私には現在八十八歳の母親がいます。その母が、四年
ほど前に嘔吐や激痛をくり返し、深夜、救急車で日赤へ
運ばれるという騒ぎがありました。宿直のお医者さまは
まだ若い外科医でしたが、体の中に管を入れて調べたと
ころ、真っ黒な胆汁がどろどろ出はじめ、おしまいには
黄色い液まで出るほどでした。胆のう炎でした。こうし
て母は、そのまま入院生活に入ることになってしまった
のです。
そのころ私は、フリーの宴会セールスマンから、ホテ
ルの営業推進部長へと昇格していました。しかし、母の
看病は、誰かが一日中、付き添っていなければつとまり
ません。普段の仕事の時間には、兄嫁に母親の面倒をみ
てもらっていた私ですが、命にかかわる状態では、それ
もお願いできません。そこで私は、思いきって仕事を休
み、母親の付き添いに専念することにしました。亡き父
は、私に母を頼むと言って、この世を去りました。その
約束を守るのはこのときなのだと私は考え、仕事よりも
母親を選ぶことにしたのです。
病室の小さなソファに横たわり、一緒に病院に寝泊り
するという、私と母親の病院生活が始まりました。お医
者さまは、老人は一か月も話さないとボケてしまうと言
います。私の病院の日課は、まず、毎朝の母親への語り
かけから始まりました。きょうだいのこと、仕事の話、
そして昔話もたくさんしました。普段は、仕事に勢力を
傾けていた私にとっても、久しぶりの母親とのゆっくり
した時間でした。
また、毎日、母のアキレス腱を引っ張るのも日課にな
りました。この足のマッサージは効果があったらしく、
入院して半年後の九月には、母は久しぶりに立って歩く
ことができました。そして同じ月の十八日、母親の胆の
う炎の手術は無事成功をおさめました。やがて母は退院
し、再び私と同じ屋根の下での生活が始まりました。今
は、朝の食事やお風呂の世話などは私がみて、仕事に出
てからは兄嫁に世話をかけるという日々が続いています。
しかし、病院で付き添っていた間、私がまったく仕事
を離れていたかというと、そうでもないのです。部下か
らの連絡も少しずつ受けていましたし、東京の妹を呼ん
で仕事に出たときもあります。しかし、あくまで母親の
付き添いが、そのときの私に課せられたもっとも大事な
役割でした。付き添いと仕事の両立はおそらく不可能だ
ったでしょう。
もし、無理に二つをこなそうとすれば、結局は誰かに
迷惑をかけることになったせしょうし、両方にいい結果
が出ることはなかったと思います。
何かひとつのことに集中しなければならないときは、
思いきって別のことを捨ててかからなければならない。
そのとき私が学んだことは、こうした考えでした。二兎
を追うものは一兎をも得ず、ということわざもあります。
自分に与えられた一日の時間が決まっている以上、それ
を二つに割ってしまっては、結局は両方ともマイナスに
なるのがオチなのです。私自身も、おそらく忙しい思い
をし、イライラしたりくたびれたりの毎日で、何も得る
ところがない日々になっていたのではないかと思います。
もちろん、せっかくそれまで順調にやってきたセール
スの仕事がとぎれてしまうことへの不安がなかったとい
えば嘘になります。しかし、そうしたおびえに屈してい
ては母を見殺しにしてしまったでしょう。
病院で母と生活を共にしながら、やがて私は、
「もし、ホテルの仕事がダメになったら、次は老人看護
の仕事でもやろう」
と、本気で考えるようになりました。
半年も病院で老人の世話をしているのですから、私す
でにいっぱしの老人介護の専門家でした。ホテルの仕事
がなくても、人手不足のこうした道で生きる方法もある
かもしれない。それに、多少とも世の中のお役に立てそ
うだ。
ひとつのことに集中すれば、このように別の世界が見
えてくるものなのです。幸い、母も回復し、私にとって
貴重な勉強になったことは言うまでもありません。
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