元陸軍主計軍曹の見たアメリカ軍と日本軍

『小笠原からの帰還』 
〈早く負ければ良かった〉
 テニスで鍛えた金沢栄一郎さん(88歳)のナラトロジ
ー(話体)は明解で力強い――。
 硫黄島玉砕のときは母島の沖港にいた。玉砕といって
も攻撃されて敵の弾で死ぬのではなくて半数位はお互い
に自壊したんだよ。教育されていたからね、俘虜(捕虜)
になることは一番の不名誉なことだとね――。

 母島占領前夜、いろいろなデマが流れた。たとえば、
「硫黄島を占領したアメリカ軍の司令官の条件を満たさ
ない者や違反した者は、キンタマ(睾丸)を抜いてラバウ
ルの先端へ連れてっちゃうと言っている」
 などといった、まことしやかに飛び交っていたデマと
は違って、アメリカの軍人は非常に良く教育されていて、
実に紳士的だった。
 主計の同僚で、終戦後、軍の通訳にあたったアメリカ
のハイスクール出身のハセガワという2世が
「捕虜を殺さないし特別な待遇をするから、絶対に自決
してはいけない」
 と云ったとおりだった。武装解除の翌日から
「何もないのに、よく生きていたな!」
 と、パン・食料品の缶詰・チョコレート・タバコなど
を輸送船で、どんどん運んできて食べさせてくれた。
「やっぱし、アメリカは先進国だなー」
 と、つくづく感じたね。
「早く負ければ良かったのにな」
 と云った兵隊がいたんだ。
 ソ連軍・中国軍の将兵は時計・財布から鉛筆の1本ま
で、何でも略取していったと支那から戻った友だちはい
ってたよ。
 
 実は、硫黄島や父島、母島にも食料やタバコなどは相
当量が貯蔵されていたのだが、戦争が何年続くか判らな
いので、司令官の命令で
「輸送の航路が絶たれ補給が来ないから……」
 と兵隊に配給するのを控ていた。それで多くの兵が……
3分の1は栄養失調で亡くなった。

〈大日本帝国陸軍麻布第3歩兵連隊〉
 徴兵検査に甲種合格した20歳の金沢さんは1932
年(昭和7年)1月10日に陸軍の麻布第3歩兵連隊に入
隊した。麻布から青山墓地を通って代々木の練兵場まで
6ヵ月間、毎日行って基本体操から始まり、旧式の38
式歩兵銃を使って匍匐(ほふく)前進などの教練を受けた。
 年に2回、習志野(千葉)で、銃の扱い・防空壕の掘り
方・基本体操・軍人勅諭の暗唱など、各連隊の教練の総
仕上げを視察する師団長の検閲があった。
「日本陸軍は武器などの技術面ではかなり遅れていて精
神面だけを徹底的に鍛えるのを主眼にしていた。初年兵
はビンタをくうなど、メチャクチャでしたよ――。
 事の善悪を無視して『長上の命令はそのことの如何を
問わず従うべし』というのは馬鹿げている」

 同期生のなかには《早く上等兵になって故郷に錦を飾
ろう》と企図してか直属の上官である班長の身の回りの
世話を競ってするものがある。お茶を持って行く、洗濯
をするなど、言葉と行動で〈おべっか〉を使い、取入ろ
うとする風潮があった。雑巾を常に携帯していて必要な
ときにすぐ使えるようにしているものもいた。
 金沢さんは旧制中学(実業学校、商業科)を卒業したと
いうプライドもあり、高等小学校卒の班長(下士官)に必
要以上には敬意を払わなかった。そういう意味では上官
には好感を持たれない部下だったが学生時代に商工連合
会の『珠算一級』の免状を受けていたなどの資格や履歴
もあり『主計適任証』(伍長兼務上等兵)を得て予備役を
満期の1年で退役した。
  退役後は青年学校で軍事教練の指導者をしていた。

〈 上海へ 〉
 1937年(昭和12年)10月15日、主計伍長で
再入隊。同年11月に上海の租界ウースン路の司令部へ
赴任した。将兵の俸給(給料)の計算や、肉・野菜・など
の食材の他、ビール・ウィスキー・酒など業者が納入す
る物資の入出庫の管理が任務だった。
 1938年(昭和13年)上海に、現在問題になってい
る従軍慰安婦のいる軍の慰安所ができた。ピー屋と呼ば
れていた。女性は日本人以外では朝鮮半島出身者が多か
ったように思うが皆上手に日本語を話し容貌も似ている
ことから区別がつかなかった。上海には長くいたが、食
べ物に困るわけではなく、金に困るのでもなく、戦争の
参観に行ったようなものだ、見学にね。
 ところが昭和18年か19年か大東亜戦争(太平洋戦
争)になったときにはサイパンかグァムかテニアンかへ
行くことになっていたが、ニミッツ提督のアメリカの第
7艦隊が押し寄せてきていて潜水艦もいるから小笠原諸
島辺りにしか行けない。はじめに父島へ行き、それから
母島を経て、硫黄島へ行った。

〈小笠原の母島からの帰還〉
 1945年(昭和20年)12月、硫黄島を占領したア
メリカ軍の司令官は、金沢さんたちを内地に帰すとき当
座の生活費を手当てしてくれた。将校に500円・下士
官に300円・兵隊に200円という金額だった。武装
解除され階級がなくなった(威張るのが商売だった)元将
校・下士官たちは、帰還のチャーター船の中で、部下を
虐待し苦しめた後ろめたさから、仕返しを恐れて隅のほ
うで小さくなっていたという。
 虐めなどに関与しなかった金沢さんは元兵隊たちの
「将校の○○を海の中に投げ込んじゃぉうか」
 といった相談事を耳にして
「殺(や)っちゃっても殺人罪などになる訳じぁないん
だから……」
 と話したという。
 だが、実際にはそういうことは起こらずに浦賀港に戻
った。
 帰還船は客船ではなく輸送船の内部を大工さんが、ち
ょこちょこっと改造した蚕(かいこ)棚のような造作で臭
気は凄いし人間の居所というよりブタ小屋のようなもの
だった。
 お金は使えないと聞いていたが浦賀の商店街では問題
なく使えた。
 
「アメリカは経済的にも軍事的にも世界の最高の指導者
だよ。アメリカ人には感謝している。だが、ロシア人や
中国人は、例の《略取》の件があるから、時代は変わっ
たといっても信用できない」。

 平成一二年七月二七日

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【参考メモ】
【玉砕】
 玉が美しく砕けるように、名誉や忠義を重んじて、い
さぎよく死ぬこと。玉砕⇔瓦全
「大丈夫寧可玉砕不能瓦全(北斉書元景伝)」。
「瓦全」とは、なにもしないで、いたずらに身の安全を
保つこと。

【硫黄島の戦い】
 硫黄列島は、小笠原諸島の南南西150〜280`にあり北
硫黄島(約5.37平方`)・硫黄島(約20.19平方`、中硫黄
島ともいう)・南硫黄島(約3.76平方`)からなる火山列
島、1779年にイギリスの探検家ジェームズ・クック
が発見した。
 凝灰岩の元山を主体に南西端に擂鉢(すりばち)山が
ある。砂糖きびの栽培・イオウの採取が行われていた。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)2月、栗林
忠道中将指揮下の陸軍1万5千500名、海軍7千50
0名が死守する硫黄島にアメリカ軍第3、4、5海兵師
団が攻撃をかけた。19日に上陸を開始、約1ヵ月間の
激戦の末、日本軍は全滅した。
 アメリカ軍の死傷も甚大で戦死5千900名、戦傷1
万7千名にのぼった。

【ラバウル】
 南西太平洋、パプアニューギニアのビスマルク諸島に
属するニューブリテン島にある港町。1941年(昭和
16年)の火山噴火で町は壊滅した。
 第二次大戦中、日本海軍の基地になった。

【軍人勅諭】
一、軍人は忠節を尽くすを本分とする。
一、軍人は礼儀を正しくすべし。
一、軍人は武勇を尊ぶべし。
一、軍人は信義を重んずべし。
一、軍人は質素を旨とすべし。
 金沢さんはしっかり記憶しており、すらすらと諳んじ
た。1882年(明治15年)明治天皇が陸・海軍人に下
した勅諭(天皇の下した訓示的な言葉)で参謀本部長・山
県有朋が西周に起草させた。
 大元帥である天皇が直接、軍の統帥にあたること、天
皇への忠節を第一とし、礼儀・武勇・信義・質素の5徳
目を掲げ、天皇への絶対的服従を強調する。
 旧日本軍の精神教育の礎。

【西周】にし・あまね。
 津和野藩医の子。オランダに留学後、開成所教授とし
て「万国公法」を翻訳。明治の啓蒙思想家。フィロソフ
ィアを「哲学」と訳した。大政奉還前後、徳川慶喜の政
治顧問となり明治政府では軍人訓戒、軍人勅諭の起草に
関係した。著書に『百一新論』『致知啓蒙』など。
(1829〜1897)
  


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