京洛四季 東山夷魁


円 山
平安神宮
鷹ヶ峰
醍醐寺
古い家
京のアラベスク
舞妓(まいこ)

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円 山
 花は紺青に暮れた東山を背景に、繚乱と咲き匂ってい
る。この一株のしだれ桜に、京の春の豪華を聚(あつ)め
尽したかのように。
 枝々は数知れぬ淡紅の瓔珞(ようらく)を下げ、地上に
は一片の落下もない。
 山の頂が明るむ。月がわずかに覗き出る。丸い大きな
月。静かに古代紫の空に浮び上る。
 花はいま月を見上げる。
 月も花を見る。
 桜樹を巡る地上のすべて、ぼんぼりの灯、篝火の炎、
人々の雑踏、それらは跡かたもなく消え去って、月と花
だけの天地となる。
 これを巡り合せというのだろうか。
 これをいのちというのだろうか。

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平安神宮
 雨が降っている。
 紅しだれ桜は、深くうなだれ。にじみ出るような濃い
紅の色。
 蕾のはし、花弁の先ごとに雨の雫がふくらみ、紅色が
透け、白く光り、はらりと散る。もう、次の雫がふくら
んでくる……。
 橋脚の円い礎石を使った蒼竜池の沢渡り。その表面の
浅い窪みに、雨水の円く溜まっている。池のおもて一面
に、音もなく生れ、ひろがる無数の円紋。
 空と池の明るみの中に、鳳凰の飾を屋根に持つ橋殿が
、落ち着いた平行線を見せる。
 雨が降っている。 
 花も林泉も、今朝、気品と美しさに息づくのは、この
静かに降る雨の賜ものであろう。

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鷹ヶ峰
 鷹ヶ峰に向って桜が一本、畑のはずれに咲いている。
鷹ヶ峰の濃緑に対して、桜は匂うかのように浮ぶ。
 鷹ヶ峰のおおらかで勁い稜線。豊かで張りのあるヴォ
リューム。光悦の茶碗に通うもの。古い王朝時代の伝統
を、長い戦乱の後の、桃山文化の花咲く時に復興した人。
 晩年を大虚庵に庵住し、良き友と風流した光悦。
 光悦寺の庭に光悦の墓、光悦はしあわせな人だ。
 光悦寺の先を、右へ山路をとって杉坂を越え、周山街
道に向う。この松山は送達の山、いや、もっと古く、あ
の石山切れの、やぶり継ぎの山を思わせる。

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醍醐寺
 醍醐寺の堂々とした唐門が好きである。
 本堂のわきの、白砂敷きの上に、苔の緑で描かれた瓢
と盃の形は、誰の意匠であろうか。
 醍醐を春に訪れる人は、築地塀に張りめぐらされた、
五七の桐を大きく染め抜いた紅白の幕を見なくても、太
閤の花見を想い浮べることだろう。その豪華はいまだに
語り草となっているが、その華やかさは、凋落の寸前の
ものであった。太閤は、花見のあと数ヵ月で世を去って
いる。

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古い家
 京格子の窓にすだれを下げた家、いかにも京都らしい。
花街のには、二階も京格子の家が多いが、私はふつうの
民家の、一階は京格子の窓、低い二階の壁にむしこの窓
のある家が好きだ。出入口のわきに揚げ棚、または、ば
ったり床几(しょうぎ)と云われる折り畳み式の床几がつ
いている家がある。あれを見ると、子供の頃、夏の夕方
など近所の子供達が集まって、家の前の床几に腰をかけ
て、線香花火で遊んだりしていたことを思い出す。神戸
の下町であったから、私達が腰かけていたのは普通の竹
の縁台である。私自身、家のなかから外の団欒(だんら
ん)を覗いていただけで、仲間に入ることは少なかった
のだが――
 商家の看板や、のれんにも心をひかれるものが多い。
二階のむしこ窓と軒を割って、小さな屋根を持つ古風な
看板が頭をもたげているような家は少なくなったが、出
入口の、のれんは、長のれんや、水引きのれんの、紺地
に白抜きの字がくっきりと書かれたものも、麻の白地の
さっぱりした感じのものも、渋い色の紅殻格子とよく調
和もし、また巧みなアクセントになっている。
 戦前のことだが、「古き町にて」という連作を描いた
ことがある。ドイツの古い町と日本の古い町の民家を六
枚の作品として纏(まと)めたもので、日本の中には大阪
の寺町や伊那の民家と共に、京都の大仏餅の店を描いた。
 あの家も、もう無くなってしまったと聞いている。先
年北欧を旅して、リトグラフの装画本「古き町にて」を
出版したことがある。この、古い町というイメージはい
つも私の心の中にあるもので、私はそこに人間らしい体
臭を感じとることによって、心の落ち着きを見出すので
ある。

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京のアラベスク
 西陣の狭い路地を機(はた)の音を聞きながら歩く。ふ
と、おもしろい古道具屋を見つけた。店の前いっぱいに
品物を飾つけ、道路にまではみ出している。本陣の立て
札、道しるべ、井戸の滑車、両替屋の看板、まねき猫、
洋燈、鳥籠、徳利……その雑多な形と色の配置はユーモ
ラスで構成的な画面になる。
 松尾神社に奉納された沢山なしゃもじ、その単純で独
特なかたちの繰り返しが、いろいろな角度を持つ組合せ
によって寄り合い、反撥し、重なり、複雑なアラベスク
を描き出す。その中に一つ二つ混った絵馬の角張ったフ
ォルムが、ぴりっと構図を引きしめる。
 大徳寺の境内を歩いていて、とある塔頭(たっちゅう)
の土塀に眼が止った。荒壁に瓦を水平に並べて嵌め込ん
だもの。天竜寺にも面白いのがあるが、この土塀のパタ
ーンも同形の繰り返しと、やや、それを破る形の繰り返
しによってリズムを生んでいる。反復と強弱の変化が、
きわめて音楽的である。
 同形の配列の面白さは、釘抜地藏のお堂にひしめき合
ってならべられた絵馬にも見られる。
 釘抜きと釘二本をとり付けた四角い絵馬である。また
伏見稲荷の千本鳥居、お塚に奉納された小さな赤い鳥居
の配置にもあらわれている。伏見の酒倉の、四角な窓の
連なりは、白い壁と黒い羽目板の対照によって、鮮やか
な音律を奏でる。

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舞妓(まいこ)
 花見小路の渋い紅殻格子の窓に、つなぎ団子を白く染
め抜いた都おどりの赤い提灯が掛る。私はあの提灯の意
匠が好きだ。あの赤い色も、いっそう好ましく見えるの
は、それが渋く、暗い色調の家並みを背景にしているか
らだろう。夜、灯のともる頃はなおさらである。

 四人の舞妓が踊っていた。背景はただの闇。しかし、
その闇は豪奢な黒である。この高台寺(こうだいじ)の料
亭の見事な松の植えられた白砂敷きの庭は、すぐ東山の
急な斜面に続いている。座敷の明りは、その松と山の深
みを、ほのかに照らし出してはいるのだが、樹々の深い
重なりは、まるで無限の闇に続くかのように見える。舞
妓の白い顔、手足、きらびやかな衣装、髪飾り、優雅な
身振りに、外の闇が、いっそう濃く、深く感じられる。
 舞妓たちは、闇の中から浮かび上って、極めて洗練さ
れた哀しみを、夢幻の色に匂わせる。

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