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批評について


◎ちょっといい話!


   批 評         
                    小林秀雄

 私は、長年、批評文を書いて来たが、批評とは何かと
いう事について、あまり頭脳を労した事はないように思
う。これは、小説家が小説を、詩人が詩を定義する必要
を別段感じていないのと一般であろう。
 文学者というものは、皆、やりたい仕事を、まず実地
にやるのである。私も、批評というものが書きたくて書
き始めたのではない。書きたいものを書きたいように書
いたら、それが、世間で、普通批評と呼ばれるものにな
った。それをあきもせず繰り返して来た。批評を書くと
いう事は、私には、いつも実際問題だったから、私とし
ては、それで充分、という次第であった。しかし、書き
たいように書くと、批評文が出来上がってしまって、そ
れは、詩とか小説とかの形を、どうしても取ってくれな
い。という事は、私自身に批評家気質と呼ぶべきものが
あったという事であり、この私の基本的な心的態度とは、
どういう性質のものか、という問題は消えないだろう。
 回顧すると、と言うが、この回顧するという一種の技
術は、私にはまことに苦手なのであるが、実は、ごく最
近、ある人が来て、批評家として立ちたいが、これにつ
いて具体的な忠言を熱心に求められ、自分の仕事を回顧
して、当惑してしまった。人が批評家たる条件なぞ、上
の空で数え上げてみたところで、無意味である。空言を
吐くまいとして。自分の仕事のささえとなった具体的な
確実な条件を求めて行くと、自分の批評家的気質と生活
経験のほかには、何も見つかりはしない。しかも、両方
とも明言しがたい条件である。
 私は、自分の批評的気質なり、また、そこからきわめ
て自然に生まれてきた批評的方法なりの性質を明言する
術を持たないが、実際の仕事をする上で、じようずに書
こうとする努力は払って来たわけで、努力を重ねるにつ
れて、私は、自分の批評精神なり批評方法なりを、意識
的にも無意識的にも育成し、明瞭化して来たはずである。
そこで、仕事の具体例を顧みると、批評文としてよく書
かれているものは、皆他人への賛辞であって、他人への
悪口で文を成したものはない事に、はっきりと気附く。
そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特
殊の技術だ、と言えそうだ。
 そう言うと、あるいは逆説的言辞と取られるかも知れ
ない。批評家と言えば、悪口にたけた人と一般に考えら
れているから。また、そう考えるのが、全く間違ってい
るとも言えない。試みに「大言海」で、批評という言葉
を引いてみると、「非ヲ摘ミテ評スルコト」とある。批
評、批判の批という言葉の本来の義は、「手ヲ反シテ撃
ツ」という事だそうである。してみるとクリチックとい
う外来語に、批評、批評の字を当てたのは、ちとまずか
ったという事にもなろうか。クリチックという言葉には、
非を難ずるという意味はあるまい。カントのような厳格
な思想家は、クリチックという言葉を厳格に使ったと考
えてよさそうだが、普通「批判哲学」と言われている彼
の仕事は、人間理性の在るがままの形をつかむには、独
断的態度はもちろん懐疑的態度もすてなければならない、
すててみれば、そこにおのずから批判的態度と呼ぶべき
ものが現れる、そういう姿をしている、と言ってもいい
だろう。
 ある対象を批判するとは、それを正しく評価すること
であり、正しく評価するとは、その或るがままの性質を、
積極的に肯定することであり、そのためには、分析ある
いは限定という手段は必至のものだ。カントの批判は、
そういう働きをしている。彼の開いたのは、近代的クリ
チックの大道であり、これをあと戻りする理由は、どこ
にもない。批評、批判が、クリチックの誤訳であろうと
なかろうと。
 批評文を書いた経験のある人たちならだれでも、悪口
を言う退屈を、非難否定の働きの非生産性を、よく承知
しているはずなのだ。承知していながら、一向やめない
のは、自分の主張というものがあるからだろう。主張す
るためには、非難もやむを得ない、というわけだろう。
文学界でも、論戦は相変らず盛んだが、大体において、
非難的主張あるいは主張的非難の形を取っているのが普
通である。そういうものが、みな無意味だと言うのでは
ないが、論戦の盛行は、必ずしも批判精神の旺盛を証す
るものではない。むしろその混乱を証する、という点に
注意したいまでだ。
 論戦に誘いこまれる批評家は、非難は非生産的な働き
だろうが、主張する事は生産する事だという独断に知ら
ず識らずのうちに誘われているものだ。しかし、もし批
評精神を、純粋な形で考えるなら、それは、自己主張は
おろか、どんな立場からの主張も、極度に抑制する精神
であるはずである。でも、そこに、批評的作品が現れ、
批評的生産が行われるのは、主張の断念という果敢な精
神の活動によるのである。これは、頭で考えず、実行し
てみれば、だれにも合点のいくきわめて自然な批評道で
ある。論戦は、批評的表現のほんの一形式に過ぎず、し
かも、批評的生産に関しては、ほとんど偶然を頼むほか
はないほどの困難な形式である。
 批評的表現は、いよいよ多様になる。文芸批評家が、
美的な印象批評をしている時期は、もはや過ぎ去った。
日に発達する自然科学なり人文科学なりが供給する学問
的諸知識に無関心で、批評活動なぞもうだれにも出来は
しない。この多岐にわたった知識は当然生半可な知識で
あろうし、またこれに文句を附けられる人もあるまい。
だが、いずれにしても学問的知識の援用によって、今日
の批評的表現が、複雑になっているのに間違いないなら、
これは、批評精神の強さ、豊かさの証とはなるまい。
 批評は、非難でも主張でもないが、また決して学問研
究でも研究でもないだろう。それは、むしろ生活的教養
に属するものだ。学問の援用を必要としてはいるが、悪
く援用すればたちまち死んでしまう、そのような生きた
教養に属するものだ。従って、それは、いつも、人間の
現に生きている個性的な印しをつかみ、これとの直接な
取引きに関する一種の発言を基盤としている。そういう
風に、批評そのものと呼んでいいような、批評の純粋な
形式というものを、心に描いてみるのは大事な事である。
これは観念論ではない。批評家各自が、自分のうちに、
批評の具体的な動機を捜し求め、これを明瞭化しようと
努力するという、その事にほかならないからだ。今日の
批評的表現が、その多様豊富な外観の下に隠している不
毛性を教えてくれるのも、そういう半生だけであろう。
(讀賣新聞 昭和39年1月3日)

〔『考えるヒント』 小林秀雄 文春文庫〕

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