機関室の戦争

 
   暮らし、いま

 お友だちと連れだって行く旅行がたのしみで、2泊3
日の日程が取れる休日には必ずでかけるという、木本善
太郎さん(76歳)はJR東北線のM駅の駅前通りで、月
曜から金曜日の6時から20時30分まで、自転車の預
かり所をいとなみ、土・日曜には家事――家(5部屋)の
掃除と洗濯という生活だ。洗濯は全自動。お風呂は灯油
のボイラーと電子式の二元システムで、24時間いつで
も入れる仕組みを10数年まえに採り入れた。
 
「年金生活者だが船員をしていたので40年間、年金が
おりるので暮らしの心配はない。いまの仕事は小遣い銭
くらいの稼ぎにはなる」という。
 身についた船上の生活――シフトの休憩時間ごとに洗
濯したり、ベッド・メークをしたりして身のまわりを清
潔に美しく保つ習慣が木本さんのひとりぐらしに息づき、
さゝえている。
 6年まえ(1994年=平成6年)の3月、5歳年上
の奥さんが亡くなられた(享年75歳)。その際、喪失感
による激しいショックで倒れ、一週間、人事不省に陥っ
た。その後遺症で右手と右脚が不自由になり、リハビリ
テーションがいまもつづいている――。 

「陸軍兵は先ず満州へ行ってから南方へ散って行った。
陸軍へ入った友だちは、みんな玉砕で亡くなった。子ど
もがなく、ひとりぐらしは本当に淋しいよ。淋しいけれ
ど、毎日、近所のひとが声をかけてくれたり、自宅では
家内の実家のお嫁さんが気づかってくれて、なにくれと
なく手伝ってくれるので助かる。こころ強いよ」
  
   偶然、船乗りになる
 1924年(大正13年)1月23日、生糸関連の事業
をしている両親(父・玉一さん、母・そやさん)の5人き
ょうだいの長男として新潟県南蒲原郡(かんばらぐん)で
生まれた。生後、前橋(群馬県)に移り、子守りの女性に
育てられる。松本(長野)を拠点として飯田(長野)前橋・
横浜(神奈川)で活躍していた、お父さんを高等小学校5
年生であった12歳のときに亡くす。18歳のときに偶
然みかけた募集広告に密かに応募した。
「オレ、船乗りになるんだ」と採用通知を見せると、連
れ合いを亡くし、長男の成長を楽しみにし、頼りにもし
ていた母親は吃驚して猛反対した。反対は、当然のこと
だったが、海の男になることを夢見た木本さんは、母の
制止をふりきって横浜の海岸通りの海員養成所に入所し
たのだった。
 朝6時の山下公園でのランニングにはじまり、甲板に
みたてた廊下のモップがけ、ロープワーク、接岸の仕方
などの訓練を3ヵ月間うけて貨物船の乗組員となった。
この年の6月5〜7日に航空母艦四隻・兵員3千500
人・飛行機300機を失い大日本帝国海軍が致命的な打
撃を受けたミッドウェー海戦があった。
 前年、1941年(昭和16年)12月8日に日本軍の
真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争に突入してから、戦時
下として船舶の航行はNHKのラジオ放送などと同様に
国(=内務省)が統括していた。国による管理は昭和23
年まで続いた――。

 大阪商船三井社系の、乗組員が50人の貨物船に乗り
込んだ。機関室で蒸気機関のボイラー用の燃料の石炭を
一輪車で運ぶのが、かけだし機関員としての最初の仕事
だった。8時・12時・4時を交替時間とする三班制。
4時間働いて8時間の休憩、そのくりかえしのシフトだ。
1時間仕事に従事して1時間の休憩で実働は2時間だが、
通称ナッパ服といわれる純白のオーヴァーオールは炭塵
で真っ黒になる。激しい機関音のする機関室は40℃以
上になり、ムンムンする熱気とむせるような油脂類の臭
気が満ちており、だれもが酔ってしまう。
 船上の生活は絶対服従の世界で、ときには木のバット
で気合を入れられることがあった。絶対服従が改善され
比較的、自由な雰囲気になったのは戦後1947年(昭
和22年)以降である。
 船長=キャプテンの職務権限・海員の規律・船員の労
働保護など、労働基準法と異なる特則を規定する『船員
法』の制定を待たねばならなかった。
 作業環境は厳しかったが地上の通常の仕事の3倍の給
料は魅力だった。苛烈な環境での楽しみは、食事の時間
だ。コーヒーはブラックでいつも沸いている。タバコ・
酒などの嗜好品を含めて船上の生活費用は一切かからず、
厚生面で優遇されていた。男の仕事として誇りの持てる
職場だった。2年間で45日の有給休暇があり、休暇後
には別の船に移る仕組みになっていた。北海道から九州
方面の太平洋岸を主として航行した。

   乗組員の構成と船上の暮らし
 乗組員の構成は、船長(キャプテン)以下◆機関長◆機
関士(1等・2等・3等)◆機関員◆航海士(ナヴィゲー
ション・オフィサー)(一等・二等・三等)◆甲板長(水
夫長・ボースン)◆甲板員(水夫・セーラー)◆料理人◆
無線技師◆医師(ドクター)◆事務長(パーサー)で成って
いた。機関員の仕事はコロパツ(石炭運び)からはじまり、
フィアマン(釜焚き)・エンジンの油差し(ナンバー3・
ナンバー2・ナンバー1)である。
 仕事のランクが上がるにはカテゴリーごとに3、4年
の経験が必要で、当時の機関員の最高位は「油差しのナ
ンバー1」だった。
 商船大学の出身者でなければ管理職に就けない、試験
による昇進制度もない。船の上では「格付け」による待
遇の差が著しかった。キャプテンやオフィサー級は個室
だが、機関員は6人の相部屋ぐらし。8時間の休憩時間
に入浴・洗濯・食事をすませ、睡眠をとる。風呂は24
時間いつでも入れ、洗濯は海水で洗ってから真水で濯ぐ。
洗濯機がない時代であり、手洗いだ。
 食事は■パン■米飯■肉(鶏肉・牛肉・豚肉)■鮮魚■
野菜■果物■スープ■フレッシュジュース■ヨーグルト
などが美味しく、ふんだんに食べられる。蒸気で蒸した
ご飯は美味で、お焦げは「おこし」として売れたという。 

応 召
 1944年(昭和19年)、20歳で大日本帝国海軍横
須賀鎮守府へ入隊後、下北半島の現在の、むつ市の一部、
海上自衛隊の基地がある大湊へ赴任した。標高879b
の寄生火山の釜臥山を背い、前に大湊湾を控える天然の
良港で海岸要港部が置かれていた海軍の北の要港である。
 木本さんは機雷除去やサルベージをおこなう掃海艇に
乗った。港湾では、100d級の小型の船体の2艇が掃
海索(さく・大なわ)を微速でゆっくり曳航して機雷を探
知し除去する。浮遊機雷は銃撃で爆破し、係留機雷は掃
海索で係累索を切断し浮上させてから爆破する。危険な
作業であり、戦友が何人も亡くなった。掃海作業はサー
チライトを使って夜間もおこなわれた。
 空襲もなく戦闘もない北の軍港で、掃海艇の機関室の
中が木本さんの戦場であった。終戦の翌年、1946六
年(昭和21年)5月に除隊。防衛庁によれば、掃海業務
は1956年(昭和31年)まで続いたという。戦争が終
わっても進駐軍(米軍)と共同で安全な湾になるまで掃海
作業が続けられた。……日本の掃海技術が高く評価され
て、1991年(=平成3年)の湾岸戦争の機雷処理に海
上自衛隊の掃海艇がペルシャ湾へ派遣されたのは、この
頃の共同作戦の成果のレポートが米軍内にあってのこと
かと思ったりした。 

「海軍の食生活は良かったよ」とのことで献立の詳細は
記憶にないという。近年、横須賀市内のあるレストラン
で復活したという「海軍カレー」だが北の軍港のメニュ
ーにはなかったという。木本さんが軍にはいったのは帝
国の人民の3度の常食が芋の葉っぱのスイトン(水団)や
サツマイモになりはじめていた時期であった。

   戦 後
 1946年(昭和21年)5月に除隊し、戻った東京に
はすさまじいインフレの嵐が吹き荒れていた。ほとんど
の船が沈められ、復員してきても乗る船をさがすのが困
難だった。機械が好きで技術指向であった木本さんはロ
ードローラーのオペレータとして、陸の仕事に就いた。
日給が240円であることから日雇いの仕事がニコヨン
と呼ばれた時代に、技術者としての仕事をしっかり確保
している。
 木本さんが所属する船会社では1948年(昭和23
年)から、燃料が重油に切り替わりコロパツやフィアマ
ンがいらなくなるなど乗組員が半分ですむようになって
船乗りには職場の確保がむつかしい時代になった。船に
戻ってからは、台湾(高雄港・基隆港)・フィリピン(マ
ニラ港)・タイ・香港・大韓民国(釜山港・麗水港)など
を主とした外洋航海が多くなる。積み荷は大豆・綿・自
動車などで、ほぼ一週間で往復した。パナマ運河を2度
航行したことがあったものの機関室勤務で外の情景はま
ったく見ていないという。1950〜53年(=昭和2
5〜28年)の朝鮮戦争のときには、地域により差があ
ったものの、給料と半額〜同額の危険手当が支給された。 

   船員としてのおいしい話
 港ごとに「何かないか?」とブローカー風の男たちが
買いに来て、日本製のカメラや時計(セイコー社製)など
が言い値で飛ぶように売れた。現地で仕入れた、米・ウ
ィスキー・サッカリンなどや内地(日本国内)で免税で買
い求めてそのまま持ち帰ったものに、帰国後、2倍3倍
の値段で買い手がついたという。
「――だいぶ儲かって、大きな資産ができたでしょう」
と水を向けると「稼いだなりにつかってしまった」と笑
った。当時は、麻薬・大麻・覚醒剤などの密輸の問題が
なかったので、申告するだけで税関の専用ゲートを通過
できた。 

   遊 び
 港にはどこにも遊廓などがあり、船員は金回り金離れ
が良いので、どこでも歓迎された。なかには、借金の肩
代わりをして女性を連れ帰ったお仲間もいたとか。港の
遊廓は女性が50人ほどの規模で、食べ物を土産にして
喜ばれたという。二本木(熊本)福原(神戸)吉原(東京)
に登楼した。「特に木更津・千倉(千葉)の遊廓には思い
出がある」と思い出し笑いの表情が楽しそうだ。気立て
のいい妓がいたのだろう(【メモ】〈廓・遊里〉参照)。

   陸に上がる
 30才のとき(1954年=昭和29年)に船をおりる。
陸にあがってからはボイラー技師として、渋谷郵便局・
日本鋼管などを経て、定年まで新宿文化服装学院で勤め
上げる。友人の引きで職場を移るごとに給与に1万円の
上乗せがあり「手に職というのはありがたい」と思った
という。
 この間(かん)、1963年(昭和38年)に39歳で
結婚。付き合いはなかったというが、海軍を退きロード
ローラーのオペレータとして舗装工事で埼玉県にきてい
た際にめぐり合った女性と結ばれる。
  強い『縁(えにし)』で結ばれた、お二人。

「……兄妹には会いたいけれど、みんな、それぞれの家
庭があるから……」と思い遣る木本さんは、いま、奥さ
んの七回忌を楽しみにしている。四人の肉親たちと久し
ぶり会えるからだ。

   木本さんへ
 奥さんが亡くなられた年の11月に、お母さんが亡く
なられた(享年97歳)と聞きショックでした。重なる不
幸が木本さんにはどれほどのショックであったことでし
ょう。哀しみや淋しさを追体験させてしまうインタヴュ
ーは地獄の所業であり、私には不向きであると思いなが
ら、お話しを聞きとおしたことになります。ご不快に感
じたところがあったことでしょう。ごめんなさい。
 昨日、何をし何を食べたか記憶していないというのが、
生活です。訪れた港の様子などの細密なお話をお聞きし
たかったのですが、遠い昔のことですし、生活(仕事)で
行くのですから細かいところを覚えていないのは当然の
ことです。
 煎れてくださったコーヒー、美味でした。お茶ではな
くてコーヒーであるところが元船乗りらしいとおもいま
した。貨客船をハンメリと言い、旅客12人以下の船も
貨物船に含まれることも知りました。
 青春時代の思い出の地・大湊に行ってみたいでしょう、
行けるといいですね。木本さんのお話が吉原(千束)界隈
を歩く、きっかけにもなりました。ありがとうございま
した。いつまでもお元気で、木本さん! 

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【参考メモ】
■当時の船の食物の保存法  
  商船三井(港区虎ノ門)に保存されている資料には食
物の保存を示すものが見当たらなかった。メニューにみ
る食材と当時の船舶には電気がなかったという同社の社
史編纂室長の長田氏の話しから考察すると、冷蔵庫では
なく氷をつかった保冷庫に保存されたものと思われる。

■廓・遊里
〈わが背子が来むと語りし夜は
       過ぎぬしゑやさらさらしこり来めやも〉
〈里人の見る目恥づかし左夫流児に
         さどはす君が宮出後風〉
 左夫流児(さぶるこ)=遊び女。後風(しりぶり)=後姿。
など、その存在を示唆する歌が万葉集に散見されるが、
遊女を集めて売春を公認する制度は江戸時代に整った。
吉原(江戸)・島原(京都)・瓢箪町(大阪)・稲荷町(下関)・
柳町(博多)・丸山(長崎)など20数ヵ所の公認の遊廓が
有ったといわれている。
 遊廓は明治時代に急増し1924年(大正13年)に
全国で544ヵ所あった。1946年(昭和21年)の連
合軍総司令部(GHQ)の指令によって日本の公娼制度は
廃止されたが遊廓地帯と私娼街を特殊飲食街と呼び赤線
地帯として、女給(ホステス)との売春が黙認された。
 1958年(昭和33年)の売春防止法施行当時の赤線
地帯などは警察庁の調べによると全国1千8百ヵ所、業
者3万9千軒、売春婦12万人となっている。
 江戸の吉原は、1617年(元和3年)に葭(よし)町(
現、日本橋人形町)の湿地帯を埋め立てつくられた。葭
原(吉原)と呼ばれたが1657年(明暦3年)の江戸大火
で焼失、遊廓は千束日本堤下三谷(現、台東区浅草北部)
に移転した。以後、浅草の新吉原に対して葭原を元吉原
と呼んだ。2〜3千人の遊女をかかえ、一大享楽地、社
交場として繁盛し、芝居などとともに多くの江戸の芸術
を生み出す文化の源泉となる。明治以降は各地の花柳界
(花柳の巷、色里)の発展にしたがって衰微、単なる売春
地帯に堕した。売春防止法施行により廃業。一部は旅館、
娯楽場に転業した――。
 
「当時のものは何もありません」と交番のお巡りさん。
なぜか人影のない鷲神社の裏の「花吉原名残碑」のある
吉原弁財天から、久保万さん(久保田万太郎)の句碑があ
る吉原神社を経て、呼び込み氏の「きょうのお遊びはお
済みですか?」という声を背中で聞き流しながら、昼さ
がりの特殊浴場(ソープランド)街を徘徊。案内板による
と6代目だという「見かえり柳」をガソリンスタンドの
前の歩道に見る。
 天麩羅の「土手の伊勢屋」と馬肉料理の「桜肉鍋の中
江」を右に見て土手通りを行き、竜泉の一葉記念館へ。
新吉原の遊廓の雰囲気を伝えるモノクロの写真がのこっ
ていた。金杉通りから根岸の「子規庵」への道々、明治
になって全国的に廓の数はふえたが吉原の文化が廃った
のは、薩摩・長州・土佐の下級武士の連中には江戸の粋
や風流の文化の味がわからなかったからではないかと思
ったりした――。
 たとえば。内務卿になり、明治政府の実質的ナン
バー・ワンとなった大久保一蔵(利通)が、ある庭園を訪
れたおりに江戸幕府が補助金を与えて保護していたこと
を知り、しきりに感心していたというが、このことは一
蔵さんの文化事業に対する考え方の限界をしめしている
のではないか、と思った。自分が知っていること、でき
ることに、人は感心などしない筈である。「東京語」を
共通語として採用したのは、この件の後だったか、前だ
ったか。
 
 著作権の関係で、終戦直後の世相の詳しいメモを消去
したので大分軽くなった。写真家の故林忠彦さんの『カ
ストリ時代』や千代田区九段の『昭和館』の資料などが
参考になる。

 【協力】
商船三井株式会社・社史編纂室
防衛庁
警視庁
  


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