元海軍衛生兵の見た戦争の矛盾

『「毛虱艦隊」南進す』 
〈横須賀海兵団〉
「これが、私が使っていたキャビン(船室)だよ」
 横浜の山下埠頭の桟橋に係累されている復員船にも使
われた往時の病院船『氷川丸』(前身は日本郵船が建造
した1万2千トンの貨客船)を訪れては昔を懐かしみ同
行の知人に告げた末本儀三郎さん(80歳)は1940年
(昭和15年)6月1日、将校になることを志して19歳
で大日本帝国海軍横須賀鎮守府の海兵団に入隊した。
 同期は154名だった。
 2日間のオリエンテーション・体慣らしの後、入団3
日目より新兵としての教練が始まった。起床ラッパに
よる6時の総員起こしに始まり、浜までのランニング、
その後、海に跳びこんで1時間は水から上がれないとい
う水泳訓練。猿島1周の遠泳は苦しい。水泳訓練で遅れ
をとると気合を入れられる。それを苦にして同期生2名
が4階建ての海軍病院の屋上から飛び降りて自殺した。
 6ヵ月の新兵(4等看護兵)教練を終えて54期の普通
科練習生(3等看護兵)になった。

「3年間、毎日ブン殴られたよ」
 上官として素晴らしい人物で尊敬にあたいする教官で
さえ
「帝国軍人として鍛えるためにオマエラを殴る、早
く立派な軍人になれ」
 と鉄拳をふるった。3ヵ月余で慣れ、殴られても倒れ
なくなった。
 ときには連帯責任で殴られたこともあった。1個人が
悪事を犯しても15名編成の班全体の責任になる。悪事
とは糧食の盗み食い。タバコを吸う。員数合わせで雑巾
を他所から調達、つまり盗ってくる。干してある他人の
フンドシ(褌)を盗むなどが《事件》になり制裁された。

〔殴られ方にも生活の知恵があるのですね。しかし西周
の起草した明治天皇の『軍人勅諭』が何故に殴ることに
繋がるのでしょうね。
 殴って鍛えるというタクティクスは誰が創始者なので
しょうか。きっと、名の有る人の発案でしょうな。そう
いう人たちは、なんといっても権威に弱いのですから。
私の父は海軍さんだったのですが正論をいうと『屁理屈』
と決めつける。これには閉口しました。これは海軍の伝
統で私の父だけのことではないことが後でわかりました
よ、末本さん〕
 
 鉄拳による教育は職業軍人(志願兵)に対してのもので、
徴兵された新兵は殴られることがなかった。3年すると
班長(下士官)になり殴る側になった。
「班長になったらブン殴って、憂さを晴らしてやろう」
 と考えて耐え続けてきたが、
「新兵を迎えても、殴る気にはならなかった。殴られ損
だったよ」。

〈 特殊技術の教練 〉
 横須賀海軍病院での6ヵ月の普通科訓練を卒業すると
配置が行われた。殆ど本人の希望がいれられる。霞ヶ浦
の航空隊、郷里の隊へ行くものもあれば、横須賀の海兵
団へ教官として行く人もいるが末本さんは看護兵の特殊
技術を学ぶために海軍病院に残った。
◆レントゲン撮影◆臨床検査◆看護術◆外科手術などの
専門の技術を2年間学んだ後、トラック島へ渡りそこを
拠点にパラオ諸島・バリ島などで看護兵としての任務に
従事した。
 2年後、3等看護兵曹のときトラック島で試験を受け
て定員50名の厳しい試験を突破して高等科練習生とし
て横須賀の海軍病院に戻った。
 高等科に入れない看護兵の下士官は、右袖に階級章は
付けてはいても、左袖には特殊技術の資格を表す章がな
く『無章』といわれていた。
 
 6ヵ月間、高等科で研究をつづけた。
 この頃、看護兵という名称が『衛生兵』に変わったが、
薬屋さん勤めから『駒込病院』の職員を経て看護兵を志
した末本さんの研究対象は《細菌学》であり『臨床検査』
を専門とした。検疫・防疫、飲み水などの微生物や毒物
を研究し、希望の赴任先として香港島行きが認められた。
『衛生兵』は『看護兵』といわれたことから、その職務
に関して誤解されることがあるが実態は医療の特殊技能
者である。
「点取り虫だったから」という努力家の末本さんの場合
は『築地軍医学校』でも学び投薬も外科手術も行える技
術・知識を習得したが、専門外で包帯を正しく巻けない
衛生兵もいた。その道のプロフェッショナルであれば良
い訳だ。
 
 第3次ソロモン海戦で末本さんが乗船した『翔鶴』の
ような空母クラスでも衛生兵は5人しかいないため、戦
傷病者を担架で運ぶような業務には従事しない。このよ
うな仕事は衛生兵の指揮下、水兵や整備兵から選抜され
た衛生兵手伝いの兵たちが行った。
 これらの人は衛生兵の身の回りの世話もした。

 《海軍の衛生兵の階級
◆少佐◆特務大尉◆特務中尉◆特務少尉◆特務准士官
(准尉)◆上・一・二等・三等兵曹◆上・二・三・四等
衛生兵。
 衛生兵の最高位は『少佐』。
 因みに、軍医は最初から少尉、最高位が中将》。

〈 毛じらみ艦隊の戦闘 〉
 1944年(昭和19年)のある日、香港行きを希望す
る末本さんを乗せた25隻の艦隊は、駆逐艦2隻に守ら
れて、呉鎮守府の軍港からを出港した。しかし米軍の飛
行機と潜水艦を含む艦船の攻撃を受け殆ど反撃できない
まま台湾(現・中華民国)の高雄港に着いたときは5隻に
なっていた。通常は乗員5人程度で機関銃が2、3丁と
いう武装の船に100人が乗って航海し3ヵ月かかった。
毛虱艦隊(ケジラミ艦隊と末本さんが呼ぶ)の生き残りの
1隻に乗っていて九死に一生を得た末本さんは
「その艦隊の衛生兵は自分ひとりだけだった」
 と静かに話しただけだった。

〔小さな船の舷に毛布で人が乗れるようなものを作って
全体で100人程度が乗れるようにしたのだそうだが、
このような無謀な作戦を立て、成功を信じて実行してし
まうことを私ごときには全く理解できない。なんとも恐
るべき所業である〕

〈 戦争の矛盾 〉
 1942年(昭和17年)11月14日の第3次ソロモ
ン海戦では日米両軍の将兵が海に投げ出されてプカリプ
カリと浮いていた。
「日本兵を優先して救助し、アメリカ兵は偉そうな少数
救助しただけで、多くを見捨ててしまった」

〔この戦闘から消耗戦に突入し日本軍の輸送船団が打撃
を受けたと伝えられているが、そうした戦闘の中でも
「助けられず、見捨ててしまった」
 と、敵兵に対して慙愧の念を感じ今だに忘れないとこ
ろが衛生兵としての末本さんの真情なのだろう……〕

 高雄に3ヵ月間余り滞在してから香港島の病院(接収
したイギリスの病院)に赴任した後、そこを拠点に広東
(香港の病院の支部)・海南島の病院で任務に従事した。
赤十字のマークをつけた20人乗りくらいの小型の船舶
で移動を頻繁に繰り返した。
 ある時、海南島から100人乗りくらいの《まいずる》
という名の船で珠江を遡って行った、横須賀・舞鶴鎮守
府、共同作戦の梧州・桂林の中国軍との戦闘は激しく被
害は甚大であった。
 命令により戦傷者にA(将校・下士官)B(下士官候補)
C(兵・新兵)のランクをつけAを優先して救助作業を行
った。ソロモン海戦のときは仕方がないと思えたが、こ
のときばかりは、軍隊は矛盾していると思ったという。

〔このときの海軍の病院には医療がスタッフ3人(少尉・
中尉の軍医が2人、衛生兵は末本さん1人)だったこと
に因る苦肉の措置だったのだろうと私は思いたいのだが〕

〈 新発見 〉
 医薬品の拠点はトラック諸島とパラオ、それに香港島
(接収したイギリスの病院の本部)にあり、必要な薬を取
りに行くのだが、どうしても間に合わなかったあるとき、
戦傷兵の傷口の周りにお灸をすえたところ少しずつ傷が
ふさがっていった。新しい発見だった。

〈 食 〉
 衛生兵の食事は戦争の末期でも、通常と変わらないメ
ニューとボリュームで摂ることができた。
「食は広東にあり」末本さんは良い場所で生活していた
ことになる。

 〈 遊び 〉
 軍医と帯同して女性の性病の検査を定期的に行った。
 なかには病気に罹っていても
「国の家族に送金しなくてはならないから見逃して」
 と、頼み込んでくる女性もいたという。
「トラック島でもパラオでも1個班の女性が来ていたが、
朝鮮出身の女性が多かった。上官の命令で兵隊たちはオ
イチニで(つまり隊列を組んで)娼館に向かうのだが、順
番制なので途中から我先にと駆け足になってしまう。番
号札は100番くらいまで配るんだが50番までしか受
付ない。それでも、みんな待っていたな」

 「広東でも、やはり朝鮮の女性が多かったが正式には
国籍を明かさないアメリカの女性がかなりいた。将校用
の高級娼婦だったが情報収集でもしていたのだろうか」

 〈 戦後 〉
「中国人は、どんな薬を飲ませても治癒してしまうんだ」
 と、不思議がる末本さんは、終戦後も広東の病院に残
り治療にあたる。香港の病院も掛け持ちして、医療関係
者の少ない中国軍に歓迎された。護身用にピストル1丁
を渡され中国軍人の護衛に守られた快適な生活だった。
そうした生活をずっと続けようと考えていたが、人づて
に、お兄さんの戦死を知らされ家族のことをおもい昭和
24年に中国の人たちに惜しまれて帰国した。
「負けるとは全く考えていなかった。勝って、ゆくゆく
はアメリカへ行くことになると思っていた。アメリカへ
行ったら医者になろうと考えていた。
 しかし横須賀へ来てアメリカ兵たちがハンディー・ト
ーキー(携帯無線機)を手にしているのを目にして『これ
じゃ負けちゃうな!』」とおもった。

 アメリカさんに没収されないように赤十字のマークを
付けて貴重な医薬品(木箱20個分)を広東から持ち帰っ
た。横須賀からは貨車で自宅へは馬車で運んだ。マラリ
アに苦しむ、南方から帰還した近隣の元兵隊さんたち5
人が馬に乗って治療に通ってきた。無償で施療し感謝さ
れた。
 4年間、地元や、近隣の地域医療に従事したが、医師
法が整備され医師会ができ有資格の医師が増えたことか
ら、医師としての《資格》が問われるようになり、保健
所の職員に転身して『臨床検査』のキャリアを活かした
が、やがて、農業に転じた。

「戦争に負けて1階級上がり上等兵曹から『准士官(准
尉)』になり将校用のレストランで食事ができるように
なった」
 と、遠くを見るように話す末本さんの目は澄んでいて
美しいが、アメリカの潜水艦の攻撃により朝鮮(現・大
韓民國)の木哺沖で戦死したお兄さんのことを語るとき、
一瞬翳りがさした――。

〈 末本さんへ 〉
 高齢であるにもかかわらず、実に若々しいというのが
第一印象でした。話は論理的で記憶も確かであり、いく
たびか死線を越えてきた人は凄い!と思いました。
 紹介してくださった人からは、今なお、野菜の栽培を
されていると伺っておりましたが、収穫したばかりのト
マトと西瓜を届けて下さり大感激でした。努力家で研究
熱心な末本さんの作品は、活動の分野は違っても、実に
立派で見事です。食べるのが勿体無い。家族で大事に食
べさせて頂きました。素晴らしい食味でした。
 いつまでもお元気でお過ごし下さい。有難うございま
した。
 末本さんの美しい澄んだ瞳に再びお目にかかれる日を
楽しみにしつつ――

平成12年 7月 25日

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