美しすぎる場所


キリマンジャロの雪 中原 裕(ゆう)
■砂漠の夢
■アフリカの光
■Holombo is Rain!
■ギルマンズ・ポイント
■ライオンの夢

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砂漠の夢
 夜の空港は、二十世紀が創りだした最も美しい華だ。
中でもアラブ首長国連合のドバイほど美しい空港を僕は知らない。
 北京、ラワルピンディ、カラチを経て、東アフリカへと向かうパキス
タン航空機は最後の給油地ドバイに着陸しようとしていた。水晶の宮殿
のようなエアポートは、砂漠の果てに昂然とその超現実的な姿を現わし
た。

 ドバイを飛び立ったのは夕暮れだった。
 二十世紀の華、水晶の宮殿のような空港も、飛行機が高度を上げるに
つれ、光輝く王冠のようになり、小さな点となり、その周りを首飾りの
ように取り巻く滑走路の緑や黄色の光の列もやがてアラビアの砂漠の褐
色の海に消えていった。その向こうには、丸い地平線が燃えたつ光の筋
となって浮びあがり、壮麗な日没のドラマが始まっていた。
 黄金の炎はオレンジの色から真紅へと色を変え、光の海はやがて細い
一本の線へと姿を変えていく。その上に広がる深い紺碧の空には金星が
音楽のようにきらめき、三日月はもうひとつの世界へと地球を誘いはじ
めていた。何十億年もの間毎日くり広げられてきた日没のスペクタクル
の前には、人工の美の結晶のようなドバイ・エアポートの美しさも、壊
れやすい一瞬の夢のようにしか思えなかった。

 闇の中に溶け込んでいこうとしている砂漠の上には、何百年も前と同
じようにラクダの隊商が列をなし、所々で現代のオアシスのように石油
の井戸が炎を上げ、そして今も小さな戦争が続いているはずだった。
 そんな様々な人間のいとなみも、やがては風化され、砂の波に姿を変
えていくのだろう。この先何が起ころうと、結局はすべては一粒の砂と
なり、毎日くり広げられる日没のスペクタクルの中に一瞬赤く燃えあが
り、そして闇に飲み込まれていくのだろう。
 砂漠のこの夕暮を見ていると、科学的訓練を積んだ宇宙飛行士たちの
多くが、宇宙から還ってきてから、神≠ノついて語り始めるというこ
とが少しわかるような気がした。神≠ニは、人間的なものを超えた圧
倒的な力に対して、人間の弱さが発することのできる唯一の言葉なのか
もしれない。
 人間の感情の入る余地のない虚無の中の壮麗な美しさに僕は打ちのめ
され、吐き気さえ覚えながらも、目を離すことができなかった。
 
 空港も人も戦争も、そして砂漠も、すべて闇の中に消え去り、パキス
タン航空機は星の中を東アフリカに向けて飛んでいた。そこには、今も
キリマンジャロの白い頂が、月の光に冷たく輝いているはずだった。
 キリマンジャロ――その頂に到ることで、僕の何かが終わり、何かが
始まるはずだ――漠然と僕は、そう感じ続けていた。

アフリカの光

 いつもとはちがう目覚め。黄金の光が体の中を跳ねている。
少年のころの夏の朝の光――僕はアフリカにいるのだ!  ベッドを飛び
出して一歩ホテルの外へ出ると、ありとあらゆる原色の光の洪水が押し
寄せてきた。

 タンザニアの港町、ダルエスサラ―ムの街を歩く。
 派手な色のシャツを着た長い足の男たちが、胸を張って、踊るように
歩いている。大胆な模様の民族衣装を頭から巻いた女たちが、大きいカ
ゴを頭に載せ、すべるように進んでいく。その間を、黄色のワンピース
の少女が跳びまわっている。裸の男たちが黒い肌を光らせて荷車を引い
て駆けていく。
 街を包む木々の緑も、その一枚一枚の葉が光を発しているかのように、
くっきりと鮮やかだ。多くの木々は黄色や赤の花をいっぱいにつけ、そ
の重みで枝をしならせている。
 くっきりとどこまでも正確にピントが合った超天然色の巨大な写真の
中に投げ込まれたようで、原色の洪水に酔い、無数の黄金の光の針に肌
を刺され、ダルエスサラ―ムの街にじっと立っていることは難しい。

 ダルエスサラ―ムの街を少し歩くと、強い日射しと溢れる生気に圧倒
されて、すぐに疲れてしまう。飲み物を売る店があると引き込まれるよ
うに入り、ビールを頼む。そこにもすぐに、象牙や槍や小さなテーブル
ほどもある太鼓を売りつけようと、男たちが声をかけてくる。逃げるよ
うにして店を出ると、ラジカセのボブ・マーレイが唄っている――父な
る国、アフリカへ帰るんだ!   2、3時間歩いただけで、疲れ果てて
ホテルに戻った。ベッドに体を投げ出すと、すぐに眠りに落ちた。眠り
の中ででも、深い闇の中を原色の光があふれ、跳びまわり、僕は少年の
ころの夢を見た。
 
 尾翼にキリンのマークがついているエア・タンザニア機に乗って、キ
リマンジャロ空港に着いたときには、すっかり日が暮れていた。ここか
ら車でキリマンジャロの麓の町、モシへ向かう。その間、約1時間。ヘ
ッドライトが照らすわずかな地面の他は全くの暗闇で、何も見えない。
ただむせ返るような強く甘い草の匂いと虫の声に包まれて、キリマンジ
ャロの麓の闇を走る。アフリカの大地に抱きしめられて、見も知らぬ遠
い故郷に引きずりこまれるように、僕は眠りに落ちていった。

Holombo is Rain!

「アフリカへ行かないか」
 ある日ひとりの友人が、重大な秘密を打ち明けるようにこう言った。
「ああ、いいね」
 僕は答えた。
「キリマンジャロに登るんだ!」
「ああ、いいね」
 回教の坊主になるために修行をしようと言われても、南極にペンギン
を捕まえに行こうと誘われても、そのころの僕ならすぐにこう返事をし
ただろう――「ああ、いいね」
 1ヵ月後には、僕は品川の検疫所で、遠洋航海の船員にまじって黄熱
病の予防注射の列に並んでいた。

 そういうわけで、7年前の大晦日には、僕はキリマンジャロの麓の村、
標高1400メートルのマラングにいた。
 日本から来た僕らのチームは7人だった。皆、傷だらけの汚れた登山
靴をはいていて、ほとんど登山経験のないのは僕だけのようだ。キリマ
ンジャロに登るのに特別な技術はいらない。高山病にさえやられなけれ
ば、ただ、右足と左足を交互に出しつづけるだけで頂上に辿り着く――
はすだ。
 老人のガイドと3人の少年のポーターと一緒に、僕らは登り始めた。
ガイドもポーターも、破れたシャツにボロボロの運動靴だけだ。彼ら7
人分の荷物と食料を頭に載せ、ほとんど裸足で登っていく。
 マラングのゲートからキリマンジャロの頂上までは、3日半の行程だ。

 2日目の朝、標高2700メートルのマンダラ・ハットで目を覚まし
たときには、うっすらと夜が明け始めていた。すぐに外へ出た。一面に
雲海が拡がっていた。それは、スローモーションで見る冬の海のように、
大きくうねりながらゆっくりと姿を変えていた。次第に雲の海が紫に染
まってくる。荒れていた海は急に静まりかえり、空がみるみる赤く染ま
っていく。一瞬、雲の水平線の一端が輝き、最初の日の光がはじき出る。
木々や山小屋や、元旦の日の出を見ている様々な国の人びとが、皆、長
い影をひいて赤く染まり、静かに立ち尽くしている。
 太陽がすっかり昇りきると、生き物たちはやっと動き始める。新しい
年の活動を始める。この日は、1000メートル上のホロンバ・ハット
まで登る。途中、何組かの下山する人たちとすれ違った。彼らの何人か
はハロー≠ニ挨拶し、何人かはジャンボ!≠ニ笑いかけ、そして何
人かはハッピー・ニュー・イヤー≠ニ言って手を振った。

 頭に大きい荷物を載せた裸足の年とったガイドが、僕らを追い越すと
きに足を止めて、遠くを指さしてこう言った。
「ホロンボ・イズ・レイン」
 ホロンボは、1000メートル上の、その日の目的地だ。彼が指さし
た地平線の一隅、快晴の空の下にデンとそびえ立つキリマンジャロのわ
きに、小さな雲の塊があった。
「ホロンボ・イズ・レイン」――この言葉を聞いたとき、僕は深く眠っ
ていた懐かしい、本当の世界に出会ったように思った。この世界を覆っ
ている薄い膜のようなものをこれまでは世界だと思い込み、プレパラー
トに閉じ込められたゾウリ虫のように忙しく動きまわっていたのだ。
鮮やかに、すべてが明確に存在する世界を、僕は再び歩き始めた・「ホ
ロンボ・イズ・レイン! ホロンボ・イズ・レイン!」とつぶやきなが
ら。

ギルマンズ・ポイント

 2日目の朝、3000メートルを越えたあたりから、急に視界が開け
た。なだらかな丘の向こうに、遠く、高く、大きく、ドンと、キリマン
ジャロは急に姿を現した。
 ああ、あの頂上まで登るんだ。遠いなあ、デカイなあ、ワイワイはし
ゃぎながら、僕らは写真を撮った。 湿原を注意してあるき、潅木の間
を抜け、巨大なサボテンに驚き、僕らは登りつづけた。目をあげると、
キリマンジャロはいつも遥かに高く、大きく、そこにあった。

 3日目の朝、3800メートルのホロンボを出発してから3時間ほど
歩き、小さな丘を登りきったとき、驚きで足が止った。その向こうには、
広大な砂漠が拡がっていたのだ。砂漠の左にはキリマンジャロがそびえ、
右には岩山が突き出していて、その間を細い道が地へ線に消えていた。
 砂漠の道をゆっくりと登りつづける。歩きながらいろいろな考えが、
まとまりなく浮んでは消えていく。山に登ることは、人生のメタファー
だとよく言う。その通りだ。生きることに意味がないように。山に登る
ことにも意味がない。生き生きと生きる者が生の意味など考えないよう
に、山に魅せられた者は山に登る意味なんて考えない。ただ山がそこに
あるように、いろいろな生がある。それだけだ。ただそれだけだ。答え
なんかない……。
「ただそれだけだ」というつぶやきが単調な歩みひとつになり、それが
疲れと共に途切れ途切れになったころ、ようやくその日の目的地、46
00メートルのキボ・ハットが見えてきた。夕暮れだった。キリマンジ
ャロの峯が、紫に、ピンクに、妖しく燃えていた。

 深夜0時ころ、目を覚ました。いよいよ登頂だ。外に出た。満点の星
だ。こんなに近く、そしてこんなに多く星を見たことはなかった。だれ
かが南十字星を教えてくれた。南十字星から天の川をたどっていくと、
反対側に北斗七星が、これもすぐ近くに光っていた。僕らは南十字星と
の北斗七星を結ぶ天の川のアーチをくぐって、キリマンジャロに登るの
だ。

 午前2時、登頂開始。崩れやすい火山灰の中を滑りながら登っていく。
息が苦しい。5000メートルを越えたあたりからだろうか、頭痛がは
じまり、平衡感がなくなってきた。ヨロヨロとよけながら、何度も倒れ、
少し休んでそれでも登りつづける、水を飲もうとしたが水筒のキャップ
が開かない。隣りに倒れ込んできた大男のドイツ人に開けてもらうが、
どうしても水が出てこない。しばらくして、凍っていることにやっと気
づく。でも、寒さは感じない。また立ち上がり、少し登り、休む。
 そのうちに明るくなってきた。デイ・ブレイク。太陽がすっかり姿を
現わし、再び登りはじめる。と、すぐ上で声がした。
「ガンバレ! ここがギルマンズ・ポイントだ」
 2、30メートル上で、仲間が僕を呼んでいた。岩にしがみつくよう
にして這いあがると、急に視界が開けた。目の前に、氷河が拡がってい
た。

 標高5690メートル、ギルマンズ・ポイントは、ただの岩の塊に過
ぎなかった。
 仲間が2キロ先、200メートル上のウフル・ピークに行こうと僕を
誘う。キリマンジャロは外輪山で、ギルマンズ・ポイントは、その円周
上の第二峰だ。僕は、もう歩く気はなかった。ここまでにも既に半数近
く挫折していた。どうしてこんな所まで来てしまったのだろう、と思っ
た。
 勝手に行ってくれと手で合図し、僕は赤道の太陽の下、標高5690
メートルの岩の上に横になった。

ライオンの夢

 疲れた体を引きずり、泥だらけになっ
てキリマンジャロを降りる。ときどき振りかえってその頂を眺める。そ
の度に、よくもあんなところまで登ったもんだと思った。 丸2日かか
って4200メートルを下り、マラングのホテルに着いた。6日ぶりに
シャワーを浴びる。鏡に中の顔を見て驚いた。日焼けで顔中の皮膚が幾
重にも剥け、黄泉(よみ)の国からでも帰ってきたようだ。こびりついた
皮膚と一緒に、バリバリと音をたてて髭を剃った。

 ホテルの中庭ではポーターたちが集まって、僕たちがお礼に供出した
服やタバコや靴などを分けていた。上のものから順に好きなものをとっ
ていく。貧しい人びと。だが、それを眺めている僕らの方が、彼ら以上
に虚ろに思えた。
 キリマンジャロの麓では、小さな家々や畑の間で、忙しく人びとや動
物が動きまわっていた。その向こうには、いつも巨大なキリマンジャロ
が、世界の中心であるかのように、デンとそびえ立っていた。人びとも
家も畑もあまりに小さ過ぎた。世界中あらゆるところで人びとは、それ
ぞれ小さな生活を生きている。そんな想いが僕を悲しくさせた。
 日が暮れていく。花をいっぱいにつけた木々が裸電球に照らされ、そ
の周りを蛾が飛びまわっている。急に、懐かしさで胸がいっぱいになっ
た。帰ろう、と思った。でも、どこへ?――僕が帰るべき所は、東京の
生活でも、そしてアフリカでもないように思えた。

 アフリカの最後の1日を、僕らはインド洋に面した美しいホテルで過
した。僕は1日、ビーチで酒を飲んでいた。目の前の白い砂の向こうに、
今も日本の冬の生活がつづいていると実感することは難しかった。
 酔った頭の中に、へミンギウェイの小説の1節がくり返し浮んでいた。
それは、キリマンジャロの頂の氷の中に眠る豹の話ではなかった。かっ
て僕もこの作家の『老人と海』を夢中になって読んだことがあったのを
思い出していたのた。
 老人は毎夜同じ夢を見る。若いころ航海の途中に見た、アフリカの海
岸で戯れていたライオンの夢を。それを読んだ少年のころ、もしも老人
になることがあったら、僕もライオンの夢を見たいと思っていた。世界
の海を航海し、漁師になって、ライオンの夢を見るんだ。と、今、僕は
アフリカにいる。だが僕は、老人になったときに、ライオンの夢を見る
ことができるだろうか?

 アフリカ最後の夜を、僕は仲間と飲み明かすこともせず、ホテルの部
屋でひとりで横になっていた。深い静かな安らかな疲れだった。外では
インド洋の潮が静かに引いていた。南十字星が輝いているはずだった。
僕は30歳になろうとしていた。 
                −完− 〔J-Wave〕

 ありがとうございました。  いかがでしたでしょうか。  アナタの美しすぎる場所をエッセーにして  教えていただけませんか。  わたしにメールしてください。こちらへ トップページに戻ります










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