トップページに戻ります

お嬢さん放浪記


私が足かけ10年も費やして、アメリカとヨーロッパをほっつき歩いたのは、西欧の思想的な歩みのあとを自分の眼で見、その今日の課題を検討してみたかったからである……犬養道子「あとがき」から

お嬢さん放浪記  犬養道子 中公文庫

   お城をもらった話


 ブドウ酒市場にほど近いブルジェの小説によく出て来
るギイ・ド・ラ・ブロス街に、英語の個人教授の仕事が
あると聞いて、たしかめに行ったかえり道、私はリュク
サンブールの公園に立ち寄った。
 イタリア、フィレンツェから輿入れしたメディチ家の
マリアが、故郷トスカナの明るい風光を懐しんで、とく
に造らせたというこの公園には、冷たい石のアパート住
いに疲れたパリの下町っ子や学生たちが、ちょっとの間
でも太陽の光を浴びようとして、毎日やって来る。
 私も常連の1人だった。
 公園の片隅のマロニエの木蔭には、いつものように飴
屋の屋台が出ていた。
 油じみたアルパカを羽織ったおばさんが、とろとろと
燃える薪の上に、古風な鉄鍋をかけて、キャラメルを煮
つめていたが、そのあまったるい匂いは、風に乗って、
私の腰かけているベンチのあたりまでただよってい来る。
 こたえられない匂いだった。
 その日、私は朝から何も食べていなかったのである。
 3日ばかり前から財布は底をついていた。せっかくあ
てにして出かけて行ったギイ・ド・ラ・ブロスの仕事は、
一足のちがいで人に取られてしまったし、1ヵ月も前に
ニューヨークに送った原稿の稿料も、いつ送って来るの
か、音沙汰もなかった。
 オランダにいる時には、国際放送の仕事で結構収入は
あったし、それにインターヨーロッパの青年たちのグル
ープに入って共同生活をしていたから、くらしの厳しさ
を感じることはまずなかった。
 アメリカでは手内職が当って、預金までする身分だっ
た。
 ところがフランスに来てみると、諸物価はオランダの
2倍かた高い上に、外国人のアルバイト禁止は徹底して
いて、友達が約束してくれていたユネスコ関係の仕事ま
で、まんまとはずれてしまった。
 警察の目を盗んで、個人教授をしたり、子守りをする
のがせいぜいだが、みんながそれを狙うので、くちは中
中かかって来ない。
 結局、オランダのあるグループに、パリの社会事情な
どのルポを書き送って、1万2千フランの謝礼を定期的
にもらうことにしたが、その中から部屋代6千フランを
払ってしまうと、卵1個18フランもするパリで、食費
から光熱費、諸雑費一切合財ふくめて、1日2百フラン
でくらす勘定になる。
 とうていやってゆかれるものではなかった。
 しかも、その月は、どうしたわけか、例の1万2千フ
ランさえ、まだとどかなかった。
 本棚からは掌中の玉のように大事にしていたデカルト
全集が姿を消し、母が送ってくれたセーターも、とっく
に質に流れてしまっていた。
 祖父から以前にゆずられた北多摩の土地を処分して、
その売上の中から毎月の補足を送ってもらうように、せ
っぱつまって取った手段も、フランスへの送金方法がな
いために、思ったほどかんたんには動かなかった。
 10年近い海外生活を通して、パリでの2年間は、経
済的に私が最も苦労した時期である。
 帰国直前の3ヵ月は、何とかやりくりがついたので、
一応水準に達した生活をすることが出来て、ほっとした
が、それまでというものは、バナナ1本で1日をすごす
こともめずらしくない有様だった。
 しかし、その日はバナナ1本のお金もない。さしあた
って、今夜はどうしたものだろうか、友だちにたのんで
食事に招いてもらうのが、1ばん手っ取り早い解決法だ
が、たのむためには電話をかけねばならない。かけるた
めにいるのはまたお金なのだ。私はがっかりした。
「鳩はいいなあ」
 ふと、すぐそばで溜息まじりにこうつぶやく声があっ
た。見ると、うらぶれた身なりから、一目でそれとわか
るパリ名物の浮浪者が1人、いつのまにかベンチのはし
に陣取って、向うの芝生をじっとみつめているのだった。
 そこには大きなバスケットを抱えた2、3人の子ども
が立っていた。笑いさざめきながら、バスケットからパ
ンくずを取り出して、四方八方ににまき散らす。
 子どもたちのまわりに、押しあい、へしあい集まって
いた鳩のむれは、その度毎に騒がしく動きまわって、わ
れさきに餌に飛びつく。
「鳩はいいなあ、食わしてもらえるもの」
 浮浪者はひとりごとを繰り返した。まさに言いたいこ
とを言ってくれた気がして、私は思わず相槌をうった。
「ほんとうにうらやましいわね。ああ鳩になりたい」
 私の口調にあまり実感がこもっていたのだろうか、浮
浪者はちょっと驚いた様子で、私の方を見た。
「マドモアゼル、留学生さんかね。やっぱり、パリでは
苦労すると見えるね」
 私は答えなかった。飴のあまい匂いとチラチラ降るパ
ンの雨とが、胃の腑を強烈に刺激して、どうにも、こう
にも、我慢が出来なくなったのである。
 私はフラフラと立ち上がると、鳩の群れに向って歩き
出した。あさましいことだが、あのパンくずを、かすめ
取ってやろうと考えたのである。あんなくずでも砂糖湯
にとかして食べれば、今夜の食事にならないこともある
まい、こう思ったのである。
 しかし、芝生に近づいてみると、この考えが、あまり
りこうでなかったことはすぐにわかった。
 鳩は私よりずっと素ばしこくて、大ていはくずが落ち
てくる前に、ついばんでしまうし、万一無事に芝生まで
落ちたとしても、朝の雨の名残ちの露を宿している草の
間から、丹念にちぎられたパンくずを拾い出すことは到
底不可能だったのである。
 こうして私は収穫なしで家に帰ったが悪い時には悪い
ことが続くもので、その晩から発熱してしまった。
 高熱の上に、ひどい吐気とめまいで身動き出来ない。
下宿のマダムはその前日、旅行に出かけてしまって留守
だったから、私は1人ぼっちで、医者を呼ぶことも出来
ず、台所からひや水の1杯を汲んで来ることも出来なか
った。
 窓から首を出して、門番のおばさんを呼ぼうと考えた
が、立ち上がると部屋中が波のように揺れはじめて、目
がくらんで来るので、窓までたどりつくことが出来ない。
 こんな具合で、まる3日間というものは、あえぎなが
ら、唇をしめす水1滴もなしに過した。幸いにも4日目
の朝、私の消息がないのを気にした級友が訪ねて来てく
れたのでやっと助かった。
 その友だちは、私の様子を見てびっくりし、また、心
から同情して、早速、他の数人を動員して、看病はもち
ろん、煮炊きから洗濯まで全部やってくれた。
 この人たち自身、決して裕福な身分ではなかったが、
いろいろと工面をしあって私に取っては万金の重さのあ
る5千フランを見舞ってくれたりもした。
 友情の有難さが痛いほど身にしみて、私はこの貴重な
5千フランを受け取りながら、涙をこぼした。
 そんなことがあってから数週間たった夕方、しりあい
のアメリカ人の家に子守りに行って、いくらかもらった
帰り途、モンパルナスに近い裏通りで、食料品店の飾窓
にぴったりと額をおしつけてむさぼるように、中をのぞ
きこんでいる東洋人の少女を見かけた。
「おなかがすいているな」
 私は自分の体験からすぐそう感じた。
 可哀そうに、声の一つもかけてやろうか、そう思って
近づいてみると、意外にもこの少女は、オランダで二、
三回あったことのあるジャワ生まれのギョックだった。
 オランダにいたころは、身なりもよく元気一ぱいで可
愛らしかったのに、その晩見たギョックは、病み上りの
ようにやせおとろえて、着ていりものも哀れだった。こ
れは何かあったのだ、私はそう思った。
「ギョックじゃないの」
 声をかけると、少女はびっくりして飛び上がった。そ
して、私を見つけると、急に物怖じしたような、同時に
ふてくされたような物腰になって、あとずさりをした。
「あなたもパリにいたんだったら、もっと早くあえれば
よかったわね」
 私はギョックの態度にはかまわずに、つづけてこう言
ってみた。
 ギョックは相変らず黙っていたが、目には涙が一杯た
まっていた。
 こんなきっかけで、その晩、私はギョックの身の上話
を聞くことになった。
 それによると、ギョックの家はジャワでも有数の金持
で、音楽の勉強をしたいという娘の願いをいれて、まず
オランダに自費留学をさせた。
 しかし、音楽勉強のためには、パリの方がよいと考え
たギョックが、ヨーロッパの文化の交差点であるこの大
都会に出て来たころ、父親は事業に失敗して大穴をつく
り、そのショックからか、急死してしまった。
 ギョックの家族はこうして、一夜のうちに、路頭にま
よう悲惨な状態につきおとされたので、フランスへの仕
送りなどは、逆立ちしても出来ない羽目になってしまっ
た。そのうちに、母親も病死したというしらせが届いた。
ギョックは一文なしの孤児になったのである。
 生まれつき内向的な性格なので、何でもずけずけいう
癖のあるヨーロッパ人の間に友だちをつくることができ
ない、そうかといって同じインドネシア人の友だちにあ
うのも嫌だった。
 身よりも友だちも金もない、その淋しさと苦しさから、
とうとう自棄になって、街娼に身をおとしてしまった、
というのである。
 ギョックは話しおえると、子どものように大声をたて
て泣きはじめた。釘でも打ち込まれたような痛みを胸に
感じて、私も一緒になきたかった。その晩はギョックを
部屋に泊めて、夜更けまでいろいろと思案したあげく、
当座の処置として友だちの一人が経営している、あるホ
ームにつれてゆくことにした。西洋人はいやだと、駄々
をこねるギョックをなだめすかして、やっとの思いで連
れ出したのは翌日の午後だった。
 その日から、私は一つの考えにとりつかれた。パリに
いる留学生を、それも日本人のように比較的に富んでい
てすらすらと外国人の中に入ってゆく性質をもっていな
い東南アジアやアフリカの留学生を、何とかしなければ
ならない。
 もう何年も外国に暮して、外国人にも生活様式にも、
すっかり馴染んでしまった自分でさえ、無一文になった
り一人で病気になったりすれば、あんなに心細いのだ。
 しかし、私には、声をかけさえすれば飛んで来てくれ
る多くの友があった。これが、話しあえる友だちもいな
いということだったら、この大都会はどんなにうつろだ
ろうか。


<ending>  春が訪れて、ノルマンジーのゆるやかな丘に、冬ごも りを終えた羊たちが姿をあらわしはじめるころ、私はヨ ーロッパの地を去った。

ご意見ご感想はこちらへ
トップページに戻ります

[PR]動画