『南十字星の彼方に』

 
「シンガポールの夜空は空気が澄んでいて非常に綺麗で
した。歩哨に立ったときに独りで南十字星を見ていると、
言いようもなく淋しく辛かった。軍隊時代の思い出は哀
しいことが多いです」
  西岡善太郎さん(84歳)は1916年(大正5年)5月、
B県S市の現・店舗地でパン屋さんの長男として生まれ
た。S市の尋常高等小学校を卒業後、お父さんにパン作
りの技術を学び、2代目として家業に専念していた。
 赤紙(軍の召集礼状)が来たのは25歳のときだった。
 1941年(昭和16年)の5月、東京・世田谷の大日
本帝国陸軍××連隊石井部隊に入隊した。6ヵ月間、自
動車学校で運転技術を学び、同年9月30日に渕野辺(
神奈川県相模原)の大日本帝国陸軍東部88部隊(前身
は東京・中野にあった逓信隊)に転属した。日産自動車
製の2トン・トラックにて通信機器の輸送に当たる。
 翌17年シンガポールに派遣された。
 通信機司令部付となり通信隊参謀車の専任運転手を勤
めた。 通信基地の建設、空中線(アンテナ)や通信ケー
ブルの敷設には捕虜になったことを悲しまず「母国に帰
れる」と喜んでいた捕虜のイギリス・オーストラリアの
将兵が手足となって勤勉に働いた。
 「身体が大きくて機材をらくらく運んでくれて助かり
ました」捕虜には奥さんの写真を見せる者もいたりした。

〈シンガポールの休日〉
 1週に1度の休日は普段美味しいものを食べていない
のでコーヒーやケーキを喫茶店で楽しむなど、食べ歩き
をした。ドリアンは高価でなかなか食べられなかったが
バナナ・マンゴーなどの果物はよく食べた。
 自然にパン作りに目が行ったがフランスパンなど粗悪
な材料で作られていて美味しいものではなく技術的な参
考にはならなかった。

〈戦場の憩い〉
 軍人たちの憩いの場所となっていたオーチャード・ロ
ードのラッフルズホテルには内地から、舞踊・浪曲・歌
謡などの慰問団がつぎつぎと訪れ、楽しみだった。
 シンガポールの慰安所は3ヵ所あった。

〈終戦〉
 1946年(昭和21年)5月、広島の大竹港に復員。
貨物列車で品川駅に運ばれ、汽車に乗り換えて帰宅した。

〈戦後のくらし〉
 食料難の時代、パンは作れば売れ繁盛した。材料の小
麦粉はアメリカ産のものが容易に入手できた。進駐軍の
米兵がジープで買いに来たことがある。

 最初の訪問で以上のことを話してくださった。
「追加質問」を考えたが、西岡さんは私の質問に応えら
れない状況になったしまわれた。……一日も早く回復さ
れることを祈ります。いずれ、昭和17年のシンガポー
ル陥落の模様など、詳細をお訊きしたい。



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