皆さんから
特別に祝福されたのだと思っています。幸運でした。

北京のパーロ
 終戦後のある日、主人(当時、陸軍主計准尉)が司令部
へ行った留守中に10人くらいの中国兵(国民党軍が崩
壊し蒋介石が台湾に逃れ、毛沢東軍が中国正規軍となっ
ていた)がアパートの部屋に入ってきて、銃を突き付け
ました。脇には長男(1歳)が寝ています。後ろにいた上
官が《スーラ(殺せ)スーラ!》といっています。
 わたしは「フーチン(父親)とムーチン(母親)が待って
いるから助けて! ショーハイ(子ども)とイーベン(日
本)に帰りたい。助けて!」と片言の北京語で訴えまし
た。上官は聞き入れ部下を静止しましたが持ち出せる物
は全部、持ち去って行きました。
 そのとき12、3人にいたアパートの住人の内5人が
殺されました。外で銃撃の音がし怖くて、翌日に外に出
て判りました。軍人である主人がいなかったので運良く
殺されずに済んだのだと思います。
 
 終戦になり、無抵抗になった多くの日本人をパーロは
殺し続けたのです。勝てば官軍です。子どもを背中にお
ぶったままの母親を吊り下げて銃剣で2人を串刺しに殺
したのを目撃しました。
 日本の軍隊が酷いといわれますが、中国軍だって同じ
です。フィフティ・フィフティです。

北京の憲兵
 あなたの家族に元憲兵はいませんね。
 いないから言います。憲兵は酷い、虐め方が並大抵で
はありません。日本人にも外国人にも、物凄いですよ。
たとえば北京の軍司令部を入って左の部屋に詰めていた
憲兵たちは中国人の足を縛って逆さに吊るし一升瓶に入
れた水を飲ませます。飲まないとムチで引っ叩くのです。
飲むまで叩く。一升の水を全部飲むまで続けるのです。
血が下がって顔がパンパンに脹らんでいました。私の仕
事を手伝ってくれていた中国人と一緒に目撃しました。
 リーダーの佐々木という憲兵軍曹は終戦になると同時
に投書で告発されて支那人(中国人)が見守るなかで銃殺
されました。
「憲兵隊は時代劇の、悪代官の集団です」
 と、ご主人の村松さんは発言した。 
 
チョット、失言
 ……終戦の間際に、支那(中国)の知人から
「日本は負けるよ」
 と、知らされました。聞いた事をチラッと喋ったとこ
ろ軍司令官の副官(大尉)に呼びつけられ一筆「始末書」
を書かされました。

盧溝橋事件
 村松城海(84)さんは1937年(昭和12年)3月1
日にテンチン(天津)の郊外トンチーズ(東幾局)の支那駐
屯歩兵第一連隊第6中隊に入営した。20歳だった。
 満州事変は続いていたが支那事変はなかった。4ヵ月
後。初年兵1期の検閲が終わり襟章の星が二つの1等兵
になった。1週間後の7月7日の早朝まだ薄暗いときに
突然、何がなんだかわからない非常呼集のラッパが鳴り
響いた。理由がわからぬままに軍装を整えて整列した。
「これから出動だ!」
 と、大隊長がいった。
 いよいよ始まるな、と思った。

 〈事変の始まり〉村松さんの話――
「その頃の北支(中国北部)では1大隊が北京、2大隊が
天津郊外のわれわれの大隊、3大隊が北京郊外の豊台、
その3個大隊が『支那駐屯歩兵第1連隊』でした。また、
天津市内には支那駐屯歩兵第2連隊があり2個連隊合わ
せて千5、6百の兵力でした。
 
 同じ『支那駐屯歩兵第1連隊』に福島から豊台の3大
隊に入営した志村菊次郎という兵士がおり、7月7日の
夜間演習中に豊台郊外の盧溝橋という所で迷子になった
のです。真夜中の暗闇の中で、本能的に明るい方へと歩
いて行くと苑平県の城壁の所に出た。蒋介石が率いる中
国正規軍(当時)の駐屯地の一つでした。
 城壁上を巡回し警備をしていた兵士が、わずかな光の
中に人の気配を感じ、探照灯で照らすと、ぼやっと明る
い中に、背嚢を背負い着剣した軍装の日本兵が見えた。
吃驚して「夜襲だ!」と叫ぶと同時に発砲したが夜なの
で当たらなかった。撃たれた志村は驚いて物陰に隠れ元
来た方へ歩き出した。
 1発の銃声で日本軍が攻めてきたと思い国民党軍が非
常呼集をかける。志村の所属する3大隊では銃声がした
ので夜間演習をしていた隊を集合させ、点呼した。1人
足りない。志村がいない。捜索に出かけようとしている
ところへ、当人が帰ってきた。
 豊台の大隊に戻り北京の連隊本部(連隊長牟田口大佐)
へ電話で事情の説明をした。本部は「夜だから待て!」
といった。
 朝。苑平県城の蒋介石軍へ、北京の軍指令部から参謀
桜井少佐を長とする4〜5人が軍使として
「われわれの手落ちで申し訳なかった」
 という謝罪と事態収拾の会談に行った。
 一方、関東軍から参謀辻正信少佐が押しかけてきた。
牟田口連隊長(後のインパール作戦などで有名)は大佐な
のだが、辻少佐は参謀で権力があるので連隊長と呼ばず
に「牟田口さん、やれ!やれ!」
 と、さん付けで、戦争を始めるよう、けしかけた――。

 20万と圧倒的多数を誇る蒋介石軍は日本軍帰れ! 
の『排日侮日』を展開している最中で戦いたくて仕方が
ない。豊台の苑平県城の部隊にも強気の軍人がいたのか、
数度に渡る折衝で巧く行きかけた会談は、結局、決裂と
なった。桜井参謀らの軍使は追いかけられて、城壁から
飛下りて逃げ帰った。5階建ビルの高さに匹敵する城壁
からどのように降りたのか、軍使は全員無事に帰ってき
た。

 ――天津郊外・東幾局の2大隊は盧溝橋に向けて出動
した。通州を通過中、町中でイザコザが起こり日本の民
間人、4〜5人が蒋介石軍に殺害されるという小さな事
変が起きた。
 会談の決裂に小事変が重なり戦闘を煽る人がいたり治
まるものも治まらなくなり、この日のうちに支那事変が
勃発した。……あらまし、こういう次第です」。

〔1等兵になって1週間ほどの、若い兵士の話、細かい
ところで不明な点があるのはむしろ当然。詳細は資料を
ご参照ください。『聖戦』島村喬著(新人物往来社)
『盧溝橋事件』寺平忠輔著(読売新聞社)〕

まぼろしの金鵄勲章
 出動した2大隊の第6中隊は苑平県城の城壁に進軍し
た。城門は堅く閉ざされ城門の前には高粱(コウリャン)
畑とトウモロコシ畑が広がっている。まだ強力な火器は
きていない。非力の歩兵砲なので城壁の一点を集中的に
攻撃して破壊する。ある程度崩れたところで砲撃を止め、
トウモロコシ畑の中を前進する。20歩ほど走って、伏
せる、38式歩兵銃を撃つ。「走る、伏せる、撃つ」を
繰り返し進んで行く。中国軍も激しく撃ってきている。
トウモロコシがバタバタと音をあげて倒れる。こうして
城壁の下にたどり着いた村松1等兵は、崩した瓦礫を攀
じ登りはじめた。
 城壁に1番先によじ登った村松1等兵が見下ろすと城
門の中には敵兵が犇いていた。携帯している2個の手榴
弾を投げつけ爆発させる。手榴弾を使い果たして38式
歩兵銃を撃ちまくった。戦友たちも続いて登ってきてい
た。散って行く敵兵につぎつぎに手榴弾を投げつけ爆発
させる。城壁の上に軽機関銃も据えられ本格的な戦闘が
始まった。

 城門の破壊に成功した別の部隊は「バンザイ!」を繰
り返した後、場内になだれ込んだ。別の城門からもつぎ
つぎに別の部隊がなだれ込む。敵は総崩れとなり逃散し
た。作戦は大成功だった。
 攻撃の先鞭をつけ敵軍を混乱させ作戦を勝利に導く先
制攻撃になった。金鵄勲章にあたいする戦勲だったが担
当の準士官が戦死して、幻の勲章となった。話しながら
「わたしの金鵄勲章は、ここにいる妻です」
 と、城海さんは笑った。

「演習では撃ったことがあるが実戦はまだなかった」
 初陣で蒋介石軍・将兵の士気が実戦で意外に低く、小
銃の性能が劣ることを知ったことが後の討伐作戦で役に
立つことになったという――。

危機一髪
 初年兵の時。ヘルメットの前面に受けた小銃弾が二重
になっている鉄兜の間を通り後部から出て背嚢を貫通し
左足の軍靴の踵をかすめて地面に跳ね返った。
「焼けたコテを当てられたようでした」
〔今も後頭部に火傷の痕跡が残っている〕

 ある討伐先で敵の夜襲を受けた。
 指揮官が撃たれて大怪我をし、分隊長もたおれ、歩兵
では上等兵が残っているだけだった――。
「曹長殿、指揮をとってください」
 と、いわれ、「よしっ!」と指揮官になったが囲まれ
ていて身動きできなかった。
「いつ囲みを破って走るかわからないから身体を休めて
おけ!」
 と、部下たちにいった。
 ボロ小屋の暗がりの部屋に1人のとき、突然チャンコ
ロ(中国兵)がバーンと扉の音をさせて入ってきた。幸い、
先に発見し反射的に射殺し、撃たれずに済んだ。

中支遠征
「満期(陸軍は2年)だがオマエたち、どうするんだ?」
 と、第6中隊の上等兵が集められ中隊長に訊かれまし
た。留守宅では父親が脳溢血で即死してしまい兄は満州
事変で出征してまだ帰ってこない。2男の私も外地にい
る。7人兄弟の1番下はまだ小学校1年生で、家では高
等小学校を出たばかりの直ぐ下の弟が1番上でした。
 ――そいう状況でしたので
「満期とおっしゃいましたが帰れるものならば帰ってみ
たい」
 と、申しましたところ……
「この非常時に、帰りたいとは何事だ!」
 と一発、ぶん殴られてしまいました。
「では、どうすれば良いのでありますか?」
「オマエたち下士官にしてやる。何がいいんだ?」

 一所懸命やって、まあまあの軍功を上げていた。
 それを汲んで首席で扱ってくれているので歩兵で残る
気はあったのです。言葉で言えばいいのに、いきなり殴
られましたので
「ぶん殴りやがって、コノ野郎。もう辞めた」
 と思い、出征前に経理をしていた経験から
「主計になりたい」
 と、いいました。
「なんだ主計か。――よし。次っ!」
 次席は私のを見て要領がわかっていますから、歩兵で
結構でありますといった。中には憲兵になりたいと言う
者もおりました。
  
 北京の主計教育隊で勉強し、修了後2大隊の本部付き
主計伍長になりました。
 その後、中支(中国中部)へ討伐に遠征し長江中流域の
漢口・漢陽・武昌・武漢などでの戦いで連戦連勝、無事
に天津に凱旋しました。頭脳的な作戦を駆使してインテ
リ部隊といわれましたが、悪い気はしませんでした。
 天津で主計曹長になり、その後、北京の軍司令部付き
になり終戦の翌年までおりました。主計准尉で軍隊生活
を終えました。10年間を支那(中国)で過したことにな
ります。

復 員
 北京から天津までは貨車で運ばれた。
 途中、各駅で長い時間、停車する。その貨車を狙って
中国人の男たちが略奪にきた。持っているものはなにも
かも奪い去って行った。
 クーニャン(娘)は貨車から連れ出されて強姦(レイプ)
された。連れ去られたものもいるという。妻のはまさん
はすんでのところで既婚者であることが証明されて無事
だった。
 天津の港から復員船で1946年(昭和21年)5月1
9日に家族3人揃って帰ってきた。退職金はなく、復員
手当は40円だった。
 北京で処刑された佐々木憲兵軍曹の妻子とは北京から
一緒だったが名古屋で別れた。

 昭和25年のある日、子どもを連れて上野動物園に遊
びに行った帰りに駅で出征前に勤めていた会社の社長に
ばったり再会し
「戻って来いよ!」
 と言われ復帰した。
「仕事は楽でしたが、生活は大変でした」

〈妻・はまさんの話〉
 日本に帰ってからの生活は酷いものでした。食べる物
がなく栄養失調で目が見えなくなるほどでした。

従軍慰安婦のこと
 〈村松さんの話〉
 強制連行され日本兵に玩具にされたので補償金2千万
円をよこせなどと他所の国のお婆さんが裁判をしている
けれども、裁判所は訴えを認めていない。それでいいと
思う。生活のため家族のためになにかのために身売りし
て娼婦になったのであって「強制連行」は本当のことと
は思えない。ピー(娼婦)買いは、その都度、規定のお金
を払っていた。料金を踏み倒して慰みものにしたという
話はないし、知っている範囲では虐待もない。

 〈妻・はまさんの話〉
 日本人の他、中国人、朝鮮人の女性がいました。
 家族の生活のために売られてきて、借金の返済が済ん
で病院の皿洗いをしていた日本人の元慰安婦は一緒にい
た朝鮮半島南部の女性が強制的に連れて来られたとは言
っていませんでした。朝鮮の女性本人の話では「日本に
行けば生活できる」と家のため生活ために来たというこ
とでした。強制的な連行は、考えにくいことです。

 その昔、日本の東北地方の貧しい家では、女児が生ま
れると赤飯で祝い、男児は間引かれたという。女児が間
引かれないのは売れるからだ。売られて女は娼婦になっ
た。男は……、同じ部隊の村松さんの友人は生後1週間、
納戸に放置された。8日目に家人が行ってみると生きて
いた。それで、殺すのを忍びなく思った親が育てたのだ
という。現在も存命である。

若い世代へのメッセージ
 〈村松さんの話〉
 戦争をしないことです。そのためには軍隊を持たない
ことです。
 〈妻・はまさんの話〉
 お互いが苦しむので戦争をしてはダメです。国家の防
衛のために自衛隊は必要です。「専守防衛」に徹するこ
と、海外派遣はダメです。
 
 青春時代の思い出の地・北京へ行ってみたくないです
か? という私の質問に、ご夫婦ともに
「行きたくない」
 と、応えた――。 

平成12年 12月 15日

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