海軍特別攻撃隊通信兵の戦争

『桜島・特攻指令基地……』 

「〈月月火水木金金〉という歌の通りで軍隊には休日な
どはありませんが、予科練にあこがれて志願したので不
満はありませんでした。〈月月火水木金金〉と書かれた
紙の前で記念写真を撮った記憶があります」

 約束より小1時間早く着いたにも拘わらず藤森さん(
72歳)は実に若々しく快活な笑顔で快く迎えてくれた。
 16歳のとき。1944年(昭和19年)9月16日、
天草(熊本県)の旧制中学4年生のとき甲種飛行科第14
期予科練習生として桜島(鹿児島県)の防府海軍通信学校
の通信科に入営した。

 遠泳や漕艇(カッター)は海軍の基本訓練で必須科目だ
った。
「私は泳ぎが達者でしたから楽しい訓練でしたが、泳げ
ない人は海に投げ込まれ海水をしこたま飲んでしまう。
溺れる寸前に船に引き上げてはくれるのですが見ていて
可哀そうなほどでした。さぞ辛かったでしょう」
 専門の通信訓練は、電鍵によるモールス符号、1分間
に120字の標準送信速度に対応できる技術を習得する。
カタカナを速く正確に紙に書く練習からはじまり、5字
遅れ受信(5字目を聞いた時に1字目を記述し以下順次
記述して行く)10字遅れ受信と訓練が続く。
 一つの間違いに対して1回の尻バット(バットでお尻
を殴る罰)を受けながら「数字」の暗号文と和文(イロ
ハ……)の暗号文の教練を受けた。加えて、手旗信号・
発光信号による通信訓練。発光信号はむつかしかった。
 50%以上の得点が卒業ラインの最終試験に合格し特
別攻撃部隊の司令部である桜島の第5楠部隊司令部の通
信部隊に入隊した。海を埋め立てて兵舎を建てた非常に
寒い所だった。海軍だけど軍艦はなし、飛行兵だけど飛
行機がないので地上で通信の任務に就いていた。3交替
の就業。受信した暗号書を上官と一緒に行って、鹿屋の
神風特攻隊基地へ届けるのも重要な任務だった。
 
〈米軍の爆撃〉
 その一。
 日本軍機の爆撃は目標物を決めてそれを集中して攻撃
するが、米軍機はどこかまわず攻撃して全域を壊滅する。
 鹿児島が空襲にあった時。偵察機が飛んできて照明灯
で市街の全域を真昼のように照明した。その後、B29
の爆撃がはじまり、鹿児島の町が火の海になった。桜島
港から鹿児島港までポンポン蒸気で30分かかる桜島に
いて、やや大げさに言うと「新聞が読めたほど」の照度
であった――。
 この光景を目の当たりにした藤森さんは戦争に負ける
とはおもわなかったが爆撃そのものの恐怖以上に米軍の
戦略物資の多さに驚愕した。

 その二。
「1945年(昭和20年)6月のある日、基地で米軍機
に追われて3人の戦友と防空壕に走って避難するとき、
伏せた瞬間に私の左の太股に当たって抜けた機銃掃射の
弾丸が1人に当たり死んでしまいました。即死でした。
もう一人の戦友もその銃撃で死んでしまいました」。

 その三。
「兵営の物干しに洗濯物を干しておきますと、他の内務
班の者に盗まれてしまいますので、お互いに交替で見張
りをつけます。寝転んで見張り番をしていますと、見て
いる先に爆弾が落ちてきて直径1b深さ30aくらいの
穴があきました。不発弾かと思って黙って見ていました
ら、しばらくして地震のように地面がユラユラ揺れ出し
ました。もしかしてと逃げ出すと突然、爆発し兵舎が吹
き飛び、洗濯ものはどこかに飛んでいました。あとには
直径10bくらいの穴が空いていました。時限爆弾です。
……この型式の時限爆弾の爆発を3ヵ所で目撃しました」

 その四。
 派遣されて行った指宿の訓練では、秋の野原に群舞す
る赤とんぼと同じくらいに米軍の艦載機が部隊の上空に
飛来していた。ある日の戦闘では日本軍に撃墜された米
軍機が錦江湾(鹿児島湾)に墜落した。
 すると、落下地点の上空に艦載機がミツバチのように
群がり飛びまわって防衛網を張り援護をする中を大型の
飛行艇2機がどこからともなく悠悠と現れ、魚でも掬う
かのように撃墜された戦闘機を網で海中から掬い出し回
収して行った。敵地に残骸を残さない作戦だった。
「われわれはそれを見ていて何も手出しができませんで
した」。

〈軍の食事〉
 入隊後の一週間はアカメシ(赤飯のこと)で待遇が良か
った。その後、ムギメシとなった。麦飯が兵隊の常食だ。
副食物は魚有り、肉有りで全体として食生活に不自由は
なかった。 
「溶岩で大隈半島と繋がった部分が遠目には船舶の形に
見え、しばしば空襲にあいました。爆撃後、浮き袋が破
裂した魚が錦江湾に多数、浮きあがっています。それを
とってきて夜のご馳走にありついたことが何度もありま
す。泳いでとりに行くのは怖かったのですが……痛快で
もありました」

〈神風特攻隊戦士の伝説の真偽〉
 出撃前の『別れの水杯(みずさかずき)』の話は鹿屋の
神風特攻隊基地で人から聞いたことがありますが、実際
には見ていません。恋人・奥さん・芸者など、いずれか
の女性同伴で旅館などに泊るのを『上陸』といいました。
兵営に女性が来ることは許されていません。恋人かお嫁
さんかを搭乗させて一緒に逝ったという特攻戦士の話は
絶対に有り得ないことです。出撃前にピアノで『月光』
を弾いてから逝ったという話は「ない」とはいえません、
可能性はあると思います。
「あんなものではない」というのが、いろいろな戦争映
画を見た体験者の実感です。

 出撃後、故障などで戻って来た特攻隊士は冷遇された
そうですが、実際はどうだったのでしょうか? 
「燃料ぎりぎりで行って、戻って来られたとは思えませ
ん。燃料があったのかなぁ。航空燃料といっても当時の
ものは粗悪なものでした。やっと飛べるような代物でし
た。沖縄に行く途中、米軍機に待ち伏せされて攻撃され
ましたから、とても戻れるような状況ではなかったと思
いますね――」

〈長男の優遇〉
 特攻隊員に長男の人は見かけませんでした。お互い自
己紹介しますから、わかります。人事の面で、長男とか
大事な人たちに就いては、ある程度の配慮がされていた
のではないでしょうか。……

〈名誉の家〉 
 一家から1人でも軍隊に入隊すれば『名誉の家』と称
えられた時代。実兄3人が既に陸軍で出征しており、征
かなくても良い環境にあったが「あの部落では何人が兵
隊に行っているのか」とか「あそこに若い者がいるが、
どうだ」などと地域で話題にのぼり、強引にではないが
学校に「希望者はいないか」という勧誘があり、それを
受けて海軍に志願した。
 志願者を出さなければ責任者である市町村長や学校長
など上に立つ人が睨まれる風潮があったという。
 
 長兄は沖縄の作戦に参加、衛生兵だった。
 現在、B市に在住。次兄は関東軍司令部付き。東京外
国語大学のロシア語科出身で優遇された。モンゴルに近
い満ソ国境のマンチュウリに駐在、除隊で帰還。後年、
A市長を勤めた。故人。
 末兄は関東軍司令部付きで満州に駐在。次兄にたびた
び面会に行った。「二人が並んで写っているマンチュウ
リでの写真があります。軍曹の地位だから、そういうこ
とができたのでしょうか。……ソ連に俘虜として抑留さ
れても次兄から習ったロシア語を使い食品の配給などで
優遇されたと聞きました」。故人。

「兄弟4人、誰も死なないで帰って来られて良かった。
母は『お気の毒だから……』と言ってご近所の戦死者の
葬儀に行くのを嫌がっていました。私の入隊がもう少し
早期であれば特攻機で突入して死んでいたでしょう」
 
〈終戦 昭和20年8月15日〉
  後日「あれが『玉音放送』のものだったのかな」と思
える暗号文を受信した。通常とは違って『君が代』が流
れたのが珍しかった。
 
  米軍機から終戦を知らせるビラが巻かれた。
 そのビラを拾い集めた。
『玉音放送』を聞き、ビラを見て終戦を知った。
 その2週間後に第5楠部隊司令部の武装解除があった。
桜島の海岸に武器・弾薬を並べ、司令官はじめ兵員全員
が並び見守る中で、米軍への引き渡しが行われた。機関
銃を据えた米軍の上陸用舟艇が接近して来たが、すぐに
は上陸して来ない。2度ゆっくり沖で回ってから上陸し
てきた。そこで引渡しが行われた。
 それからほどなく、兵役解除の暗号文が届き、第2補
充兵をから順次、除隊して行った。

〈戦後のくらし〉 
 藤森さんは昭和20年9月初旬に除隊。1日7銭に軍
に在籍した日数を乗じて計算された退職金は、B市に帰
郷し子牛一頭を買って消えたほどの金額だった。軍隊で
は衣食住の問題はなかったが、除隊後のB市での生活は
苦しかった。1949年(昭和24年)八月に、次兄がい
るC県のA市に来て、翌年度から旧制中学卒(軍隊に在
籍したが通信学校を終了した経歴が活き卒業が認定され
た)の資格で小学校の教員になったが、学制が変わり教
員の資格に対応するため、児童に教える傍らU高校の夜
学に通い、次いでH大学の夜学に学び新制度の教員資格
を取得した。
 以後、A市内の小学校4校の教頭・校長を歴任し退職
後はA教育委員会で教育長を平成4年まで勤めた。
「来るな!という次兄の反対を押し切って、Aに来たが、
衣食住が大変だった。若かったので宿直を進んで引き受
けるなど収入を増やす努力をした。軍隊に行ったことで
精神と肉体が鍛えられて忍耐力が育まれたので耐えられ
た」。
 
  藤森さんは7人兄妹の末子で、農業と廻船問屋を営む
かたわら村会議員をしていた父親を10才のときに亡く
し、母親に育てられた。
 現在は厚生労働省の外郭団体『職業訓練法人』の教務
主任を兼ねた事務局長の任にある。パソコンを活用。休
日には『書』に親しみ、その芸能を仕事にも活用してい
る。

  




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