ロートレアモン全集  著:イジドール・デュカス


『マルドロールの歌』Les Chants de Maldoror : Comte de Lautreamont 訳:渡辺広士 思潮社 1969  ここでは一部しかご紹介できません。是非、手にとってお読みください。


■第1の歌
■第2の歌
■第3の歌
■第4の歌
■第5の歌
■第6の歌
■ポエジ――未来の書の序文
■イジドール・デュカスの手紙
■出生証明書・死亡証明書
■あとがき

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第2の歌
 マルドロールのあの第1の歌はどこへ行ってしまった
のか、ベラドンナの毒葉がいっぱい詰まった彼の口が、
もの想いの束の間にもあの怒りの国々をとび越えて洩れ
行くがままに洩らした時以来、あの歌はどこへ行ってし
まったの? 誰も正確には知らない。木も風も、あの歌
を隠してしまったわけではない。

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第3の歌
 あの天使の性質を持った想像上の人物たちの名前を思
い出そうではないか。第2の歌を書いているあいだ、お
れのペンが彼ら自身から出る光に照らされて輝きながら
脳髄から引っぱり出したあの者たちを。彼らは生まれ出
るや否やたちまち消えてしまうので、目が追いかけるの
に苦労するあの火花のように、燃える紙の上で死んでし
まう。

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あとがき
 ロートレアモン、本名イジドール・デュカスほど、そ
のセンセーショナルな影響と作品そのものの読まれ方と
が釣り合わない不思議な詩人は、世界文学史の上でも珍
しい。たとえばよくロートレアモンと比べられるアルチ
ュール・ランボオを見ると、その影響と文学的価値の理
解はほとんど釣り合ってとらえられており、伝記的研究
も行き届いて、今やもっともよく知られている詩人の一
人である。ところがロートレアモンの方は、いまだに神
秘のヴェールがすっかり取り除かれて全貌を現わしてい
るとは言えない。これは伝記的事実がほとんど謎に包ま
れていることにも原因がある。フィリップ・スーポーが
書いているデュカスの家庭環境や学校時代の話などは、
現代ではほとんどが根拠薄弱なものとされている。
 しかしロートレアモンにかかっているヴェールはこれ
だけではない。むしろ作品そのものの性質こそ、謎の印
象をいまだに生み出しているものなのである。この不思
議な2作品、「マルドロールの歌」といういまだ比べら
れるもののない異常な作品世界と、その2年後に前作を
否定して書かれた「未来の書」の序文「ポエジ」の奇妙
な論理の中に、解説しつくすことのできない異常なフン
イキの源泉がある。いわばその世界は、読み終わってう
まくその全体イメージを取り出し、なんらかの形で見つ
めやすい姿に置くことができないので、われわれはただ
その言葉の海に溺れるように泳ぎ入って、ようやくの思
いでその海の向う側に泳ぎ出るという経験の中でなけれ
ば、その本質のなにものにも触れることができないとい
った次第だ。このような奇怪な文学を、ぼくはただ、カ
フカとジャン・ジュネにだけ見る。
 このロートレアモンの固有性をもっともうまく言いあ
てたのはモーリス・ブランショであり、「マルドロール」
を読むには、ブランショのいう〈文学は経験である〉と
いう言葉のもっとも深い意味を噛みしめる必要があるの
だ。



新装版あとがき


 私の『ロートレアモン全集』訳の初版が世に出てから、
すでに18年をへた。その間に『マルドロールの歌』と
『ポエジ』の読まれかたは大きく変わってしまった。と
いうことは、この20年のあいだに起きた思想界の変貌
にとってロートレアモン=デュカスのテキストがきわめ
て重要な資料であったということを意味している。初版
に付した私のあとがきも、いま読み返してみると少々お
もはゆいところがある。しかしそれはこの本の歴史であ
るからそのままにして、それ以後のロートレアモン解読
のあらましをここに付しておこうと思う。
 初版の時点で最も重要な論文はモーリス・ブランショ
の『ロートレアモンとサド』であった、このことは訂正
する必要のない事実である。

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