地雷を踏んだらサヨウナラ

テンオックネァ、タウプティヤ! (=もうみんな家に帰ろうー!)
 映画化(シナリオ・丸内敏治/監督・五十嵐匠)を期に、
「いまダッカにいます」
 という父母宛ての手紙ではじまる一ノ瀬泰造(いちの
せ たいぞう)の遺稿集『地雷を踏んだらサヨウナラ』
を探し出した。14年ぶりである。
 書簡とメモと写真で構成された、1年と10ヵ月余り
をフリーのフォトジャーナリストとして駈け抜けた若い
魂の記録である。

 1947年(昭和22年)11月1日、佐賀県武雄市生
まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。1970年(昭
和45年)UPI東京支局に勤務した後、フリーのフォ
トジャーナリストになる永年の夢の実現をめざし197
2年(昭和47年)1月20日、羽田から出国した。
 翌1973年(昭和48年)11月23日にカンボジア
解放軍(クメール・ルージュ)の陣営のアンコールワット
に潜入後、行方不明になる――。

 カンボジア政府の協力が得られ、親族により一ノ瀬の
遺骨が発掘されるまで9年の月日が流れた。

 映画化に際し、シナリオを担当した丸内氏は、
「タイでクランクイン。予算の制約・超ハードなスケジ
ュール・言葉の問題(日本語→英語→カンボジア語など
複数の通訳が必要)など非常に厳しい条件下でのもので、
シナリオと異なっている部分がいくつかある……」
 と、書いている。
 講談社文庫のカバーの写真「水田の中を逃げる政府軍
兵士」とタイトルの『地雷を踏んだらサヨウナラ』とか
ら、内容に就いてのある種の予測ができるのだが、メモ
や書簡には予測できない人物の魅力が現れている。
 時代は、川端康成の自殺、田中角栄内閣の誕生、ニク
ソン訪中・訪ソ、連合赤軍の浅間山荘事件があったころ
でベトナムでは停戦協定(第1次)締結前後のころである。


軌跡を追ってみよう。

恩師への書簡に、
「求めよ、さらば与えられん。叩けよ、さらば開かれ
ん°≠゚ています。だけど、まだ得ることはできません。
叩いています。だけど、まだ開きません。僕は求める事
ができます。だけど、ここの多くの若者は求める事も叩
く事も出来ません。そして僕は何かが起きることを期待
しています」
 と、書き、行方不明になる9日前に親しい友人に
「もし、うまく地雷を踏んだら、サヨウナラ!」と認め
ている。

 1973年(昭和48年)11月5日、友人の結婚式の
招待状を携え、一ノ瀬泰造は1ヵ月以上つづいているマ
ラリアを押して、プノンペンから飛行機でシェムリアッ
プにやって来た。前の年(1972年=昭和47年)の8
月5日、ロン・ノル政府軍のサーホー将軍により
「軍にとって好ましからざるジャーナリスト」
 としてタイ国境へ強制退去させられて以来、1年3ヵ
月ぶりにアンコールワットの村に帰ってきたのだった。
カンボジアのプレスカードがなく手間取っていると、前
年知り合った兵士がいろいろ弁護してくれる。滑走路に
ロックルーがバイクでやってくると、警官は彼を保護責
任者に仕立て上げ、手続きを終えた。


 11月8日、ロックルーの結婚式に出席。
 写真を撮りストーリーを書く。ロックルーの結婚式 
『砲声と宴』……。 

〔新郎新婦を見つめるタイゾー・イチノセのカメラアイ
は実に温かく麗しい。ロックルー(カンボジア語で先生
の意。高校の物理の教師であることからの彼の通称。本
名はチェット・セン・クロイ)は、シェムリアップに到
着まもない一ノ瀬に近づき、フォトグラファーとしての
仕事に対するギャラの不本意さを質すなど、なにくれと
なく気を使い、たとえば、月ぎめにして安く食べている
レストランのマダムに同一条件で食べられるように計ら
ってくれたり、ホテル住まいより安い中国人宿を探して
きて勧めたり、更にはデラックスな部屋に無料で2人同
居できるようにするなど、生活面で一ノ瀬が安心できる
環境を整えることに力を尽くしている。
 はじめのころ、タイゾーは、こうした気遣いを
「おせっかい!」
 と、煩わしくおもっていた。
 ロックルーは向学心が頗る旺盛で、医師になって貧し
い人々を救うという夢を抱いている。繁栄の国から来た
日本人に同い年であるが故に、親近感を覚え、誇りに思
い、何でも話せる友人として大切にしたのは、自分の好
きなことに徹して行動するタイゾーに、あるいは憧れて
いたのかもしれない。一ノ瀬への強制退去命令に対して
憲兵に激しく抗議するなど正義感も傑出している。
 あるとき、タイゾーが
「ロックルーだって、先生なんかやらずに軍学校に入り、
試験を受け、軍オフィスで働き、また試験を受けるため
に勉強を続けていたら、いまごろはキャプテンかコマン
ダーになって多勢の部下を持ち、お金もドカドカ入り、
良い家に住み、車を乗り回せるだろうな」
 と、水をむけると、
「教師になる人間と兵隊になる人間は、まるで異質で世
界が違う。教師は人間に教養を与え、世の文化を高めて
平和を求める。わたしはいくら貧乏しても強制されても、
兵隊にだけはなれないし、なってはいけない。
 目的が…結果が…、世界がまるっきり違うからな――」
 と、端然と言い放っている。
 ロックルーは1977年(昭和52年)ポルポト政権の
時に処刑された。29歳の若さだった。彼は信念を持ち
理想に生きる真の教師だった。
 彼の妻は現在、シェムリアップで小学校の教師をして
いるという――〕。

 
 羽田を出発後、バングラディッシュのダッカをかわき
りにカルカッタ・バンコック・プノンペン・バッタンバ
ン等を経由して、3月20日(1972年)にシェムリア
ップ村入りを果たす。

この日の日記から 
 かずらで涼しそうなレストランに入ってコーヒーを頼
んだ。砂糖入れにはアリが一面にたかっていた。困って
隣の兵隊のするのを待っていたら、彼はちゅうちょせず、
アリごと砂糖を入れるとかき混ぜ、アリが浮いてきたら
スプーンですくい出した。なるほど。次にラーメンが来
た。半分くらい食ったところで眼まで煮えたイモリの頭
が箸にはさまれてきた。よく見ると、胴体も尾っぽも刻
みこまれて入っている。すぐ店員を呼んで、
「どうしてくれるんだョー!」
 と、大声で文句をいうと、
「どうしてそんなに騒ぐんだ?」
 と、不思議そうな顔をして、箸でちょいちょいとつま
んではずしてくれた。先が思いやられるゾー、と思いな
がら食べ続けた」


3月21日の日記から
 旧シェムリアップ高校のある前線へ行って見る。途中、
数個所の検問で番をしていた兵隊にどうでもいいような
聞き方で、

―どこへ行くんだ?
―アンコールワットだ
―ベトコン(共産兵のこと)が一杯で行けネー! もどれ
 もどれ
―ベトコンの多い方がいいんだ
―じゃあ行け!
―どっから来ただネェ。この先は行けネーゾ
―俺は行けるさ
―危ねーゾ
―危いのは承知だ!

 バーブドワイヤー(鉄条網)の張りめぐらされている所
を選び、乗り越えようと近付くと、いままでココナッツ
を飲んでいた裸のおじさん(兵士)が、その実をポーンと
私の頭上を越してほうり投げると、ドッカーンというす
さまじい爆発音と共に土煙り。
 腰を抜かさんばかりオッタマゲて引き返す私を、総出
して笑いやがった。
 その向こうからは魚を焼くらしい煙がこちらに漂って
来ていた。一人のお母ちゃんが、
「あんたもメシでも食って帰んナ」
 と、言う。
 さんざんみんなの笑い者にされ、まだ頭にきた虫がお
さまらなかったので、ガブガブと3人前くらいのメシを
食った。ザマーミロ! 
 帰りも、検問の兵隊が私を指さして
「行けたか?」
 というようにゲラゲラ笑う。
 私は日本語で「バッカヤロー!」というと、手を振っ
てバイバイしてくれた。


3月22日の日記から
 きのうに続いて、また旧高校前線に行く。
 きのうメシを食わせて貰ったので、お返しにマーケッ
トからドデカイ干し魚をひとつぶらさげて。しかし誰に
貰ったか顔を忘れたので適当にあげると、みんなで焼い
てみんなで食っていた。

 バリケードの手前で見張っていた兵隊が手招きするの
で身をかがめて彼の横へ行き、彼の指指す方向を見ると、
向こうの兵隊が100メートル先のバリケード横にセッ
セ、セッセと塹壕を掘っている。わたしは驚いて、
「どうして射たないんだ?」
 と、訊くと、その兵隊、金歯をむき出して、
「無責任こくでネー。オラーがブッ放しめーったら、奴
らもケーしてくるに決まっちょる。ホンなら戦争にナッ
チマウベー、オメー」。

〔……ドデカイ干し魚をひとつぶらさげ……、というの
が実に良い。滞在三日目の出来事〕。

3月29日赤津孝夫宛の書簡から シェムリアップ村発。

 プノンペンの記者クラブで他の記者連中に、
「危険が多過ぎる。馬鹿げた冒険だ、お前は夢を見てい
る。行ったらすぐにベトコンにつかまって爪をはがされ、
皮をむしられるだろう。実際、3人のドイツ人記者が1
ヵ月たってもまだ帰ってこない」
 と、おどかされたけど、
「それならニコマートは持ち歩かないことにしよう。な
ぜならセルフタイマーがこわれているから」
 と言うと、一同、唖然としていたけど、最後に、
「クレイジー」
 と言われてつき放され、血を騒がせながら、この村に
辿り着きました。来てみたら見渡す限りの椰子の木、水
牛と子供たちが一緒に小川で水遊び、広大な草原で昼寝
の牛、素晴らしい村です。


4月4日の日記から
 昼寝から覚め、ホテルの前に停めてある、以前アンコ
ール観光に使われた大型バスのまわりで、戦争ごっこを
している子供たちに、仲間に入れて貰い、わたしはベト
コンを志願してバスの屋根にぴったり伏せた。頭を上げ
ると柵の蔭から、木蔭から、木の実が飛んでくる。それ
をうまくかわしながら受ける。
 少したまるとそれを政府軍に投げ返す。われわれは完
全に包囲されている。木蔭に見え隠れしている兵隊に向
かって横目を使い、90度角度のゴミの箱の後ろにいる
兵隊に弾を投げつける。われわれベトコンは、政府軍の
放つ弾をうまくつかまえなければ、反撃する何物も無い。
スイカの皮がパシッと私の口に当たった。2回ほどソデ
でぬぐって屋根から落ちるかっこうで飛び降りた。
 みんな、あっと驚いた。
 へへへ……、と笑いながら弾をかき集め、また屋根に
よじ登る。戦闘一時中断。また当たる。こんどはサービ
スに空中で1回転して飛び降りる。もう1度と政府軍か
らもベトコンからもリクエスト。木に登り、ホテルの2
階に登っては飛び降りる。もう一度とアンコール。こん
どは3階までよじ登り、わたしの部屋に入って水を浴び、
そのまま手紙を書きだした。

〔滞在2週間余り。……心を開いて自分の器量を見せる。
一ノ瀬は自分が心を開いて接すれば相手もそうすること
を知っているのだ。この日タイゾーはこどもたちのハー
トをしっかりつかんだようだ〕

4月12日激戦地スワイトムで負傷。1週間休む。

4月17日の日記から
 いつものように葬式行列を待ちながら街をブラブラし
ていると(毎日1回は葬式がある)、遠くから勇ましい軍
歌を唄う軍靴音がマーケットに響いてきた。単純なセリ
フのくり返しを力強く唄い、行進しながら、ベトナムに
派兵されていた隊約5百名が2日遅れの正月を家族と過
ごすために帰ってきたのだ。
 商売もほったらかして多数が眺めに集まった。
 所どころで拍手も聞こえる。隊は村を1周して見せて、
家族の待つ寺院にもどった。そこで最後の点呼、注意。
赤ん坊を抱いたお母ちゃんが
「アンタ!水だョ!」
 と、隊列にもぐり込んで、愛するお父ちゃんへのサー
ビスにつとめる。
 上官の注意も終り頃になると、もう隊列の後の方では、
その場にしゃがみ込んで我が子とたわむれている兵隊も
いる。そのうち解散(言わなくても解散しているような
ものだった)。
 お母ちゃんが飛びつく。カメラを向けると父ちゃんが
離れる。
「父ちゃん、照れるこたァないョー」
 と、お母ちゃんが引っぱりもどす。
 肩をたたいて無事を喜び合う旧友たち。小さなガキに
重いヘルメットをかぶせ、家へ帰る。幸せそうなガキ。
坊主に身を守ってくれた礼をする兵士、若い坊主や集ま
った子どもたちにベトナム産のゴムゾウリ、歯みがき粉、
お菓子などを披露する独身兵士、もう夕餉の仕度をする
家族。彼らに本当の正月がやってきた。
 忘れられない嬉しい日を見ることができた。

〔村人とともに束の間の平和の風景を味わっている。当
然、写真を撮り、ストーリーも。「戦争ごっこ」もこの
文も情景を描写しながらタイゾーを語っていると思う。
好きな文だ〕


4月19日、戦闘のシーンを撮るがフィルムが入ってい
ず、その場に座り込む。こんな日が危ない! というジ
ンクスに、
「俺だけは絶対死なない!」
 という信念が崩れる。


4月20日、恐怖感から
「今度は俺か。次は俺の番か」
 と、ばかり考え、戦闘の後方に行っただけで引き返す。

4月23日 母への書簡から シェムリアップ発
 好きな仕事に命を賭けるシアワセな息子が死んでも悲
しむことないョ、母さん。
 
 この国の正月(4月13日〜15日)明けの翌17日、
数個小隊がこの町に帰りました。ベトナムに派遣されて
いた兵隊が正月を自分の家族と過ごすため、帰ってきた
のです。たいした写真はできなかったけど、これが僕が
最も望むことであり、望む写真でした。また、火葬場は
煙の絶える日はありません。棺桶に泣きすがる遺族の写
真も、近くでアップには摂れません。僕は写真家失格か
も知れません。

 この小さな村で僕はすっかり顔を知られるようになっ
て、よく、

―いまのあなたはシアワセですか? 何か問題ありませ
んか? と聞かれ
―アンコールワットを撮れたらシアワセだ! と答えま
す。

[前線の村で、ふっと母だけに漏らした真情――。]

5月24日、アンコールワットから1・5`の地点で、
首のとれた仏像や破壊された遺跡、アンコールワットの
上部などをロン・ノル政府軍の兵士たちを入れて撮影。

 弾はときどき飛んでくるが、そう積極的な攻撃でもな
い。4時頃起きて丘のふもとに行くと、多勢の兵隊が集
まり、またもメシを食っていて、またあっちこっちから
声がかかった。えらい兵隊の所がい1番ごちそうなので、
腕の記章をさがして回り、一つの輪にスプーンをとり出
して座った。焼きたての大きな魚を、みんなでつつきな
がらいろいろ話した。1人の兵隊が話してくれた。


 つい1時間前、アンコールワットとアンコールトムを
結ぶ道路をはさんで、ベトコンに声をかけた。

―オーイっ、ベトコンよー、メシ食いにこいや!
―そいつはできネー、俺達もいまから食うところだ! 
 お前こそ食いにこいヨー、ウイスキーもあるでヨー
―ヘネシーだったら行くぞー!
―残念ながら、シェムリアップのマーケットで買ったカ
 ンボジアン・ウイスキーだ!

 実になごやかな雰囲気だったらしい。

 しかし、この後、キャンプして1夜を過ごそうとして
横穴を掘るものの司令部の許可がでず、迎えの車で連行
され上、調書をとられる。軍事機密地域を撮影したとし
てフィルムは「1ヵ月預かる」と没収。
 
「軍にとって好ましからざるジャーナリスト」
 として政府軍のブラックリストに載る。
 知り合いのコマンダーから
「いままでの例では、大使館に連絡して追放」
 といわれる。 

6月24日頃のメモから――。
 シェムリアップ村の地理と軍を知り過ぎたために、ト
ラブルが積み重なり、ジャーナリストに慣れていないこ
の田舎じゃ、彼らの大きな眼の上のタンコブとなった。

 ある日、アンコールワットに近い茂みの中に蚊帳を吊
って寝ていたら、深夜隊列を組んで前進して来た政府軍
に見っかって、翌朝本部送り、反省の色無し!

 原っぱで作戦ミーティング中、ヒョッコリ顔を出して
はニタニタ笑いながら解ったような振りをして聞き入る。
説明中のコマンダー、あせって
「あの日本人、カンボジア語わかるのか?」
 と、聞いている。すかさず僕は
「アッチャクメーテ、タッタッ!
 (わからんから続けろ!)」とどなる。

 僕にとって
 立ち入れるような立ち入り禁止は立ち入り禁止じゃな
い。これはまた、ジャーナリストにとって常識!

6月26日 クメール・ルージュに身柄を拘束される。
「アンコールワットに連れってくれ!」
 の、要望が容れられず、30分後、政府軍側に解放さ
れた。(フィルムは持ち去られる) 
 政府軍の軍司令部へ出向き、5月24日に取り上げら
れたフィルムの返還要求を執拗に行う。……
 (結局、フィルムは戻らなかった)


7月21日、政府軍から「明日出て行け!」の退去命令。

「今、金がない。31日に友人が持ってくるので、それ
までブタ箱にでも入っているワー!」と応じ、事情が考
慮されて10日間の猶予を受ける。

〔こうした究極の場面でも、ペルソナ・ノン・グラータ
(好ましからざる人物)の扱い方が杓子定規ではなく、思
いやりの精神が適用されている。カンボジアの人のハー
トの優しさには、ただ、瞠目するのみだ。出会った人を
凡て自分の味方にしてしまう(?)タイゾー・イチノセの
凄さ。才能というべきか……〕


9月3日の大木先生宛の書簡から サイゴン発――
 7月31日、農村の子供たちを撮る目的でやって来た
先田次男をプノンペン空港に出迎え、大使館や宿舎の友
人(ロックルー)宅へ――
「毎日、米、魚、バナナを食って屋根しかない家の土間
に寝ることが出来るなら、どんなに長くいても構わない
し、歓迎する。ぜひ来るように……」
 と、言っていると同先生宛ての6月20日ころの手紙
で伝えていた――連れて行き、 
 後はほったらかしました。
 彼が見知らぬ外地で暮らす自信と、素晴らしい写真を
持ち帰る事が出来たなら僕にとっても何よりも嬉しい事
です。


 8月5日、業を煮やした政府軍によりタイ国境に連行
され放り出される。
 強制退去命令が出ても
「僕はカンボジア人が好きです。人が良くて、のんきで、
この4ヵ月のうちに多くの友達を得、彼らがいろんな助
けをしてくれました」
 と、書いている。
 戻ったベトナムでは前線の戦闘写真を撮りストーリー
を書き、国際的なジャーナリストとしての地位を不動の
ものとしている。

『べトナムで働くジャーナリスト』という朝日新聞の取
材を受けるなど一人前のフォトジャーナリストになりつ
つある、と自信を深めている。

4月27日(1973年=昭和48年)10日間の日程
で一時帰国。5月5日の親族の結婚式に出席。

〔丸内氏のシナリオでは結婚式には出席せずに、早朝出
発している。……そこがドラマか?!〕


5月6日、板付から東京経由でサイゴンへ。

 再三の交渉にも拘わらずブラックリストから外されず。
ナショナル・ボクシングチームのコーチとしての特別許
可でサイゴンのカンボジア大使館から2週間のビザが発
行される。6月12日にプノンペン入り。この時は監視
付きの取材だった。
「だけど、皆この国の人は良い人ばかりで、尾行する警
官も上からの命令を最小限に行使してくれます」

「輸送船の三割しか無事に着かない」
 と、聞き、俄然乗ることにした韓国船で8月7日サイ
ゴン港出航、メコン(カンボジア語で、母なる大河の意)
川を遡行。ミサイルとロケット砲の猛烈な攻撃を受け被
害甚大のなかで12日朝プノンペン港着。税関の調べの
後の10時に上陸。 (『輸送船団同乗記』)

9月3日、激戦地アンスヌールで2度目の負傷。
 未発表の原稿『赤い水がよどんでいた』『コンポンチ
ャムの街が泣く』の戦闘ストーリーが書かれる。

「赤い水がよどんでいた」の書出しは、
「テンオックネァ、タウプティヤ!(もうみんな家に帰
ろうー!)」
 というタイゾーの叫び声で始まる。コンポンチャムの
政府軍参謀本部で、前年シェムリアップでタイゾー・イ
チノセをブラックリストに載せ、追放した張本人サーホ
ー将軍と再会。
「よくこんな危い所にこれたナー」
 という将軍と笑顔で握手し仲良く肩を組んだ記念写真
を撮らせている。

10月3日プノンペン。
 プノンペン大学での教師講習に来たロックルーから手
渡しで結婚式の招待状を受取る。
 1年前、3ヵ月かかって政府軍、共産軍、のポジショ
ン、河、林、路、気候、地雷の位置を調べたけど、今回
まわりをグルッと簡単に見ただけでも、政府軍がかなり
押されてしまい、去年とは全く違う条件になってしまい
ました。 
 
 今回は地雷の位置も全然解らず行き当たりドッカンで、
例の所の最短距離を狙っています。去年、僕が向こう側
につかまり、すぐ放された所の近くでもあります。
「もし、うまく地雷を踏んだらサヨウナラ!」

11月21日、朝日新聞外報部の和田俊(在プノンペン)
宛の書簡 シェムリアップ発――
 何も解らないまま、行き当たりバッタリで最短距離で
入り易い所を選んで、19、20日と強行突入を試み威
嚇射撃、狙い撃ちに遭い、引き返しました。
 今回は、去年のように夜中にしのび込むなど危険は冒
すつもりはありませんし、アンコール入り一番乗りなど
も、そう考えていません。ただ早くアンコールワットが
撮りたいだけです、できればクメールと一緒に。

 プレスカードがなく、司令部からの紹介状も貰ず、前
線に行くのも困難ですが……。しかし、前線に入ったら、
みんなメシをもてなしてくれます。アンコールトムに入
っても、彼ら同じように、もてなしてくれるだろう〜ナ。

〔この書簡が最後のものとなって遺稿集『地雷を踏んだ
らサヨウナラ』は終っている〕


11月23日アンコールワットへ再突入。

11月27日行方不明を朝日新聞がプノンペン発で報じ
る。
「日本人カメラマン、アンコールワット遺跡近くで行方
不明」
 続いて各社が相次いでプノンペン発で「共産軍の捕虜
に」「解放勢力が死刑宣告か?」の報。


9年後(1982年=昭和57年)親族が現地で遺骨と対
面。

 1973年11月29日死去。享年26

 アンコールワットを望む菩提樹の木蔭に遺骨の一部が
眠っている。……

〔『平和を求める村人』を撮るつもりで日本から来たタ
イゾーは「バングラディッシュの、人質部落で食べ物が
無いため、なす術もなく死を待っている子供たちを、ワ
ンワン泣きながら見て回った」という。そんな彼が、わ
たしは堪らなく愛しい。
 シナリオには、片腕のベトナム人が 
「…あいつの眼は早死にする奴の眼だ、あんな男にかゝ
わるな。……」
 という場面があるが、掲載写真で見る限り、深い哀し
みを湛えた眼としか、わたしには見えない――。

「アンコールワットを撮れたらシアワセだ!」
「UPIも各新聞も欲しがっている」
 としてアンコールワットのスクープに情熱を燃やし2
万ドルのギャラとキャパ賞の獲得を夢想してチャレンジ
したのは報道写真家として当然のこと、なのだろう。
「好きな仕事に命を賭けるシアワセな息子が死んでも悲
しむことないョ、母さん」
 という言葉と、10日間の「日本の休日」が象徴的だ。
 戦乱のベトナムとカンボジアで死亡した日本人ジャー
ナリストは16名にものぼるという。
 タイゾーとロックルー、仲良しの2人は天国で何を語
り合っているのだろうか。タイゾーを支えた、もうひと
りの仲良し、レストランのマダムはいまもシェムリアッ
プで料理の腕をふるっているという……。
『世界遺産』などの映像で、アンコール・ワットを見る
たびに私は、一ノ瀬泰造を思い出さずにはいられない〕


【参考文献】

『地雷を踏んだらサヨウナラ』講談社文庫 1985年

「シナリオ」2000年1月号 シナリオ作家協会刊

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