『関東軍憲兵伍長の戦争と平和』

 
〈憲兵さん、ご飯食べに来て〉
 米の流通は統制されていて、自由に持ち運びができな
かった。ある日、朝鮮鉄道の京城駅(現ソウル駅)の近隣
の龍山(ヨンサン)駅で警備をしていて、チマチョゴリを
着たオバさんを見咎めた。衣服のつくりで外観からはわ
からないが、調べると、米を入れた軍用の綿の靴下を身
体と太ももに巻きつけていた。質すと
「親戚に持って行く」
 と、言った。
 スパイ探索の警備であり、闇の商売をしているとは思
えない分量なので、本来なら没収のところを許した。オ
バさんは涙を流して喜び、なんどもなんども、お礼を云
って列車に乗って行った。
  そんなことがあってから島崎さんが警備している時を
選ぶようにして(?)そのオバさんが姿を見せるようにな
った。同じように身体に米を巻きつけた友達も連れてい
る。苦笑しながら通してあげた。
 やがて、オバさんはお礼にお酒などを持ってくるよう
になり
「憲兵さん、家へご飯食べに来てください」
という親交に発展していった。制服では行けないから休
日に私服で訪ねていった。オバさんは、キムチをはじめ
とする朝鮮料理で歓待してくれた。キムチが好きなので
朝鮮の焼酎マッカリを飲みながらモリモリ食べていると、
「アナタ、キムチ好キデスネー」
 と、笑ったという。

〈 憲兵志願 〉
「兄さんに会いたい一心で、憲兵隊を志願した」
 陸軍の中野学校を卒業したとき一度帰宅しただけで音
沙汰のないお兄さんが風の便りで上海にいることを知っ
た島崎政夫さんは憲兵になって上海に行けば会えると考
えた。
 1942年(昭和17年)3月。17歳のとき小倉(九
州)の歩兵連隊で陸軍少年幹部候補生として6ヵ月間の
教育を受けた。英語・マレーシア語・フィリピン語・朝
鮮語・中国語などの五カ国語を含めた学科と軍事教練と
土木作業だった。
「教練や土方は、今考えてみると身体を鍛えるためだっ
たような気がするが、土方はまだ良かった。教練は酷か
った。38式歩兵銃を持って匍匐前進をする、水溜りを
避けていくと。
『何故避ける? 実戦で撃たれたらどうするんだ!』
 と、どやされた。仕方がないから泥まみれになって進
んでいった」

 その後、佐世保の奥の伊万里で1ヵ月間教育を受けて
小倉に戻り卒業した。まもなく小倉の連隊から久留米の
第12師団・菊地部隊に移った。

 18歳になってまもない1943年(昭和18年)の冬、
赤トンボと呼ばれる複葉機で朝鮮(現・大韓民國)のプサ
ン(釜山)の憲兵隊に赴任した。
「憲兵隊というと嫌がられたり、悪いことをしたんだろ
うと言われるから人には警備隊といっているが、所属は
憲兵隊だ」
 兵員や戦車・野戦砲・大砲などの武器をプサンから鴨
緑江河畔のアントーなどの地方都市へ輸送する夜行列車
に乗りこんで警備するのが最初の任務だった。
 プサンには3ヵ月いて京城、龍山区の関東軍の憲兵隊
に移り、鉄道の警備を担当した。
 龍山駅は、北支・南支・中支・満州・満ソ国境から現
役を終えて帰ってくる将兵と下関・プサンを経由して内
地からきた新任将兵が交代する中継地点になっていた。
憲兵隊はこの輸送にかかわる警備を任務としていた。と
きには脱走を企てる兵隊がいたり、スパイやパルチザン
による妨害や破壊工作がある。
「国民党軍・人民軍・匪賊・馬賊などの中国人たちは迫
撃砲を使い、破壊工作が巧みだった。何度も列車を爆破
された」

 兵員・武器を輸送する仕事は非常に神経を使い疲れる
仕事なので交替で行う。出張がないときは、駅の警備や
捕虜を収容している施設の警備をしたが、
「いつ撃たれるかわからないから怖くて、いつもピリピ
リしていた」
 龍山駅や京城駅でのスパイの探索活動は怖い。袖口の
幅の広い満人服やマントを着た男が近づいてくると恐怖
を覚えた。6連発のモーゼル自動拳銃を隠しもっていて
も外観からは全く判らないのだ。

 捕虜の収容所では、オーストラリア・アメリカ・シン
ガポール・マレーシア兵の捕虜の警備にあたった。捕虜
は朝6時に起床、朝食。7時から夕方5時まで土木作業
に従事したが、タバコをあげるなど、できるだけ便宜を
はかり、和やかな雰囲気づくりを心がけた。
「こちらが心を尽くして接すると捕虜たちもそれに応え
てくれた」
 家族の写真を見せたり、時計をくれる者がいたという。

〈 憲兵の階級 〉
◆大・中・小尉◆准尉・曹長・軍曹・伍長
◆兵長・上等兵・一等兵・二等兵 
 佐官級もいるが事務所にいて殆ど出て来ないから、実
質的には大尉を最上位とみなしてよい。憲兵隊は上等兵
から下士官クラスになる。
 伍長でも軍の中尉・大尉を逮捕し尋問できる権限をも
っている。その場合、階級が上だから敬礼をしてから逮
捕し、尋問は普段の「オイ、コラ!」式ではなく敬語を
使って応対した。

〈 実戦 〉
 1944年(昭和19年)2月、満州の佳木斯(チャム
ス)の部隊へ転属。前線で戦う歩兵の後について行き落
伍者・逃亡者の監視にあたる。後方から行っても危ない。
注意してないと敵の弾にあたってしまう。新兵たちは隠
れて震えている。
「戦わないと自分たちが殺されるぞ!」
 と、檄を飛ばし、銃を撃って見本をみせる。
 教えないと徴兵で来た新兵はわからない。
「ピューン、ピューンは遠いので大丈夫だが、プシュッ、
プシュッという弾丸の音がしたら極至近なので、伏せる
か隠れろ!」
 
〈宣撫工作・平定(=討伐)作戦の犯罪〉
 攻めこんで勝っているときは憲兵隊が後から来ている
のがわかっているから女子どもだけが残っている集落の
女性をレイプ(強姦)して殺してしまう兵隊は、それほど
多くない。反対に、その部落のチャンコロ(中国兵の蔑
称)たちが形勢を盛り返してくると退却しなくてはなら
ない。いつ戦死するかわからないからやっておこうとレ
イプ殺人が激しく増える。殺してから女性器に竹槍を突
き刺して道端にほっぽりだした兵士がいた。
 カァー! っとして調べたが犯人はわからなかった。
レイプが発覚すれば重営倉行きになるから、顔と部隊名
と兵隊番号を知られた相手の女性を殺してしまう。そう
いう残虐なことをやった。
 面子を大事にする国民性なので自ら望んで殺された女
性もいる。

 レイプとは違うが、雌の豚を四斗樽に頭から入れて獣
姦した者もいる。そうした後で、殺して食用にした。
 兵隊は性欲に飢えていた。

〈 スパイの処刑 〉
 スパイには軍人もいれば民間人もいる。中国人だけで
はなく日本人もいた。繰り返される残虐行為に辟易して
逃げだした日本軍の逃亡兵が逆スパイ、即ち中国側のス
パイになっていたりする。
 死刑! と決まれば、中国人のスパイは観念するのが
早い。「穴を掘れ!」と死刑を宣告した当のスパイ自身
にスコップで1b40aくらいの深さの穴を掘らせる。
「コレコレの罪で死刑だ」といい、後ろ手に縛って穴の
前に跪かせ目隠しをし、首を前に出させる。その首を日
本刀で切る。 
「オイ島崎、オマエ初めてだったな。やって見ろ!」
 と、上官が言う。度胸試しだ。
 人を殺すのは初めてで気持ちが悪くてしょうがない。
躊躇していると、どやされる。うまい人がやると一太刀
でドタリと穴の底に首が落ちるのだがスパッと切り落と
せないで首がついてぶら下がっていた。血を噴出しなが
ら痙攣している胴体を足で蹴飛ばして穴に落とし土をか
ぶせて埋める。
「私も残虐なことをやった。そうやって3人殺した。命
令に叛けば逆賊として重営倉行きになるから、やらない
訳にはいかなかった――」
  
 ひとつの集落全体がスパイだったことがある。
 このときは、大人にも子供にも穴を掘らせ中に入らせ、
頭からガソリンをかけ火を放って焼き殺した。この村で
は女たちがピストルを持っていて、レイプしているとき
に撃ち殺された兵隊がいる。
 疑わしい者すべてをスパイと見なして扱った。スパイ
の処刑は銃殺か日本刀による斬首だったが、
「どうせ殺してしまうのなら実験に使え」
 と、人体実験用のマルタ≠ニしてその多くを731
部隊へ移送した。哈爾浜郊外の平房の731部隊にはマ
ルタ小屋として知られる監房とは別に、ドイツ監房があ
った。高さ2b50aくらいの鉄格子に囲まれた部屋が
円形状に並んで造られていて、中心からすべての房を監
視できるようになっている。外側からは各房の上部の小
さな窓しか見えない。わからないようにカムフラージュ
していたが情報が入るので関東軍の憲兵隊は細菌部隊で
あることを知っていた。ピンファンへはなんどか行った
が731部隊のやったことは、すべて事実だ。

〈 スパイ探索の道具 〉
 少しでも怪しいと思ったら、すぐに憲兵隊本部に連行
して取り調べを行うのが通例だが地道な調査を重ねる場
合もある。写真も撮った。カメラは、ライカ、コンタッ
クスや超小型スパイ用カメラといわれたグッチを使い分
けた。隠し撮りもした。膝の下に超小型のカメラをつけ、
レンズだけをズボンから露出させるようになっている。
撮影はレリーズをズボンのポケットの中で操作して行う
から気づかれない。
 普段はレンズを覆うようにフリップがついていてボタ
ンで止めている。外見からはわからない。

〈 拷問の方法 〉
 いろいろ云われているが、薬品類は使わないし大袈裟
な責め具も使わない。責め具は恐怖感を煽るために見せ
るだけだ。
 尋問しながら、ひとさし指と中指の第二関節の間、下
部に鉛筆を挟み両脇から強く圧迫する。それで自白しな
い場合は、青竹で身体を殴る。殺してしまっては意味が
ないので、メッタ打ちはしない。背中や腰を殴り、顔は
殴らない。さもなければ、逆さ吊りにして桶に入れた水
の中に顔を漬ける。鼻から水が入って呼吸ができないの
で苦しい。水に漬けたり出したりを繰り返す。それで殆
ど自供する。自白してもしなくてもスパイは死を免れな
かった。

〈 兵隊さんの食事のことなど 〉
 中継地である龍山駅では退役や新任の将兵に軍の兵站
が用意した折り詰めの弁当を配った。大ぶりの折り箱の
半分には麦飯(白米に麦を混ぜてある)もう半分にはお惣
菜が詰めてある。肉・鶏肉・魚・野菜、内地では食べら
れないような食材が食べきれないほど詰められている。
 弁当は朝鮮鉄道の職員が配った。将兵を監視する任務
の憲兵も同じ弁当を食べた。
 
 退役や新任の兵士は、タバコの交換をやっていた。
 日本からは『ほまれ』『バット』『敷島』、退役側は
辛い味の『ほまれ』一種しか持っていない。新任側はね
ぎらいのおもいから交換に応じた。列車からは自由に降
りられないし用便で降りても、上りと下りではトイレが
違うから、交換は列車の窓越しに投げ合ってやっていた。

〈 軍隊の嫌われもの 〉
 軍隊では威張る人は嫌われる。部下を可愛がらない上
官は、何らかの制裁を必ず受ける。理不尽な虐めをやる
のは数少ない成り上がり者だ。学歴がある人は常識があ
るので虐めなどしない。
 威張る上官の食事は唾・フケ・鼻クソなどで味付けさ
れる。判らずに食べるのを見て部下たちは溜飲をさげた。
ささやかな、リベンジだ。
 
 警察官だった新兵は徹底的に虐められ半殺しにされた。
威張る警察官が多かったことから嫌われ目の仇にされた。

〈 休 日 〉
 軍隊といえども2週間に1度、2日間程度の休暇があ
る。休日には食べ歩きを楽しんだ。街には一般人の入れ
ない日本の軍人専用のレストランがあってランチを注文
するとチキン、ハンバーグ、トンカツなど、いろいろな
ものがあり贅沢ができた。よく食べに行った。
 内地ではカボチャ(南瓜)とか大根飯を食っていた時代、
朝鮮だからまだ良かった。甘いお汁粉なども食べること
ができた。
 京城駅の近くの道端にはチマチョゴリのオバさんたち
がバケツで炊いた白米のご飯をキムチや味噌汁をつけて
売っている。朝鮮人は白米を食べることを許されていな
いので憲兵の軍服を見れば逃げてしまうので普段は食べ
たくても近づけない。
「休日に私服で行って食べてみたら実に美味かった」
 
 龍山区から漢江(ハンガン)の橋を渡って行くと、土手
沿いに1〜2`くらいズラーっと藁葺き屋台の食いもの
屋が並んでいる。牛肉・豚肉・犬の肉など各店各様さま
ざまな料理を売っていた。闇の酒もある。
 ある屋台では茹で上げて吊してある豚の頭に大きな蝿
が黒々とたかっていた。咎めると
「蝿がたかるほど美味んだって、この豚は」
 と、平然と言った。訝しく想いながらも食べてみた。
酒を飲みながらスライスしてくれたのをタレ汁をつけて
食べると旨かった。豚の腸詰とか牛の腸詰とかもボイル
してあって、タレをつけて食べる。ソーセージだ。
 ある店では五右衛門鍋のような大きな鍋にもうもうと
湯気を立てて、肉・野菜・白菜・ワラビ・もやし・ニン
ニク・唐辛子いろんなものを入れてグタグタ煮ていた。
湯気と香りに誘われて一杯くれというとサラダボールの
ようなデカイ丼でくれる。山盛りだった。いろいろな香
辛料が並べて置いてあるから適当に入れて食べた。
「旨いんだ、熱くて」

 しかし犬の肉だけは喰えなかった。
 身体にはもの凄くいいんだそうだが、スパイスを大量
に入れないと臭いが鼻について食べられない。
「身体が暖まって風邪を引かない」
 と、朝鮮の金持ちたちがよく食べに来ていた。

 この屋台街には荷馬車を引いた朝鮮人たちが来ていて、
酒を飲みながら楽しそうに食事をしていた。馬にも酒を
飲ませていた。音を立てながら美味そうに飲んでいた。

〈 遊 び 〉
 上海には、ヨーロッパ系は少ないが、アメリカ・白系
ロシア・オーストラリア・マレーシア・中国・朝鮮それ
に日本と、いろいろな国の娼婦が大勢いた。アメリカ・
オーストラリアは将校用の高級で、中国・朝鮮の娼婦は
低級。朝鮮の女が一番安かった。日本の女はまあまあ高
級だった。
 ピー屋という隠語で呼ばれた日本軍の慰安所は2階建
で下が飲食店、上が慰安所になったいた。将校用・下士
官用・兵隊用に分かれていた。
 ピーは英語のFUCKと同じ汚い言葉で
「ニー、ピーカンカン、ライライ」(セックスしようよ)
のように使った。  
 
 上海の駅前にヤンチョ(人力車)が何台もいて客を引い
ている。
「兵隊さん、兵隊さん、乗って下さいよ」
「ピー屋までいくらだ」
「50銭!」
「40銭!」
「30銭!」
「ダメだ。高い!」
「20銭でいいよ、兵隊さん」
 20銭の約束でピー屋へ乗って行って、着いたら車夫
に5銭しか払わない者がいた。中国人を馬鹿にして日本
人はずいぶん酷いことをやった。

 朝鮮には日本の娼婦が多かったが中国の女性もいた。
その女たちは頭がいい。勉強していて英語ができ日本語
もできた。

〈 帰 還 〉
 大本営の発令により満州の関東軍が南方インドシナ半
島に行った。そこへソ連軍が侵攻して来た。お互いスパ
イ活動が激しいから、満州の強力な関東軍の主力がいな
くなり、国境の守備が手薄になったので入ってきた。こ
の時点で負けることはわかっていた。
 1945年(昭和20年)7月20日に関釜連絡船で脱
出した。兵隊を送ってプサンに来ていたから帰れた。運
が良かった。満州の哈爾濱や奉天(現・瀋陽)あたりにい
たらソ連軍に連れて行かれ拷問されて処刑されただろう。

〈 戦 後 〉
 1946年(昭和21年)の福岡市。進駐軍のアメリカ
兵(主に黒人兵)による無銭飲食・暴行・レイプ事件が頻
発していた。丸腰の日本人は無抵抗なのでナイフとピス
トルで武装した米兵の暴走がエスカレートするばかりだ
った。みかねた島崎さんは、仲間たちと自警団を結成し
て戦い、持ち返っていた憲兵用のピストルで悪逆なアメ
リカ兵を2人射殺した、という……。

〈 お兄さんのこと 〉
 会いたいと思っていたお兄さんは終戦後、中国人民軍
の裁判で死刑判決が出て上海で処刑された。
「手の指の指紋がすっかり消えていたと聞いた。そうな
るまで拷問されたのだろう……」
 どこの軍隊でも同じような拷問が行われるのだ。

〈 今思うこと 〉 
 平和がいい。戦争は、やってはダメだ。戦争で亡くな
った人たちはあまりにも可哀想だ。中国で日本の軍人や
民間人がやった残虐行為があきらかになれば、世界から
軽蔑されるだろう。中国人や満人の苦(クーリー)を家畜
同然に扱っていた。酷かった。
 イントネーションが違うことから『スパイ』とされ憲
兵に殺された沖縄の人たちがいる。断崖から飛び降りて
死んでいった多くの女性がいる。戦後はアメリカ兵によ
るレイプ事件が頻繁に起り現在まで続いている。沖縄の
人たちは悲惨だ。
 インドシナに行った隊は殆ど玉砕だった。
 一番下の兵隊は酷かった。食料もなければ武器もない。
末期には軍靴がなくて地下足袋だ。地下足袋がなくなっ
てからは草鞋(わらじ)だった。草鞋だよ! それで戦っ
た。暑いしジャングルに慣れていない。蛇に噛まれたり、
飢餓・マラリアで大半が死んでいった――。

 北朝鮮の金日成は死んでしまったが本物ではないので
はないか。手配写真を配られて、われわれ憲兵が追って
いた抗日パルチザンを統べていた人間ではないと思う。
感じが違う。どこかが違う。しかし北朝鮮の人民が奉っ
ている事実は変えられない。
 不思議なのは一般の日本人が目にすることのない天皇
の名においてするある儀式を見る機会があったが、それ
が、朝鮮人が行っていたある儀式と非常に良く似ている
ことだ。服装も似ていた。どういうことなのだろう。

 平成12年8月24日

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