『絶望のソ満国境……氷点下50℃の前線の戦闘』

「戦争の話はしない。軍隊のご飯を食べてきた人にしか
その苦しさは解かりっこない。軍隊というのは生易しい
ものではない。体験のない人に戦争の話をしても理解で
きる筈がない――」
 頑な態度を笠原さん(80才)が崩したのは、私がマンチ
ューリ(滿州里) チチハル(斉斉哈爾)ハルビン((哈爾浜
)チャムースー(佳木斯)ムータンチャン(牡丹江)などの
地名を口にした直後だった。
 笠原さんがいたのはヘイロンチャン(黒竜江)の流れる、
当時のソ満国境のヘイホー(黒河)――北緯50度線やや
北方――よりさらに北へ分け入った無人地帯で、5分も
歩かずに国境線を越える所だった。そこは12月の初旬
の気温が零下50℃で下旬ともなれば零下55℃になる
という。
「お互いにがんばろうじゃないか」と軽く相手の肩を叩
くとその手が凍りついた。歩哨に立つときは最高で30
分、それ以上では自分の吐きだす息で自分が凍ってしま
い、足踏みをしていないとすぐに靴が凍りついて歩けな
くなる。温かいのは7月・8月・9月の3ヵ月で、8月
ごろにはプラス30度になり暑い。しかし、9月も半ば
を過ぎると零下10度。六月も零下10度。その他は零
下20度・零下30度・零下40度。10月になると液
体を入れたビンが液の凍結による膨張で割れてしまう。
 そういう厳寒の辺境にも馬賊などのゲリラが攻めてき
た。歩兵砲・速射砲・軽機関銃・小銃・迫撃砲、それに
地雷を準備して待つ。敵が来ればすぐ戦闘になる。年に
5〜6回戦争をし、6〜70人を殺害した。 

 2年経ち『満期除隊』の命令書がきても交通手段がな
いから帰ろうにも帰れない。するとその場で『即日徴兵』
となったという。食物はコウリャン(高粱)に日本から送
られた白米を混ぜて食べた。食べられれば良いほうだ。
食事もとれずに戦ったことがある。凍って水がないので、
ご飯が炊けない。3日2晩も飲まず食わずで戦ったこと
もある。戦闘のないときには、空き腹を抱えて蹲ってい
るしかなかった。

「……兵隊でいた所からここ(G県M市の自宅)まで、鉄
道・船を乗り継いで一週間かかった。この辺りから5人
行ったがみんな胸を悪くして除隊になった。凍った空気
を吸い込んで、みんな肺病になる。
 昭和12年(1937年)に戦地へ行き、最後(終戦)ま
でいた。生きて帰れたのが不思議なくらいだ。
 これ以上苦しいことは軍隊生活の経験のない人には話
せない――」
  そう言うと笠原さんは家の中に入り玄関の扉を閉めて
しまった。 

 平成13年1月21日


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