『望ましいことではありません……』

 
「戦争を話題にするのはあまり望ましいことではありま
せん。そういう時代があったということ。良いことも悪
いことも広く正しく知り、選べるだけの知識と自信を得
て偏らない考え方を身につけるという意味ではいいでし
ょう――」

  山城さんは、1938八年(昭和13年)大本営広島鎮
守府の宇品を出港、ターリエン(大連)に上陸した。満州
鉄道でハルビン(哈爾浜)経由でペイアン(北安)に着き、
関東軍の第四方面軍司令部に入隊した。
 配属はソ満国境にあるヘイホー(黒河)の国境守備隊だ
った。黒龍江の対岸にはソ連軍の陣地が見え、その向こ
うにシベリアの原野が広がっていた。
「国境線は川の中心部にあり流量によって国境線が移動
する。そのへんはいい加減なところです。国境に大部隊
を動員すると刺激されて相手も増強する。それで、こち
らが、また増やす。敵もまた増やす。戦争とはそういう
ものなのだが、それでは、きりがないので、歩哨がちら
ほら見える程度、相手を刺激しない人数で警備する。国
境紛争はむつかしいのです」

 国境守備隊は少尉を隊長とする1個小隊30名。12
人が上番・下番といって1日交替で24時間、歩哨に立
った。無線は約20キロ離れた北安の大隊本部にしかな
く、ツンドラ(凍土)で柱が建てられないので電話のケー
ブルは国境までは届いていない。馬一頭を伝令に使って
いた。良い悪いは別にして軍は組織的に動くので教育を
受けていなければだめ、使いものになりません。現役兵
と補充兵がいるが補充兵は教育を十分に受けてないので
実戦では役に立たず戦争にならない。この点、関東軍は
強力でした。 


 1食2合、1日6合の食事は分量として多くない。皆
スリムだった。関東軍の組織力は、それだけ消耗の激し
い軍事教練から生み出されたものだった。
「しかし、情報の伝達は馬で地図をたどるようなもので
すから、心許ないものでした……。
 いま考えるとお話しにならない。笑われてしまいます
よ。国境を離れてからは1所にとどまることなく北支・
中支を移動し、華南省の黄河のほとりの省都・開封の近
くのトッケンを最後に、昭和16年4月末、内地に転属
となりました。関東軍は留守部隊をもたないので京都の
16師団に間借りのような状態で所属しました。
 司令部は伏見の深草にあり野砲第22連隊と歩兵第9
連隊が所属していました。
 昭和16年の12月7日までは支那事変です。
 太平洋戦争がはじまってからはマレーシアへ行きまし
た。満州と支那にいたことから1年くらいで退役が認め
られた次第です。……人を殺すのは悪い、それがわかっ
ていて天下国家のためだからと世論は戦争を支持したの
です」

 山城さんは、静かになめらかに語った。細かい戦闘の
ことを訊くのは無意味に思え、礼を言って退席した――。

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