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お嬢さん放浪記


私が足かけ10年も費やして、アメリカとヨーロッパをほっつき歩いたのは、西欧の思想的な歩みのあとを自分の眼で見、その今日の課題を検討してみたかったからである……犬養道子「あとがき」から

お嬢さん放浪記  犬養道子 中公文庫

   アルバイトの記


 昭和23年の秋のある夕方、私は一留学生として、米
国のマサチューセッツ州のボストンに向けて出発した。
 羽田まで見送りに来た家族や友だちはみな、私がボス
トンでおとなしく勉強して、2年後には学位を土産に帰
って来るものと思いこんでいた。
 だが、当の私は、ボストンだけをめあてにしていたの
ではなかった。ほんとうの目的地はヨーロッパだったの
である。
 ギリシャ・ローマの古典の遺産や中世美術としての建
築と絵画、それに又、戦争直後、各国に手紙を出してヨ
ーロッパの事情をたずねた時、前々から読書の手引きを
しヨーロッパ思想について私に導きを与えてくれていた
一人のドイツ人を通して知らされた、ある新しい運動の
本部を訪れて、そこの共同生活に入ることによって、お
嬢さん育ちに一本筋金を入れてもらいたいとも考えてい
たのである。その運動はグレイルとよばれた。ナチ下の
ベルリンで数千名の青年を動員して、精神の自由を謳う
レジスタンスを数回にわたって展開したことによって、
いまだに記憶されている。現代の性格を研究し、そのテ
ンポとリズムの中で、生活と千差万別の職業とに即した
キリスト教をいかに生きるか、それがこの運動のテーマ
であった。各国から集まった若い女性が共同生活しなが
ら、学問的精神的職業的なトレーニングを受けてから、
ある者は家庭に、ある者は学会に、ある者は農村の農地
経営に、ある者は工場に、それぞれ社会との紐帯におい
てキリスト者としての自らを浄めるというこの理想主義
的な運動には、ヨーロッパ思想の伝統と共に、時代の認
識と、革新的な新鮮さとが感じられた。私はそこに行っ
て、トレーニングを受けてみたかった。
 すでに戦時中から、私は自分が井の中の蛙のように実
力も何もないくせに、足が大地についてもいないくせに、
とかく自らをよしとする傾向のあるのに気づいておそろ
しかった。そして、自分と、自分の生活の革新というこ
とが何をおいても第一に大切だと、若さの情熱からいち
ずに思いこんだ。そしてグレイルのようなところで、自
分の足りなさと自分の可能性とを発見するのが一番だと
考えたのである。
 だが、終戦後、ヨーロッパに直行することは、たやす
く出来なかった。大へんむつかしい試験を突破して官費
留学生となって行くか、あるいは自費で行くか、道は二
つに一つであったが、試験に成功する自信はなかったし、
そうかといって自費は一万いくらかの貯金しかない。
 両親に相談をもちかければ、何とか考えてくれたであ
ろうが、当時の私は、なるべく人の世話にはなりたくな
いという他愛ない抵抗期というか、娘らしい思いつめた
気持でいた。
 どうしたら試験を受けずに、金も払わずに、ヨーロッ
パに行くことが出来るだろうかと、さんざ考えたあげく
に、思いついたのがアメリカ経由の筋であった。
 当時、アメリカから試験なしのプライベートのスカラ
シップ(奨学金)は相当出ていたから、まずそれを受ける
ことにした。親切なアメリカ人の中に飛びこめば、ヨー
ロッパ渡航の費用をかせぎ出すくらいの仕事は、たやす
く見つかるだろうとも考えた。
 幸いにも友人の手づるで、ボストン近郊のあるカレッ
ジのスカラシップが間もなく手に入った。今さらカレッ
ジでもあるまいとも思ったが、大事の前の小事と考えな
おして、それを受け取った。もちろん、受けた以上は、
まじめに2年間、勉強するつもりであった。
 アメリカまでの旅費は、これも又あるドイツ人の力ぞ
えで、オーストラリアやアメリカの友人が出してくれた。
しかし、出してくれたのが、一体誰と誰であったのか、
私には今以てわからない。無名で贈られたからである。
ずっと後になって、マサチューセッツの白樺林で、どう
も旅費と関係ありそうな、ある夫妻に再会した折、私は
話をもち出してみた。
「もういいでしょう、私は此処に来てしまったのだし、
一言お礼をいいたいから、名前を教えて頂けないでしょ
うか」
 友人夫妻は顔を見合せた。そしてしばらくためらった
後に、シカゴ出身の友人はこう言った。
「あなたがこの旅で、少しでも豊かな人間になって日本
に帰ることが最大のお礼なのです。私もあの方たちの名
前は忘れてしまった。ただ私はあの人たちの希望だけは
覚えています。あなたが争いよりは友情を、非難よりは
理解を、愚痴よりは建設を、あなたのまわりにひき入れ
るような人になってもらいたいということです」


 マサチューセッツは、白樺や松の多い美しい土地で、
カレッジのある村もなかなかよかった。しかし、講義の
レベルが低いのは予想以上であった。
 だが、何よりも困ったのは、スカラシップの学生の小
遣い月10ドルときまっていたことだ。ボストン市の有
名な美術館やハーバード大学の図書館に行こうと思って
も往復のバス代だけで1ドル50セントかかるから、出
かけるわけにゆかない。
 アメリカに行ったら、浴びるほど飲もうと楽しみにし
ていたアイスクリーム・ソーダも、ついぞ口に入る見込
みはない。外出すれば、食事は10セントのトマト・サ
ンドウィッチのほかはむつかしい。
 私にとってはさし当りの小遣いかせぎが急務になった。
ヨーロッパ行きどころの話ではない。
 私はアルバイトをやっている他の留学生に、何をして
いるのかと尋ねてみた。
 ある日本人はこう答えた。
「私はクツみがきをした。一足につき15セントもらえ
ます」
 あるハンガリー人はこういった。
「夏の間、農場に行ってキュウリもぎを手伝った。1日
5ドルで大変よかったけれども、キュウリのイボイボが
ささって、それが化膿したので、ひどい目にあってしま
いましたよ」
 これでは、どれもこれも、あまり気のきいたアルバイ
トではないと考えた。身体を使う仕事をしたのでは、お
なかがすいて後で買い食いをしなければならないから、
結局、損になる。頭を使うアルバイトの方がはるかに良
さそうに思われた。
 それで、戦争後のアメリカ人はきっと日本の現状を、
日本人の口から聞きたいと思っているにちがいない。こ
の方からいろいろな団体に連絡をつけて、日本の事情を
講演したら、どんなものだろうか、と考えた。
 これはなかなか名案のように思われたが、さてどうや
って認めてもらったらよいだろうか、その見当がつかな
かった。
 ところが、ある晩、友だちの部屋に行って、一しょに
ラジオ・ニュース新聞社の記者として有名な、ドロシー・
ウェイマン女史の自叙伝が発売になりました。女史は、
1920年、日本を訪問した思い出から書きはじめて…
…」
 こ言葉が、私にはピンと来た。
「このウェイマン女史に会うことだ。それも今すぐに会
うことだ」
 私はびっくりしている友だちをそのままにして、部屋
を飛び出すと、電話室にとびこんで電話帳を繰った。
 その翌日、ボストン美術館のボッティチェリの絵の前
で、私はウェイマン女史に会った。
 美しい眼をした、風格のある老婦人だった。絵を見な
がら、話をしてゆくうちに、私は女史のあたたかい人間
味に心を打たれて、自分の利益ののために、彼女をよび
出したことが、ひどく浅ましく感じられた。
  だが、苦労人のウェイマン夫人は、私が言い出す前に、
和の小遣いのことを考えてくれていた。私が講演のこと
を持ち出すと、夫人はすぐに賛成して、ある研究所へ紹
介状を書いてくれた。
 その上、ハーバード大学の図書館長のマクニフさん夫
妻にも私をひきあわせて、その夫妻の意見も聞き、いろ
いろと相談にのってくれた。
 こんな縁で、私は月に1、2回ずつ、マサチューセッ
ツ州ばかりでなく、ニューヨークやフィラデルフィアか
らも講演に招いてもらえるようになった。
 講演料は大てい40ドルから50ドルで、遠出の場合
は、その土地の評論家や学者の家に泊めてもらい、その
縁でさらに方々に友人も出来たのは幸いだった。
 忘れられないのは、ボストン・カレッジ後援の東洋文
化研究会で、いま思えば、冷汗ものの『日本切支丹史』
を話した時のことである。
 ケネディ上院議員や名前は忘れたが『ボストン・ヘラ
ルド紙』にいつも書評を書く評論家なども交って、5百
人ほどの聴講者が来てくれた。その時は謝礼として13
5ドルと、その他に私のかねて欲しいと思って買えなか
った本が30冊、プレゼントとしてついて来た。これは
私の講演料のレコードである。
 こうなって来ると、とんとん拍子で、6月の学年試験
がはじまる前には、もう秋の講演会のプログラムが五つ
ばかりきまる身分になった。
 だが、世の中にはよいことばかりないというのか、私
の肉体はいつの間にか、病気の巣になっていた。春ごろ
から出はじめたセキが7月になるとだんだんひどくなり、
身体じゅうが痛んで、とうとう夏休みのために、ニュー
ヨーク州ハドソン上流の知人の家へ滞在している間に、
倒れてしまった。
 医師の診断で「かなり進んだ両肺の結核」ということ
であった。この宣告を聞いた瞬間、私はすぐに日本にひ
き返すことを考えた。
 せっかくここまで来たのにと思うと、涙が出るほど残
念だったが、身体には替えられないし、米国で治療を受
けるだけの財力もない。それを両親におんぶすることは、
気の毒だと思い込んでしまった。
 ところで、そのハドソンの知人は、大変に親切な人で、
自分の所であなたが倒れたのは深い御縁だと思うし、ア
メリカが広島に対して行ったことを、心から悔んでる自
分は、日本に個人的な借財があるように呵責を感じるこ
とがある。この機会にその借財の万分の1でも返したい
から、入院費はまかせてくれ、と言ってくれた。
 その上、知人の縁つづきになるある宣教師が、終戦後
来日して住居がなくて困っていたとき、信者ではなかっ
たが、彼に同情した私の両親が2階の部屋を1年半ばか
り提供したことも引き合いに出して、その時のお礼もま
だしていないからといった。
 そんないきさつもあったし、いま日本まで旅行すれば、
身体の方は保証できないといったドクターの言葉も考え
て、とうとう私は、この好意を受けることにきめた。
 ただ、入院費以外の臨時費と自分の小遣いとは、自分
で何とかするから心配しないでほしいとつけ加えておい
た。
 こうして、私は偶然にも、ふり出しの地点に一番近い
カリフォルニアに舞いもどって、知人の指定してくれた
モンロビアのサナトリウムに入院したのである。入院す
るとすぐに、アメリカ式に手っ取り早く診察が行われた。
「さあ、6年も寝ていたら直るだろう」
 現像室から取りよせたばかりの、まだぬれている胸部
写真を見て、主治医がこう宣言したとき、私はあたりの
ものが、急に色彩を失って、ぐるぐる回りはじめたよう
に思った。だが、その夜、1人になってよく考えてみる
と、私は二つのことに気がついた。
 第1は、アメリカ人の医者は掛値をするくせがある、
ということだった。一時的な慰めをいう代りに、事実を
患者に認めさせて覚悟させるのが、この人たちのやり方
である。おそらく話は半分と見てよいだろう。だから、
6年というのは3年と解釈してよいと考えた。
 第2は、ボストンで予想以上に程度の低い講義を聞い
ているよりは、ここで静かに本を読んだ方が、将来のた
めになるだろうということだった。
 それに1年かかってでも何か手仕事を習いおぼえれば、
あくせくと講演してまわるより、あるいはもっと能率的
な金もうけも出来るはずだ、と思いついた。こんどはボ
ストンの逆を行って、頭でなく手を使うのだ、こう考え
たのである。
 それで、最初の高熱がおさまって、サナトリウムの生
活に馴れて来ると、私は仕事をさがしにかかった。最初
は人形でも造ろうかと思ったが、材料費があまり高くか
かりそうなので断念した。
 もとでがかからなくて、やさしくつくれて、しかも金
になる手仕事、そんなものがあるだろうか、といろいろ
考えた。
 ところが、「果報は寝て待て」ということわざがある
が、これは私の場合、文字通りに寝ているところへ好運
が訪れた。というのは、ある日曜日の午後、願ってもな
いことが、降ってわいたのである。
 国元をはなれて1人で療養生活をしているということ
が、サナトリウムじゅうに知れ渡ってから、大勢の見知
らぬ人々が、毎日曜日に、私のところに寄って慰めてく
れるのが常だったが、その日に限って、朝からだれも来
てくれない。
 さびしく思いながら、ウィルソン峠の夕焼けをながめ
ていると、散歩を許されている隣室の患者が1人の海軍
士官を連れて、私の部屋にやって来た。
「今日はあなたのところは、不景気らしいから、私の見
舞客を1時間ばかり貸してあげますよ」
 と、その人はいってくれた。海軍士官は、イスをひき
よせて、私のそばに坐ると、こんなことを言い出した。
「僕は、あなたのお国へ行くかもしれなかったんですよ」
「進駐軍としてですか」
「いや、進駐軍が入るずっと前のことです」
「へえ、じゃ爆弾を落しにですか。あんたは海軍の飛行
将校ですか」
「まあ、そんなところですね。僕はパラシュートの係な
んです」
「じゃ、東京にパラシュート部隊でおりて来るはずだっ
たんですか」
「いいえ」
 と、その将校はあいまいに笑った。
 軍のことをあまり話してはいけないと思ったのだろう。
将校は話の方向をかえた。
「パラシュートというやつは、古くなると始末が悪いの
です。一番困るのは、倉庫の中で丸まってるヒモなんで
す。山ほどあるから棄てるのも大変だし、まったいなく
もありますしね」
 私は、戦時中なにかの雑誌で見たパラシュートつくり
の話を、なんとなく思い出した。
「パラシュートのヒモは、耐久力のつよい、弾力性に富
む最上級の糸でつくられる……」
 ここまで思い出すと、私は思わず、
「あっ」
 と、大きな声を立てた
 糸がある。上等な糸ででき上っているそのヒモが、倉
庫の中で、山ほど寝ているのだ。
 そのヒモをなんとかしなくちゃならない。
 私は昂奮してしまった。将校は私の声にびっくりして、
イスから飛び上がった。
「どうしたんです。喀血ですか」
 私はまだ昂奮を抑えきれず、黙ってしまっていた。目
の前には糸の山がチラついて見えた。これをほぐしてレ
ースを編むのだ。上等な美しいレースが出来るだろう。
こう私は考えた。
 私は、うろたえている将校に、少しわけがあって、そ
のヒモがどうしても欲しいのだが、なんとか融通してく
れまいかと頼んだ。
 将校は私が喀血したのでないとわかると、落ち着いた
が、この新しい話をきいて、けげんそうな顔をしていた。
私覇正直に、ヒモのほしい理由をこまかに説明した。
「オー・ケー」とその将校は、私の話を聞き終わると気
軽にうなずいた。「そういう理由なら、何とでもしてみ
ます。2週間たったら、また来ましょう」
 その晩、私は看護婦の1人から、カギ針と、糸を少し
ばかりもらって、レース編みの練習をはじめた。
 おかしな話だが、レース編みの内職を考えついておき
ながら、私は生れてこのかたレースというものを編んだ
ことがなかったからである。
 約束通り、2週間たって、その海軍将校は大きな袋を
二つ両手にさげて、私の病室にあらわれた。
 彼に手伝ってもらって、ヒモをほどいてみると、ピカ
ピカ光ったナイロンの糸が出て来た。見たこともないよ
うな美しい糸である。
 私は有頂天になった。ひとわたり落ち着いてから、よ
くしらべてみると、その糸は目方のあるしっかりした品
質なので、細いレースに編むよりは、むしろそれでベル
トをつくった方が、よいように思われた。
 将校が帰ってから、ものはためしと思って、1本つく
りあげてみると、伸縮自在で身体にぴったりして、なか
なか具合がよい。
 私はベルト専門で発足することにきめた。私は手のこ
んだデザインを入れてみたり、両はじに房をつけてみた
り、いろいろなものをつくって、部屋にならべてから、
窓の外を通る人々を呼び入れてどんな反応を示すか試し
て見た。
 呼び入れられた人々は皆びっくりして大きな声をたて
た。アメリカ人というのは大体みな不器用だから、寝て
いる病人がこんなに細かい仕事をしたというだけで、た
だもう驚いてしまった。
 その上、東洋人のつくるものは、何でも美しいと思い
込むロマンチックな先入感があるから、たれも彼もが、
「ワンダフル」という感嘆詞を連発した。
「まあ、すばらしいこと! これは売りものでしょうか」
 と1人の婦人が、私に尋ねた。実は私の待ちあぐんで
いた質問である。
「ええ、お売りします」
「まあ、うれしい。おいくらでしょうか」
 私は当惑した。資本に一文もかかっていない品を、高
く吹きかけるのは気がとがめるし、そうかと言って、1
0ドル以下ではどうもいやだった。仕事は中々難しいか
らである。
 部屋にならべる前に、相場を調べなかった手落ちが悔
まれた。すると、私が黙っているので、その婦人はとう
とう自分の方から切り出した。
「20ドルでは、安すぎるでしょうか」
 私は仰天した。20ドル! このベルトが1本で20
ドルなのである。私は胸いっぱいになって黙っていると、
その婦人は言葉をつづけた。
「私はロサンゼルスで、これによく似た品を見ました。
でも、デザインも品も、これとはくらべものにならない
ほど趣味の低いものでした。それでも18ドルもしたん
ですよ」
 私は胸がときめいて来るのをこらえながら、やっとの
ことで答えた。
「20ドルで結構です」
「すばらしいわ」
 と、その婦人は晴れ晴れしい声を出した。
「では2本いただきます」
 こんあ具合で、ベルト編みは思いの外の大成功をおさ
めた。そればかりではない。最初の買い手になったその
婦人が宣伝したものと見えて、わざわざロサンゼルスか
ら、私の品を買いに来る人まであらわれる始末だった。
手紙の注文も来はじめた。造るのが追いつかないほどに
なった。お金はどんどんたまった。
 毎月のレントゲン費10ドル、気胸費40ドルを払っ
て、その他、日用品や本を買って、それでもまだどんど
んたまった。



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