『氷結の海……エトロフ島、軍属の生活』

 

「択捉(えとろふ)島での愉しい思い出は花咲き蟹が取り
放題、食べ放題だったことです」と語る鶴島さん(87)
さんは大日本帝国海軍の第3増強部隊に徴用(強制的な
動員)されて千島列島最大の島へ送られた。31歳のと
きだった。鶴島さんは近視で眼鏡使用であることから兵
隊検査は不合格になっていた。
 海軍も陸軍も欠格事由を持つ人をも動員する兵員不足
の時代を迎えていた。1943年(昭和18年)3月24
日。雪の翌日だった。鎮守の神社で無病息災のお払いを
受けた後、自宅の前で、ご近所の人々とお赤飯に裂きイ
カ、お神酒で祝い、万歳をし形ばかりの壮行祝いをした。
国防婦人会など、ご近所の人たちが鶴島さんら3名を駅
まで見送ってくれた。家人は見送りに行かなかった、そ
れが慣例になっていた。本人にも家人にも、行き先は知
らされていない。
 妻のお腹の中には2番目の子どもが宿っていたが、そ
れを知らずに夫は旅立って行った。……
  上野から常磐線に乗り仙台経由で青森まで行き、青函
連絡船で津軽海峡を渡り、函館に着いた。目隠しのため
ブラインドが下ろされた列車に乗り継いで網走支庁の小
清水へ。長旅の末に着いた小清水の海軍施設部での最初
の仕事は雪掻きだった。2ヵ月余り土木作業に明け暮れ、
再び函館に戻った6月のある日、函館港で2千d級の貨
物船『大成丸』に乗り込んだ。軍事上の機密から目的地
は明らかにされていなかったが、千島列島に向かってい
ることにうすうす気がついていた。
 船酔いに悩まされた、2昼夜の航海だった。
 上陸してからは軍人・軍属総出で兵舎や飛行場の建設、
防空壕掘りに明け暮れる毎日だった。凍土(ツンドラ)は
硬くツルハシを振り下ろしても容易には掘り起こすこと
ができない。警察署長から転身した実父の印刷業を手伝
い、軽作業に慣れている身には土方仕事は想像以上に辛
かった。勇気づけてくれたのは、3日とあげずに送られ
てくる実母からの励ましの手紙だった。手紙のやり取り
で、家人が書く宛先は「ウの○○号」などの暗号名で受
け取る葉書には発信地がどこであるのか家人にはわから
ないようになっていた。厳しい検閲を受け、軍の機密に
少しでも関わることには墨が入れられていた。その墨は
どうやっても溶けず、色落ちしなかった。後に市販され
るようになったマジックインキのような墨だったという。
〈毎日、雪かきをしている〉
〈寒くてたまらない〉
〈今日は防空壕掘りだった〉
〈周りは海で紺碧の色をしている〉
など。その時々の消息が、わずかに読み取れるだけだっ
た――。
  
「駐屯地が千島の択捉島であることは後で判ったことで
す。6月を待って出港したのは島の海域の結氷が緩む時
節を待ってのことでした。エトロフ島では6月が内地の
1月の気候なのです。赴任地は『留別』であったように
思います。海軍と陸軍の基地がありましたが、兵員の数
などは判りません。民間人は皆内地に引き揚げ、漁民・
農民が小人数いただけで女性は一人もいません。男だけ
の世界でした。島にいると島ボケになります。郷里のこ
となど娑婆のことは何も考えなくなるのです。
〈月月火水木金金〉休みなしでモッコを担いで土砂を運
んだこと、夜、点呼が済んでから密かに抜け出して近く
の農家へ濁酒(どぶろく)や牛乳を飲みに行ったことが忘
れられません。島の人たちは喜んで飲ませてくれました」
 美味しかった。

  敵の潜水艦にいつ攻撃されるかわからない死の恐怖に
さらされながら芸人などの慰問団が北海道から時々来る
こともあったが、島には愉しみは少なかった。ハーモニ
カを吹くことが好きだった鶴島さんは手紙を書いて送っ
てもらい「誰か故郷を想わざる」「湯の町エレジー」な
どを吹いて同僚たちに聞かせた。いつ帰れるかわからな
いし、死んでしまうかもしれないという苛烈な環境下に
置かれている男たちは、鶴島さんのハーモニカが奏でる
哀切なメロディーに、誰もが涙を流したという。
 そんなことがあってから鶴島さんが持余している割り
当ての仕事を同僚が手伝ってくれるようになった。
「私の一日分の仕事を頭(とび職)は二時間くらいで仕上
げてくれました」
 荒くれ仕事に人間味が加わり、男たちのギスギスした
人間関係のなかに和やかな雰囲気が芽生え始めていた。
そんな矢先、1944年(昭和19年)10月の、ある日。
3千d級の輸送船からの荷降ろしの作業中3尺(90a)
幅の渡し板からおよそ10b下に鶴島さんは転落した。
叺(かます)詰めの荷を運んでいてバランスを失ったのだ
った。肋骨を骨折し、脚を痛めた。同僚たちが救護して
くれたが島の野戦病院には薬品類の備えが少なく、衛生
兵がヨードチンキのような薬を塗ってくれる程度の手当
てだった。しかも軽症として扱われ、毎日、仕事に駆り
出されつづけた。あまりにも非人道的な扱いだった。軍
隊の非情さを目の当たりにした。加えて、防衛上の理由
からカムフラージュが施され地下に作られた兵舎は湿気
が多くて居住性が悪く、十分な休息を与えてくれるもの
ではなかった。
「このまま死んでしまうのかな」
 と思いました。
 
 島には缶詰の野菜があるばかりで生の野菜類が極端に
少ないためにビタミン不足により脚気・壊血病などに罹
り易い。それを防ぐために週に一度、海軍の軍医大尉が
診察し、ビタミン剤の注射が行われていた。その今で言
うインターンのような軍医の診たてで、お役ご免となり、
大湊(青森県の、現・むつ市の一部)の海軍病院に入院す
ることになったのは怪我をしてから3週間あまりが過ぎ
た頃だった。
 攻撃を受けたらひとたまりもない焼玉エンジンの小型
のポンポン蒸気船に軍人を含めた数人の傷病者たちとと
も乗せられ、根室に移送された。根室からは貨物船で函
館。汽車に乗り青函連絡船で海峡を渡り、野辺地で乗り
継いで大湊線の大湊駅に着いたときには、島を出てから
1週間ほど経っていた。駅から病院までは徒歩だった。
それでも「久しぶりに看護婦等の女性を見、ことばを交
わし生き返ったようでした」

 設備の整った3階建ての大きな病院で適正な治療を受
けることができたが、兵隊と徴用者とは病棟が別で待遇
に差別があった。徴用者の待遇は劣悪だった。アルマイ
トの食器で出される食事は、主食は豆入りで量が少なく
副食物も粗末なものだった。
 愛する息子の負傷入院の知らせは、印刷機・紙の裁断
機など商売道具のすべてを軍に供出して失意の内にあっ
た鶴島さんの父親に追い討ちをかけた。居ても立っても
いられず汽車で大湊へ向かったのは、その年の『お十夜』
の前日、11月14日の朝のことだった。父子は再会を
果たしたが、ただ涙にくれるばかりだった。奇しくも病
院長は軍医大佐で鶴島さんの家のある町の隣のY市にあ
るA病院の医者だった。
「息子を宜しく!」
 と挨拶し、父は帰って行った――。

 年の改まった、翌1945五年(昭和20年)の1月
の末に退院となった。大湊の駅まで雪深い道を歩いた。
家々の軒下には数10aの氷柱が光っていた。凍えるよ
うな烈風の中、見送ってくれる者などいなかった。
 W市の自宅に着いたのは翌日の早朝だった。
 汽車が吐き出す石炭の煤に塗れ、真っ黒な顔をしたま
ま鶴島さんは玄関に立った。まだ明けきらぬ薄暗がりの
中に佇んでいる軍属服姿の男を見た妻は愛する夫の見分
けがつかず一瞬ギョッ!とした――。
 男は「俺だよ」と短く言った。
 突然の帰還だった。妻は驚愕と歓喜とで、義母を呼び
に走っていた――。
 
『S文具』店の二階が鶴島さん夫妻の執務の場である。
 87歳の鶴島さんは「他所のお店にない商品を取り揃
え、お客様を大切にしなければ商売はうまくいきません」
と明解に語る84歳の奥さんと差し向かいのデスクに座
り、今日も元気に接客をしている。
 
 平成12年 11月 7日

  


【参考メモ】
■
【千島列島】クリール列島(ロシア名)。北海道とカムチ
ャツカ半島との間1200`にわたる火山性の弧状列島
オホーツク海と太平洋を分ける。50以上の島からなり、
総面積は約15,600平方キロ。 主要な島は北から阿
頼度(アライド)・占守(シュムシュ)・幌筵(パラムシ
ル)・温禰古丹(オンネコタン)・捨子古丹(シャスコン)・
新知(シンシル)・得撫(ウルップ)・択捉(エトロフ)・国
後(クナシリ)などの各島で、北・中・南の三群に分ける
こともあるが、エトロフ、クナシリを南千島といい他を
北千島ということが多い。植物相はエトロフ島とウルッ
プ島の間の宮部線を境とする南北で著しい差異がある。
千島火山列に属し約100の火山(活火山は38)がある。
シュムシュ島以外は一般に山がちである。最高はアトラ
ーソフ島(アライド島)のアライド山の2339b。海岸
線はほとんど懸崖になっている。沿岸は魚類が豊富。古
くからアイヌの居住地で、1643年オランダのM・ド
リーフが来航した。北からは露西亜が南からは日本が進
出、1855年(安政元年)12月、日露和親条約で南千
島が日本領、北千島が露西亜領と確定した。明治初年に
は開拓使が置かれた。1875年に『千島(クリル)樺太
(サハリン)交換条約』によって全列島が日本領となった
が1945年(昭和20年)8月、サンフランシスコ講和
会議でソ連領としてロシア連邦共和国サハリン州に編入
された。日本は南千島の領土権を主張し、未解決。
『北方領土』問題としてロシア共和国政府と係争中。
パラムシル・クナシリ・エトロフの各島に水産基地と加
工工場がある。

【アイヌ】
 アイヌ Ainu はアイヌ語で「人間」の意。北海道・樺
太(サハリン)・千島(クリール)がアイヌモシリ(アイヌ
民族の国土)で、それぞれに住んでいたが、明治以来の
同化政策(本国が植民地に対して自己の生活様式や思想
などに同化させようとする政策)が進むのに従い千島ア
イヌが、第二次世界大戦後には樺太アイヌのほとんどが、
北海道に移住し、現在は大部分が北海道に住んでいる。
人口約1万7千とされているが正確な数は不明。体質や
言語は周辺民族と著しく異なり、身長は比較的低く、皮
膚の黄色みが少ない。頭は長頭型で頭髪は黒く波状で体
毛が多い。その起源について諸説あり不定。古くはサケ・
ニシン・クマ・アザラシなどの獲物を追いながら周期的
に移動する生活を営んでいた。
 鎌倉・室町時代以降、北海道に進出した和人(シャモ・
日本人)との間に抗争を起こすが1789年の国後(ク
ナシリ)・目梨(メナシ)の乱以後、道内の全アイヌが江
戸幕府・松前藩の差別と偏見による苛酷な支配化におか
れた。明治以後は北海道開拓使(道庁の前身)・日本政府
の開拓政策・同化政策で、入殖者に追われ強制移住させ
られた。農耕を強いられ搾取された結果、葬制を除いて
先住民族アイヌの固有文化はほとんど失われ、人口も激
減した。
 アイヌ固有の文化としては、アニミズム Animismの色
彩の濃い熊祭・口承叙事詩(ユーカラ)・独特の文様を刺
繍した厚司織の衣服などが、知られている。
 なお、小金井良精は日本の原住民はアイヌであるとの
説をたてたが、今日では多くの異論がある。また7世紀
の中頃、阿部比羅夫が蝦夷を討ったとされているが、蝦
夷がアイヌであるか否かは定説をみていない。ただ東北
地方にナイ(アイヌ語で沢の意)・ベツ(アイヌ語で川の
意)のついた地名が多いことからみて、古くはアイヌ文
化圏が及んでいたことは確かなこととされている。

【シャモ】
 シサム(=シ・サム・ウタラ。わたしの・隣の・仲間)
の意。内地系の日本人をいう。

【シャモ勘定】
 和人(シャモ)がアイヌとの交易で、10のところ欺
いて〈はじまり〉と〈おしまい〉を加えて12かぞえ2
個を騙し取った搾取の方法。

【択捉島(エトロフ)】
 北緯45度、東経148度に位置する千島列島中の最
大の島。長さ2千`、幅30`、面積3,165.14平
方`。西単冠山(ニシヒトカップ) 1,566b、神威岳
(カムイ) 1,322bの火山性の山地からなり、海岸は
断崖が多い。中心は北岸のクリリスク(紗那)で太平洋岸
に良港の単冠(ヒトカップ)湾〈カサトカ湾〉がある。留
別・紗那・内保に漁業基地がある。サケ・マス・カニ・
昆布・ホタテ貝などの豊富な水産資源がある。国後島(
クナシリ)を隔てて江戸時代前期から知られ1798年
(寛政10年)に近藤重蔵が航路を開き『大日本恵土呂府』
の標柱を建てた。1800年(寛政12年)に近藤重蔵・
高田屋嘉兵衛が沿岸17ヵ所に漁場を開いた。
1855年(安政元年12月)日露和親条約で日本領に
なり、日本の北洋漁業の根拠地になっていた。第2次世
界大戦後1945年ソ連邦の統治下にはいった。国後島
と共に領有権で対ロ係争中……。

【近藤重蔵】
 北方探検家・名は守重。号は正斎。1798年に江戸
幕府松前蝦夷地御用掛となり蝦夷千島方面を探検した。
辺境の地理を記した〈辺要分界図考〉、江戸幕府の外国
関係文書を編述した〈外蕃通書〉金銀貨幣分類法の典拠
とされる〈金銀図録〉などの著書がある。
(1771〜1829)

【高田屋嘉兵衛】
 江戸後期の回船業者。淡路の人。幕府の募集に応じ初
めて択捉島を探検。函館を根拠に蝦夷の産物売捌を広く
請け負った。1812年、ロシアの軍艦ディアーナ号で
世界周航の途上、上陸した国後島で逮捕された艦長の海
軍士官V・M・ゴロブニン(通称ゴローニン)の報復措置
としてロシア船に捕らえられ、連行された。翌年帰国後
ゴロブニンの釈放に力を尽した(1776〜1831)。

【北千島日記】
 内藤史朗著 STEP社刊。
 医師である内藤氏は嘱託医(佐官待遇の高等官)として
幌筵(パラムシル)に滞在した。1944年(昭和19年)
3月14日〜同年12月4日の生活の記録で家族をおも
い繰り返し見る家族の夢の記載は痛ましいが地誌的な雰
囲気をも持っている。好著である。
 釣りが好きな筆者は岩魚や鱒などで釣果をあげ士官た
ちと分け合って食べている。……

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