『天才の勉強術』木原武一 新潮選書


♪♪♪ プロローグ――天才は学習の産物 ♪♪♪

 人間の生涯は、ものごとを学び続ける果てしない旅で
ある。この世に生れおちた瞬間から、人間は学びはじめ
る。いや、それ以前、母親の胎内ですでに学習ははじま
っているらしい。そして、死の床にあっても、病からな
にごとかを学ぼうとする人間もいる。
 人間がもっともすばらしい学習能力を発揮するのは、
生れてからの数年である。この時期は明けても暮れても
学習の連続である。大きくなるとそんなことはみんなす
っかり忘れているが、子どもを育ててみれば、人間が生
涯の初期においていかに学習意欲に燃え、奇跡のような
能力を発揮するか、よくわかるはずである。なにしろ、
彼らは、言葉という、ホモ・サピエンスがつくりあげた
もののうちでもっとも複雑なものをわずかな期間で習得
してしまうのである。
 このような幼児期における言語の習得を出発点として、
幼児期から青年期へ、中年期から老年期へと、生涯にわ
たって学習は続く。もちろん、家庭や学校での勉強だけ
が学習ではない。一人前の生きてゆくには、置かれた状
況に応じて必ずなにごとかを学ばざるをえない。そして、
なのごとかを学ぶことができるというのは、生物として
高等な能力を持っているしるしである。猫や犬もものを
学ぶという高等な能力をもった動物である。しかし、彼
らは、生涯の早い時期に学習から解放されているように
うかがえる。人間が他の動物と人と比較してもっとも異
なるのは、なかなか学習から解放されることがないとい
う点にある。人間は生きているかぎり学習から解放され
ることはないと考えたほうがよさそうだ。
 しかし、いつまでも学びつづけなければならないとい
うのは、未熟であることの証拠ではなかろうか。人間が
「完成」されることはけっしてないだろう。これまで地
球上にあらわれた人類のなかに、「完成された」人間が
一人でもいただろうか。
 人間は生れてから死ぬまで、つねに未熟な状態にとど
まり、いつまでもなにごとかを学び続ける。しかし、い
つまで学び続けても、いぜんとして未熟な状態を脱出で
きないのはなぜなのか。それは、人間が社会という、変
化してやまない不完全なものをつくってしまったからで
ある。もし「完全不変な」社会が実現したら、人間は努
力することも、学ぶこともなくなるだろう、たぶんそう
いう社会は千年たっても出現しないであろう。
 未熟な人間と不完全な社会――それでも、人間は数え
きれないほど多くの世代にわたってものを学び続けて飽
きることがなかったのはなぜなのか。
 これに対する答はひとつしかない。
 ものを学ぶことが楽しくてたまらなかったからである。
もちろん、学校の授業や本を読むことばかりが勉強では
ない。何か新しいことを知ったり、何か新しい能力を身
につけたりすること、そして、それをさらに深めたり高
めたりすること、それがものを学ぶということであって、
人間が味わう感動や楽しみの大半は、こういうところか
ら生れてくるものではなかろうか。
 ところで、ものを学ぶ楽しさをもっともよく知ってい
るのが、一般に「天才」と呼ばれている人びとである。
天才がどのようにして生れるのかはよくわからないが、
ひとつだけ断言できるのは、天才は幼児期にものを学ぶ
楽しさを存分に味わっていたにちがいないということで
ある。少なくとも、ものを学ぶ楽しさを体験した人のな
かからしか天才は生れないだろう。
 天才が天から与えられたという才能とは、つまりは、
ものを学ぶという才能にすぎないのである。天才とは、
一般の人間とはかけはなれた秘密の能力をもった人間で
はなく、だれでも持っている学習能力を、ある限られた
狭い対象に向けて集中的に発揮した人間のことである。
 一般には、天才とは、生まれつき特異なすぐれた能力
を持っている人間と思われているようであるが、はたし
てそうだろうか。私は次のような仮説を立てたい。
 天才とは、学習の産物である。
 この仮説を、世に天才と呼ばれる人びと、あるいはも
っと広く、過去にすぐれた仕事をなしとげた人びとの生
き方や学習法、仕事ぶりなどを通して検証し、その「勉
強術」の秘密をさぐり、それはけっして天才だけのもの
ではなく、程度の差こそあれ、ごくふつうの人びとにも
可能であることを考えてみたい、というのがこの本の意
図するところである。

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