『遥かなる島』

 

「……だから戦争に負けたんだ、と揶揄されたり恨まれ
ても困るので、軍隊時代の話をしないことにしよう、と
内地に帰ってきた直後に友人たちと申し合わせていまし
た。当時、ジャワ島は南方圏に展開している日本軍の食
料庫のようなものでした。
 衛生兵として病院に勤務していましたので食事は入院
患者と同じで待遇がいいんです。
『戦場にきて、こんなものが食べられるのか!』
 と、驚くほど恵まれた食生活でした。質はともかく量
は十分でした。バナナ・マンゴー・パパイヤなどの果物
もふんだんに食べられましたし、お酒も頻繁に飲めまし
た。
 赤道直下とはいえ、私のいたマゲランの町はメラピー
山麓の高地にあり軽井沢のように涼しいところで夜にな
ると半袖に半ズボンの軍服では寒いくらいでした。戦略
施設がないので敵の攻撃もなく、快適な生活でした」。

 F市内で現在も現役で自転車店を営んでいる長渕政夫
さんは、エネルギッシュで年齢(77歳)を全く感じさせ
ない。話は明解だ。
 店舗内の壁面には《四十の手習いで独学で始めました
た》という静謐で華麗なタッチの絵画が掲げられている。
幽玄な作品もある。

長い旅
 応召で東京駅に集合し軍用列車(普通の客車)で広島に
向かったのは昭和18年(1943年)12月8日の夜の
ことだった。20歳だった。翌日の午後7時頃、現着。
 兵士専用の旅館街の1軒に引率の下士官(軍曹)ととも
に1斑20名が泊り込んだ。
「現地入隊という召集でしたので入隊後の心得・戦陣訓・
軍人勅諭などの予備的な説明を軍曹から受けただけで、
軍事訓練はありませんでした。毎朝、宿の前に整列し点
呼があり、これは健康チェックも兼ねていました。
 食事は3食。毎日、風呂にも入れました。2日に1回、
軍曹に連れられて市内を行進しました。行軍というほど
のものではなく、ストレス解消と運動のための散歩でし
た」
 10日間待機し12月18日に4隻の輸送船団を組ん
で宇品を出港。約300人が乗り込んだ輸送船『徳島丸』
のハッチのボードには砂が積もったままになっていた。
船員の話では、ジャワ海戦で浅瀬に沈没し急遽引き揚げ
られたという曰くつきの船だった――。
 晴れて出港したが、出た途端に警報が鳴った。獲物を
求めて潜んでいる東シナ海の敵潜水艦の動向を見極める
ために北九州の若松港で、再び待機となった。
「昨日、他の船が潜水艦の攻撃をうけ被害があったばか
り……」
 という船員の話を聞き、敵の潜水艦に狙われているこ
とを知ったが、恐怖感は全くなかった。 
『オマエたちは戦争に行って天皇陛下のために死ぬんだ』
 と、毎日くり返された軍曹の話でマインドコントロー
ルの状態に陥っていたのだろうか……。
  2日後に出港。台湾(現・中華民国)の高雄に寄港し飲
料水・糧食などを補給した。船の上で4日間をすごした。
 次の寄港予定地はベトナム(現・ベトナム社会主義共
和国)のサイゴン(現ホーチミン)だった。メコン川の河
口付近で潜水艦の攻撃をうけ、船団4隻のうち2隻が沈
んだ。何十何百という兵士たちの遺体が頭部だけを見せ
て汽水域の淡水側にプカプカ漂っていた。メコンの濁り
水で胴体や脚部は見えない。まるで水中に佇んでいるか
のような不思議な光景だった。『なるようになれ!』戦
争に行くのだから、いつ死ぬかわからないと半ばあきら
めの境地にいたので、恐怖も不安も同情も、なんの感情
もなかったが、その奇妙な光景だけが記憶に深くきざみ
こまれた。
 足が遅く、船団から大きく引き離されたことが幸いし
て、攻撃を免れ『徳島丸』の乗員は無傷で生き残ること
ができた。サイゴンに上陸して10日間ほど滞在した。
暑い気候を除いては、広島での生活と同じだった。軍服
の上着を脱ぎシャツ姿ですごした。
 サイゴンからは100人乗り位の小さな船でメコン川
を遡行してカンボジアの首都プノンペンに着いた。ワラ
葺きの簡易宿泊所のような宿舎で10日間をすごし列車
で国境を越えてタイ王国の首都バンコックへ。ここにも
10日間ばかり滞在した。
 バンコックからは引率の軍曹をふくめて21人が1車
両にギッシリすし詰めの状態でマレー半島を縦断する貨
車の旅となった。食事は、到着時間に合わせて兵站部が
用意する。桶に入れてトラックで駅に運ばれた。ご飯・
味噌汁・惣菜を、停車時間に積み込み、各人のハンゴー
(飯盒)に配分して食べた。空になった桶は次の駅でおろ
した。
 ゲリラが出没して橋梁を爆破されたりしたが、ともか
く列車はシンガポールに着いた。船待ちで10日間余り
の滞在の後、ジャワ島のジャカルタに向った。途中、赤
道通過のときには《赤道祭り》を厳粛に催した。清酒を
飲み餅を食べて祝い、航行の安全を祈った。
「それだけ、縁起を担いだのでしょう」

  バタビア(現ジャカルタ)ではオランダ軍がつくった兵
舎を宿舎にした。清潔、快適で、食事も良かった。他の
部隊も来ていて約千名いた。ここでは、正規の訓練をま
だ受けていないにもかかわらず、少しでも気を抜いた態
度をみせると、本性をあらわしたのかコチコチの軍人タ
イプの軍曹から『貴様らぁ、だらしがない!』とぶん殴
られた。列車待ちで10日間くらい滞在した。

入 隊
 ジャカルタから中部ジャワのジョクジャカルタまで客
車で移動した。それから2時間ほどのトラック輸送でマ
ゲランの町へ入った。自宅を出てから2ヵ月余りの長い
旅だった。「やっと着いた!」と思ったが、病院に着い
て直ぐに入隊式があった。オランダから接収したマゲラ
ンの第6陸軍病院は、立派な外科手術室を備え、内科・
眼科・歯科のある近代的な病院だった。
 因みに、当時は、ジャカルタに第5陸軍病院・スラバ
ヤに第7陸軍病院があった。
 入隊式の後、ジョクジャカルタに戻り中部ジャワ防衛
隊(正式な部隊名は失念)で3ヵ月の間、第1教育・陸軍
の初年兵教育の軍事訓練(匍匐前進・銃器の取扱いなど)
を受けた。次いでマゲランの病院で第2期初年兵教育と
して衛生兵としての専門の教育訓練を受けた後、病室・
事務室・教育隊事務・庶務室・薬室・療工室(外科で使
うメスなどを作ったり磨いたりする)・経理・外科・内
科・眼科・歯科・レントゲン科に分かれ、専門分野別の
教育が行われた――。

 何平米あるのかわからないほど広大な敷地に、屋根つ
きのコンクリートの長い渡り廊下で平屋建ての建物がむ
すばれていた。内科の病棟が100床、外科が50床あ
った。唯一、2階建ての本部棟の前にはリハビリテーシ
ョンセンターがあり、そこでは、傷病が癒えた兵士たち
を再び戦場へ送るための機能回復訓練がおこなわれた。

ジャワ現地女性の教育
 長渕さんは教育隊の事務室に配属になり『兵保』の現
地人の通訳をまじえ、現地の女性を補助看護婦に育て上
げるための教育を担当した。教材は手作りで毎日つくっ
た。隣室の病院長(軍医中佐)に明日の教育内容を書いた
原稿を見せ承認をうけてから、謄写版で人数分の教材を
刷り上げる。衛生知識など、まるでなかった人たちの知
識が日に日に増えてゆくのが目に見えてわかり、やり甲
斐があり愉しくもある任務だった。自分のインドネシア
語の会話力も日増しに上達し、それにつれてコミュニケ
ーションが濃密になっていった――。

 朝9時〜夕方5時までの勤務で、午前中3時間と午後
の1時間を教育にあてた。前任の士官の後を受けて終戦
まで8ヵ月間、在任した――。
「陸軍は、200人の現地人女性を雇い、外科の陸軍看
護婦と福井の赤十字病院から派遣された内科の看護婦の
下働きをするアシスタントの養成を図ったのです。
 終戦の頃には150人くらいに減っていました」

敗 戦
 広島に爆弾が落とされたというニュースが、どこから
ともなく伝えられていた。負ける、という言葉はタブー
だったが、誰がいうともなく
「あんなものを使われるようになっちゃ、お終いだな」
 という話が広がっていった――。
 いざ敗戦となってみると、なんとなく悔しくて腹が立
った。病院本部棟の裏庭でパパイヤの木を軍刀でブッタ
切ったり、妬け酒を飲んだりして憂さ晴らしをした。
 傷病兵が死ぬ時、言われているような「天皇陛下バン
ザイ!」ではなくて皆「おっかさん」と叫んで逝った。
 敗戦となっても、内地の宮城(現・皇居)に向かって泣
き崩れるというようなことはなかった。
……戦争が終わったので、帰りたかった。帰りたいけれ
ど「内地に帰ってもダメじゃぁどうしよう?」と、複雑
な気持ちだった。半分は諦めていた。病院の関係者には
いなかったが、侵略行為に辟易し脱走して現地に残った
兵士(士官・下士官を含む)が少なくなかった――。

従軍衛生兵
 敗戦後。病院をオランダ軍に引き渡す仕事は大変だっ
た。接収当時とそっくりそのままで返還するということ
で、医療器材・備品の一つ一つの数を合わせてオランダ
語と日本語のリストをつくった。
 引渡しの準備が整った頃、日本軍が現地インドネシア
人たちを訓練し鍛えて育成した『兵保』隊が、武装解除
した日本軍の武器をすべて接収し、強大化して『ジャワ
独立義勇軍』となっていた。その義勇軍から
「われわれは病院を引き渡さないから退去してくれ」
 という勧告が出た。
「『退去!』と云われても行く所がない」
 と、回答すると黙って静かに帰って行ったが、ある夜、
義勇軍はトラックでやって来て、日本人の病院関係者を
全員逮捕して現地人用の刑務所に収監した。イギリス軍
傘下のインド軍の手で解放されるまで1週間余り刑務所
暮らしだった。インド軍とは以後、手を結んでジャワ独
立義勇軍の討伐作戦を展開することになった。
 このインド軍はビルマのインパール戦線で日本軍を苦
しめたのと同じ、ネパールのグルカ兵で構成されていた。
長渕さんらは、赤十字のマークがついたバッグを肩から
下げて衛生兵として参加、従軍して活躍した。
 日本軍によって組織され鍛え上げられたジャワ独立義
勇軍の作戦は巧妙でしぶとく、戦い振りは勇猛だった。
半年余りの戦闘を繰り返して、ようやく平定した。ゲリ
ラ平定時に贈られたターパー大尉からの『感状』は威力
絶大で、復員船待ちの日本軍の収容所となった無人のガ
ラン島へ渡るとき
「砂糖でも米でも何でも好きなだけ積み込め! 輸送用
のトラックも燃料も持って行け!」
 と、優遇された――。
 こうして、かなりの物持ちとなって島に渡った元衛生
隊だが、その所有物資の豊かな故に他所から送られて収
容された部隊から頻繁に略奪され続けたのだった。

慰 安
 月に1回くらいの頻度で、講堂に入院患者等を集めて
『隠し芸大会』などバラェティーに富んだ催し物を行っ
た。内地から慰問団もきた。有名なところでは歌手の藤
山一郎が頻繁に慰問にきた。軍刀は下げていなかった
が軍服姿で、佐官待遇だった。
「藤山一郎さんとは東京で1度面識がありました。復員
船待ちの南方軍の司令部ができたレンバン島でも話をし
ました。アコーディオンの演奏を聞いて直ぐ、プロの腕
前だ! と思ったら、藤山さんの演奏でした」
 他には浪曲師の広沢虎三、舞踊家の飯田三郎など。
 
「ジャワ島にも従軍慰安婦はいました。病院は関係して
いました。彼女たちの次の営業日(日曜日)に間に合うよ
うに医者と看護婦が行って「体液」などを採取して来て
培養して検査します。花柳病(性病)の検査結果の1覧表
が作られていました。直接担当していた訳ではありませ
んので、人数など具体的なことはわかりません……」

復 員
 昭和21年(1946年)6月に復員した。
 ジャワ島から帰って4年目の頃。農業研修に来たとい
うインドネシア人が偶然、長渕さんの店に入ってきた。
雰囲気でわかったのでインドネシア語で応対したら中部
ジャワのスマランの町角で起きた事件を、共通の知識と
して知っている人で互いに吃驚したという。そのインド
ネシア人は、事件をおこしたゲリラの指揮官だった――。

                   ☆

  絵画は「鑑賞するのが好きなら描けるよ」と勧められ
て、たまたま描き始めました。独学でも37年も描いて
いれば格好がつくようになります。腕前は、もう、これ
以上にはならないでしょうが……プロの絵描きになる訳
ではないですからね。

「インドネシアですか? 旅行でなら、行ってみたいで
す。通訳の人や教え子たちの、その後の暮し向きがどう
なっているか、知りたいと思ったこともありましたが時
が流れ、時期的に遅くなってしまいました。ジャワでは
早い人は12歳くらいでお嫁に行きます。南方の人は早
く大人になって早く死んでしまう。
 乾季と雨季の2季しかない季節と食品が、寿命に関係
するのかも知れません。性向は熱しやすく冷めやすい、
極端なところがあるのです。最近の暴動を見てもそう思
います。
……高い水準の生活をしているのは限られた1部の偉い
人で、ほとんどの人たちが貧しかった。特に、山地に居
住している人たちは極端に貧しく惨めな生活をしていま
した。

平成12年 12月 15日

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