ちょっといい話


◎生命ある限り 曽野綾子  讀賣新聞社 1970年刊 チト古く、差別語・不快語が出現しますけど許してあげてください〜〜〜


■露地奥の詩
■かけ出して行く少年
■このはてに君ある如く
■乾いた花■飛騨の若妻
■滝の呼び声
■星との語らい

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■ちょっといい話へ











このはてに君ある如く
 横浜の大桟橋に近い古いホテルへ、私はごくたまに仕
事をもってでかける。食事に、すぐ目の前の桟橋の船の
出入を眺められるのが新鮮な楽しみなのである。
 いつの間にかサトウ礼子さん、という27、8歳に見
える日本風の顔立ちの美しい女の人が、フロントの男た
ちの間できびきびと働いているのに気がつくようになっ
た。
 サトウさんは英語も達者だった。それも、只の達者さ
ではなかった。フロントへやって来る外人客との応対を
それとなく聞いていると、外国語で喋る時に日本人にあ
りがちな、不当なためらいや、羞恥や、気負いなどとい
ったものがサトウさんの表情にはなかった。
 私がサトウさんについて抱き始めた興味が急にふくれ
上ったのは、たまたま、そこのホテルの内部で詳しい室
内装飾をやる人が、我が家の壁紙の貼かえの注文をとり
にやって来たからであった。
「あのひとは立派な婦人ですわ」
 彼はサトウさんをべた讃めだった。
「ああいう女性を、アメリカ人に持って行かれちまうの
は。日本男児として情けないね」
「持っていかれるって、じゃ、サトウさん今度結婚され
るんですか」
「いや、もう、結婚して、彼女は未亡人なんです」
「それでサトウさんという旧姓に復されたんですね」
「いや、サトウってのは、外人の名前ですってね。サト
ウって、幕末の頃、外交官で日本に来ていたイギリス人
がいるんだっていうじゃありませんか。何でも日本につ
いての本を出してるんだとかって」
「アーネスト・サトウですね」
『一外交官の見た明治維新』という名著の著者である。
サトウというのは Satow と書くのである。
「で、あのサトウさんは?」
「その幕末の外交官の親類筋に当るとかいう人のところ
へ望まれて嫁に行ったわけですよ。何でも旦那さんとい
うのは、ジャーナリストで、沖縄にいたそうですけどね。
それがヨットに乗ってて、海で溺れ死んだんだって。
スポーツマンみたいないい体格の男で、水泳も達者だっ
たっていうのに、人間、間の悪いときには、ひどいこと
になるもんだね」
 アーネスト・サトウは1862年から1882年まで、
実に20年近くも大変換期にあった日本にいて、維新と
いうドラマを身をもって体験した数少ないがゐ国甚であ
る。
 そんなことがあって、私はますます、サトウ夫人に関
心を抱くようになった。
 そしてやがて遂に私はサトウ夫人と個人的に口をきく
機会を持った。もっとも、私は、例の装飾屋から、そん
なゴシップめいたことを聞いたとも言えなかったので、
話をごく自然に沖縄にもって行くようにした。私が沖縄
へ最初に行ったのは1961年のことであった。
 すると、砂糖夫人の方も、アメリカ人の夫が、沖縄で
小さな週刊誌を発行していたことを話し出した。
「沖縄ウィークリーという英字週刊誌でしたの。アメリ
カ人の生活に片よらずに、私も取材の手伝いをして、日
本人の生活のニュースをずいぶん入れたんですの。沖縄
で自分たちだけの特殊社会に閉じこめられて、ツンボ桟
敷におかれてしまっているような不安を持っていたアメ
リカ人たちからは、とても喜ばれました。もっとも日本
の社会のヤボなお話を書くくらいなら、ワシントンの社
交界のゴシップをのせろと言って来る人もいましたけれ
ど」
「それで、御主人さまは……」
 私ははなはだ聞き辛い誘導尋問を試みた。
 答えは装飾屋から聞いた通りだった。只、その時、サ
トウ夫人の顔が、悲しみに閉ざされるというより、ふっ
と曇ったのを私は見てとった。
「ヨットには、主人と、ほかに軍関係の方が2人乗って
一緒に遊びに出ましたの。台湾まで行くつもりだったん
です。天候もそんなに悪くなかったのですけれど、主人
が胸をかきむしるようにして、船ばたから落ちて、それ
っきりだったそうです。お2人はずいぶんあたりを探し
て下さったらしいのですけれど」
「そうですか」
 私はサトウ氏を呑んだ鮮やかな、きらめくような南海
のあさみどりやトルコ玉の青色を目に思い泛べた。
 そんなことがあってから暫くたって、思いがけなく、
私は、再び沖縄へでかけた。ベトナムの戦争の影響を受
けて沖縄の米軍の動きは素人眼にも派手になっていた。
国道1号線に沿った海岸の砂浜には見わたす限り、玩具
のように見えるジープやトラックや装甲車が並んでいた。
 2日目と、3日目の沖縄での公用が済むと、私は首里
へ行ったり、辺土名という北部の村にあるVOA(ヴォ
イス・オブ・アメリカ)の送信所を訪ねたり、琉球芝居
を見たりして過した。
 たまたま或る夜、那覇市内の上泉町にあるY氏という
知人の家を訪ねた時、私はそこで思いがけない人物にめ
ぐり合ったのである。
 それは12月の20日頃でクリスマスも間近であった。
Y氏というのは、新聞社の特派員で、私はその家の客間
に上りこみ、美しい朗らかなY夫人から、沖縄の生活の
話を聞いていた。
 すると突然、玄関のチャイムが鳴った。
 那覇市内で、本土からの駐在員が借りている家は、大
てい完全な西洋風で、客間のドアがそのまま、玄関の出
入口をかねている。そのために、私は居ながらにして、
その家に入って来る客を見ることができた。
 それは白髪で小太りの、きゃあきゃあと、騒がしい声
を出す、花模様の服を着たアメリカのお婆さんであった。
ハーバービュー・クラブというアメリカ人専用の施設の
中で明日行われる、国際婦人会のクリスマス・パティの
うちあわせに立ち寄ったのだという。
 くじびきのことだの、テーブルごとのデコレーション
のことだの、Y夫人に喋り放題喋って花模様のお婆さん
が帰ってしまったあとは、部屋がしんと静まりかえった
ように感じられたくらいだった。
「あれがクラブの副会長ですよ」
 Y氏が言った。
「サトウという日本人みたいな名前ですけどね、御存じ
でしょう、アーネスト・サトウの……」
 後はもう詳しくきく必要はなかった。彼女は、海で死
んだ「沖縄ウィークリー」n社長兼編集長の、アレン・
サトウの実母であった。息子の死後、彼女は沖縄へ来て
息子の仕事をついだのであった。
 しかし意外なことにアレン・サトウが、台湾で死んだ
事については多くの人々がその死因に疑念を抱いている
というのである。アレン・サトウは彼の雑誌の中で、沖
縄の真実を知らせることに力を注いだ。当然それは、沖
縄におけるアメリカの政策を批判することにならざるを
得ない時もあった。
「ずいぶん、サトウにはアメリカ側からの圧力がかかっ
たろう、と思うんですよ。僕がここへ赴任する前の話で
すが、それでもサトウは論調を変えなかった。それが、
アメリカ側の神経をずいぶん刺激したのでしょうね。そ
の挙句があの事件です。一番ヨットに馴れていて、心臓
なんか少しも悪くなかったサトウが1人が死んだ、とい
うのもおかしい。そのあとに、おっ母さんが来て……」
「それで?」
「おっ母さんになってからは、全く、アメリカの御用雑
誌ですよ。批判のヒの字もやりませんからね。だから、
彼女はああして、国際婦人会の副会長です」
 それでよかったというべきなのか、あの母親は、息子
が生命を賭けて貫こうとした生涯に只一つの情熱をうち
くだき裏切ったというべきなのか、私はわからないまま
に、その話にうたれていた。
 最近私は、サトウ礼子夫人から一通の手紙を受けとっ
た。カナダのサスカチエワンのノ―ルクウェイという所
から送られて来たものだった。
「最近、ホテルで、私をお探し頂いたことをマネージャ
ーから手紙で聞きました。お心におかけ頂いて嬉しく、
只一言お礼を申しあげたく、筆をとりました」
 沖縄へいらっしゃいました由、サトウのことも、お聞
き及びと思います。私も、こちらへまいります前に、サ
トウの気の毒な母を慰めるために沖縄に立ち寄り、私た
ちの短く楽しかった結婚生活を心ゆくばかりしのんでま
いりました。
 義母が現在やっておりますことを責める気は少しもご
ざいません。夫の死に関しましては、心のどこかで、臍
を噛むような思いが悲しみにまじっておりますが、それ
と義母とは関係ないことでございます。
 アレンは男らしい立派な人でした。
 アレンの死後、私には横浜のアメリカ領事館へ勤める
ようにとのお話もございましたが、私はおことわりいた
しました。私はもうそういう社会とつながりを持ちたく
はございません。
 こちらはアレンを小さい頃、かわいがって下さってい
た叔母さまがたった1人で住んでいらっしゃる所です。
もし叔母さまが気に入って下さったら、私はここにずっ
と居ることになるかも知れません。
 沖縄の戦跡に、作者のお名前をどうしても覚えられな
いのですが『このはてに、君ある如く思われて、春の渚
にしばしたたずむ』という未亡人のお方のお歌の歌碑が
できていました。いつ拝見してもいいお歌です。
 ではどうぞくれぐれも御健康第一に」
 戦争の傷あとはまだなおっていないということなのだ
ろうか、と思いながら、私はサトウ礼子の手紙を大切に
机の引出しにしまった。

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露地奥の詩
 私は東京も下町のその更に東の方に生れた。今の東京
の行政区画で言えば、葛飾区というのは、なるほど下町
と言っていいかも知れない。しかし、厳密な意味で東京
の住人が下町と考えるのは、隅田川以西である。
 私の生れた頃の葛飾は、(当時はまだ南葛飾郡だった)
あちこちに田圃や沼地があり、地面は30センチも掘れ
ば水がじくじく湧き、押入れはいつも湿っていた。そし
て人家もまばらだったので、筑波おろしのあおりのよう
な冷たい風がいつもびゅんびゅん吹いていた。
 もっとも、今葛飾の近辺は人間の臭いでむんむんした
活気のある町である。江戸川区の南端の埋立地に、ここ
が東京かと思うほどの美しい人気のない場所があるが、
そういう特殊な所をのぞいて、隅田川よりの東の東京は、
工場の煙突や、よごれた掘割りや、狭い道や、道よりも
高い所を流れている川などによってつづられた、化粧を
していない都会の素顔のような所である。東京の山の手
がホワイトカラーたちによって、国籍不明の、新都会に
したてあげられたとすれば、新下町は工場労働者たちが
寄り集まって作った東京の一地方と言うこともできる。
 確かに、この部分の東京は、観賞には適さないのであ
った。東京見物の客もこの土地へはめったに足を伸ばさ
ない。公園に1本の木すら生えていないところも多い。
露地は細く、町工場から流れる臭気や騒音がたえ間ない。
一雨降れば、またたく間にあちこちに床下浸水ができる。
オリンピックの行われた昭和39年を契機に、東京の中
央部から西南部にかけてはアメリカ並みの立体的な高速
道路ができたというのに、東京の東の部分は全くのツン
ボ桟敷に置かれたのだった。道は相変らず細く埃っぽく、
この辺は東京でない、と言わんばかりの冷たいあしらい
を受けたのだ。
「それなのに、うちの主人ったら、道がよくなったら終
りだって、そんな道を、毎日曜くるくる自転車で歩いて
てるんですから」
 私は或る時、或る婦人会の会合で、そういう奥さんに
出合ったのだった。私が彼女に好意を持ったのは、初対
面の私に対しても少しも手心を加えずに、むきになって
夫の不平を言うその飾らないひたむきな態度が快かった
からである。
「すべての道はどこへでも通ず、なんて言いましてね。
横丁から横丁を只自転車で見て歩くんですよ。それが唯
一の道楽なんですからねえ。日曜なんか朝3時に起きま
してね、もうでかけるんです。私は起きやしませんけど、
前の人から地図を片手に計画を練りましてね。明日はこ
の部分の道をくまなく探求するんだなんて、それさえや
らしときゃ、いいご機嫌なんですよ。だけどあまりと言
えばばからしい趣味でしょう」
 私はそうは思わなかったけれど、夫に対する不満とい
う情熱に支えられている夫人に、水をかけたくなかった
ので、黙ってにこにこ聞いていることにした。
「そりゃ詳しいんですよ。この道は何月何日から一方通
行になったとか、ここは何日で下水管の工事が終る筈だ
とか、江東地区の道路は自分が管理しているみたいな気
になっているんですよ」
「御主人は何のお仕事をしていらっしゃるんですか」
 私は尋ねた。
「画描きなんですよ。私が結婚した頃は、本当の芸術家
になるなんて言ってたんですけどね。そんな才能はあり
ゃしないんですよ。それで、中学の画の先生をしてます。
たまには自分でも油絵を描きますけどね。完全な抽象だ
から、私なんかには、まずわかりませんねえ。ひとりよ
がりなんだから。もう少しわかる画なら、せめて喫茶店
が絵具代くらうには買ってくれるんでしょうけどね。私
がいくら言っても、自分が楽しきゃいいじゃないかって
けろけろしてるんですよ」
 実は私も、そのD氏(あまり珍しい姓名なので私はす
ぐ覚えてしまったが、それだけに、日本の数人しかいな
いと思われるその姓をここに書くことはさし控える)ほ
どではなくとも、生活の匂いがただよっている狭い露地
を歩くのは好きだった。ことに私は近視の代りに、異常
に敏感な鼻を持っているので、味噌汁の実さえ匂いで当
てることができた。しじみの味噌汁、鯉こく、豚汁。ど
れも一種の味噌汁だが匂いは全く違う。私は鼻をひくひ
くさせながら横丁を歩き、そこから見える勝手口のはき
ものや洗濯物の一つ一つにも、その家の住人たちを想像
して、胸を躍らせることができるのだった。そしてD氏
が、そのような濃密な生活の気配から抜け出すと、再び
それが又別の人間的な匂いに満ちた小さな露地につなが
り、すべての道が、どんな人の心にも通じているような
楽しい錯覚を持つことに、私は、深い同感を持つことが
できるのだった。それはD氏の一種の甘い感傷かも知れ
なかった。しかし、今の世にそのような感傷を持ち続け
ていられること自体私にはD氏が生活の達人のようにさ
え感じられたのだった。

 それから数年後に、私は江東地区の学校へ公害問題の
取材に行くことになった。雑誌社から廻されて来た車を
玄関に見た時、私ははっとした。それは尾鰭をぴんと張
ったように見えるスタイルのアメリカ車で、とてつもな
く大きかった。乗り込む前に、私は一瞬、躊躇したが、
専門の運転手がついているというのに、江東地区へ行く
のにこの車では大きすぎやしませんか、と注意すること
は、あまりにさしでがましく失礼なように思えて黙って
いた。
 目的の葛飾区の中学の校門の前に出るには近くに3本
の道があったが、近所の人に訊くと、丁度、今そのうち
の1本は工事中なので、ぐるっと廻ってもう2本の道か
ら入った方がいい、と教えてくれた。
「私たちは下りて歩きましょう。車は広いところで待っ
ていらした方がいいわ」
 私は言ったが、運転手は、
「いや、廻ってみますから」
 と客を歩かせることは、彼の職業人としての誇りが許
さないらしかった。
 細い道だった。学校の塀に沿った所まで来ると、下校
の子供たちは、普通に歩いていては、私たちの車とすれ
違えなかった。彼らは塀にはりつき、目の前をそろそろ
走って行く大きな外国車をさわっては喜んでいた。こう
いう狭い道に大きな外国車を乗り入れる非常識を怒るの
は、恐らく大人たちだけなのであって、子供は、割下水
に鯨が泳ぎ入って来たようなこの光景をかなり楽しんで
いるだろうと思うと私は、よかった、と考えたくらいだ
った。それに人間の歩く速度よりも遅く走っている自動
車などというものは、却って事故を起す危険は殆どない
のである。校門を入る時も、車は、2度も3度もハンド
ルを切りなおした。
 記者と私は、学校で教頭と保健の先生から、公害につ
いて聞かされた。教室の中に集塵機をつけたら、鼻炎、
ゼンソク、結膜炎の類がかなり減ったという。
「しかし、冷房機がない以上、どうしても窓を開け放し
ますのでね。音と匂いはどうにもなりませんな」
「匂いというのはなんですか」
 記者氏が尋ねた。
「ここから1キロばかり先に、皮をなめす小さな町工場
がいくつかあるんです。風向きによりましてその匂いが
強い時がありましてね。一種の腐敗臭です。感受性の強
い子はハンケチで鼻をおさえています。実は私らもそう
したくなる時があるんだが、その工場から通って来てい
る生徒もありますからね。公害は公害として、何とか善
処してもらうように申し入れるのは別として、親の職業
が学校で嫌われているという風に思わせることはいけま
せんからね。教師は少なくとも、何も感じないふりをし
とるんです」
 二人の先生は、こもごもに話をしてから、「山の手に
お住みの方には想像もつかれんでしょうが」とつけ加え
るのだった。
 話を聞き終って玄関へ出ると、そこで私たちは眼鏡を
かけた、丸顔の機嫌のいい、にこにこ顔の先生に紹介さ
れた。
「画を教えていられるD先生です」
 私は、その名前に記憶があってはっとしたが、何気な
く尋ねた。
「今、皮革工場のお話を伺ったんですけれどそれはどち
らの方向になりますでしょうか」
「ああ、それは是非見ておかれた方がいい。皆、臭い臭
いといいますけどね。僕はあの辺の光景が、いかにも江
東地区らしくて好きです。帰り道に少し遠まわりになっ
てもよく見ながら帰りますよ」
 D先生は校門を、来たときとは反対に左へ出て広い通
りにぶつかったら、それを右にとって最初の掘割りの橋
を左に渡るのだと教えてくれた。
「只、車が」
 私は校庭の一隅に停っている外車をさした。
「そうか、あれか。あれはちょっと無理かもしれません
ね。トラックが無理して入って来るもんで、先月の5日
に、出口に、石を二つ植えたんです。大型車を通さない
ための。その石がお宅の車を通さないかも知れないな。
それだったら元来た道をぐるっと廻ってタバコ屋のとこ
ろを右へ曲れば広い道へ出ますから」
 しかし挨拶をして車が校門を滑り出すと、運転手はた
った今私たちが伝えたD先生の忠告を、専門家の立場か
ら信じないのだった。
「行ってみましょう」
 彼は言った。ほんの5、60メートルで私たちは広い
道の見える所まで来た。しかしD先生の言った通り、車
どめの石は中型車がやっと通れる間隙しか開けてなかっ
た。
「困りましたね」
「大丈夫です。バックします」
「こんな細い道を、又百メートル近くも」
「大丈夫です。馴れてますから」
 その途端、キーンと鼻の奥を衝くような匂いが車窓か
ら吹き込んで来た。「ああ、匂って来ましたね」と記者
氏ふぁ言った。それは予想外に強い臭気だった。しかし
私は、「我が町」の厳しい現実の姿と、それを愛してく
れるD先生のにこにこした顔を二重うつしに心の中に思
い描きながら、その臭気を運んで来た初夏の風に快く身
をさらしていた。

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かけ出して行く少年
 タイの3月、4月というのは、雨期の前の最も厚い時
期で、連日、35℃を越した。道へ停めておいた車は、
金属がやけて、やけどしそうに熱くなり、1時間も外を
出歩くと早くホテルへ帰って水浴をしたいと思うばかり
であった。
 バンコクの日本人小学校は、夏休みであった。日本の
春休みに当る学期初めの休みが1月以上も長く続くので
ある。
 子持ちの日本人の奥さんたちが、休みのとれにくい亭
主族をおいて、一晩泊りの海水浴行きを計画しようとし
ても当然であった。
 目的地はパタヤという、外人がひらいた海岸である。
そこへ行くには鉄道がない。自動車が唯一の交通機関で
ある。ということは、パタヤは、自動車など一部の金持
ちしか持っていないタイの庶民生活にとっては縁のない
リゾートだということである。
 旅行会社からチャーターしたバスの席が少しあまって
いるから、一緒に行かないか、と誘われて、私はメンバ
ーに加わることになった。
 私たちは、バンコクの目抜き通りのスリウオン街の旅
行会社の前で朝8時に落ち合った。町はまだ靄に煙り、
ひややかで、何となく夢を誘うような熱帯の朝の香を持
っている。癩ではないかと思われる、くずれた皮膚をし
た少年が、はだしのまま明るい表情で、集まった女と子
供ばかりの日本人の一団を見つめて過ぎて行った。
 私はそこで、メンバーの人々に紹介された。人々は、
日本のPTAの会に集まる母親たちと殆ど違わなかった。
こうして集団になってみると、この国では日本人たちは、
その持参のカバンや、ハンドバッグや子供のはいている
運動靴の質のよさの点で、何となくブルジョア風に見え
る。実際は上田夫人はゴム草履ばきだったし、田辺夫人
は木綿のスラックス姿で、皆かざりけなく、感じよかっ
た。
 私の他に単身参加は、もともと子供のいない石原夫人
だけだった。あとは皆、一人か二人ずつの、学齢に達し
ていないか、せいぜい小学校4、5年までの子供を連れ
ていた。中に一人だけ、母親はなし、子供だけ連れられ
て来ているのがいた。皆は、彼のことを太郎ちゃんと呼
んでいた。
「太郎ちゃんのパパは、クアラルンプールへ御出張中に
自動車事故に会われましてね。お命に別条はなかったん
ですけど奥さまがあちらに行っていらっしゃって、女中
さんだけに預けていらしたもんですから、皆でお連れし
ましたの」
 上田夫人は言った。太郎は、小学校3年だったが、5
年生の上田夫人の娘ぐらいの大きさがあった。彼はむっ
つりして殆ど口もきかなかった。
 車はフォルクスワーゲンのマイクロバスで、動き出す
と、間もなく子供たちは、ドレミの歌などを合唱した。
おかしなもので、彼らは日本語の歌詞を知らないのだっ
た。彼らは、タイのテレビで覚えた通りに、それを英語
で歌った。私を誘ってくれた戸倉夫人の、下の娘は、ま
だ日本人小学校附属の幼稚園に入れる年ではなく、ピー
ターパンという外人経営の3年保育の幼稚園に通ってい
たので、皆が笑い出すほど立派なしゃれた発音で歌うの
だった。
 しかし、やがて皆が、太郎に対してはいささか深刻な
不安と危惧を持っていることがわかった。太郎は集団で
遊ばせるという訳にはいかない子供だったのである。彼
はドレミの歌も歌わず、他の子の持っていた紙風船にも
何の興味も示さなかった。
 その代りに彼は突然、窓から上半身をのり出したりし
た。上田夫人が悲鳴をあげて、それをとめた。パタヤま
での道は、かなり車通りの多い道で、片側一車線ずつで
ある。上半身をのり出したとたんに、後からの追越車や、
対面車輌と、どのような偶然でふれないとも限らないの
であった。
 途中、シラチャアという町で、私たちは早目の昼食を
とることにした。道に面した、古い汚い食堂の魚料理が
有名なのである。最もタイ通の上田夫人が、まながつお
の揚物、蝦と半ぺんのスープ、タピオカの粉をいれて焼
いたカキのオムレツ、焼飯、などを注文してくれ、あと
はめいめいコカコーラとか、オーリエンと呼ばれるタイ
風アイス・コーヒーなどを頼んだ。そこでも威力を発揮
したのは太郎であった。子供たちの殆どは、旅行に興奮
してしまっていて、早くも浮輪をふくらませたり、水中
眼鏡をとりっこしたりするばかりだった。母親たちは食
べさせるのに苦労して、「おやつまでにお腹がへっても
知りませんよ」などとおどしていた。けれど太郎だけは
黙々として食べた。焼飯を3ばいもおかわりし、蝦の天
ぷらの4分の1を、1人で食べてしまった。数がなかっ
たので、太郎ちゃんのおかげで、蝦天の当らない人まで
でた。
 パタヤのニッパ・ロッジというホテルは典型的な、外
人専用の宿である。ロビーは、寒さというものの味を知
らない土地だけに、吹きさらしの構造で、すぐ先に、ア
クアマリンの海が、白砂に躍っていた。海岸には、ビー
チパラソル代りのあずまやが立てられていたが、人々は、
鮫を怖れてか、もっぱら、庭先のプールで泳いでいた。
 部屋割が決り、私がともかく荷物だけおいてふらりと
外へ出ると、もう、黄色い海水パンツをはいて、プール
の方へ走って行く太郎の姿が見えた。声をかける間もな
く、彼はいきなり、プールの縁にかけ上ると、そのまま、
脚の方からざぶんと飛びこんだ。
 私が、ぞっとするような恐怖を味わったのはその時で
あった。責任者のいない上に行動的なこの子供の安全を
保つには、どれほどの注意がいるか。私は反射的に、プ
ールの縁から姿を消した太郎を確認するためにかけ出し
た。太郎は、顔中水だらけになって浮いていた。浮輪を
腰にはめてはいたのだし、あたりには、人目がいっぱい
あるので、かりに太郎が溺れかけても見殺しにされるこ
とはないかも知れない。間もなく上田夫人が、海水着に
着換えて走って来たので、私は見張りを交替して、部屋
に戻った。
 海風はあったが、やはり凄まじい光景の午後であった。
体を陽にやくことの好きなアメリカ人達も、さすがに、
陽かげで、眠ったり本を読んだりしていた。戸倉夫人は、
時々、子供たちを強制的に水からあげて、ビーチパラソ
ルの下で休ませた。体が冷えるのではなく、陽ざしがき
ついので、水を飲ませなければならなかったのだ。
 子供たちは、上って来てコカコーラやジュースを飲み、
日本のおせんべいなどにを大切そうに食べたが、太郎は
それらのもには見向きもしなかった。大人たちがちょっ
と目を放しているすきに、彼は再び走って行って、あっ
という間に、初めと同じように脚の方から水に飛びこん
だ。今度は浮輪を忘れて行ったので、彼は水の中でアッ
プアップした。泳ぎの達者な石原夫人が、とびこんで彼
をひき戻した。太郎に浮輪を与え、初めて皆はほっとし
たが、上田夫人の眼からは、まだ恐怖の色が去らなかっ
た。
 夕方になるまで、皆は太郎にひきまわされた。
 というより、太郎のエネルギーがあまりにも大きいの
で、他の子供たちは機先を制されてあばれそびれていた
という方が正しかった。
 夕食の時、太郎はあまり食べなかった。食べるより眠
そうであった。子供たちが眠ってから、皆で喋りましょ
う、ということになっていたのに、太郎を寝かせると、
上田夫人を初め、私までがっくりしてしまった。

 翌朝、6時に目が覚めてみると、もう太郎の姿がなく、
驚いた上田夫人が、気狂いのようになってかけ出して行
ってみると、ひとりで波打際から海へ石を投げていたそ
うで、朝食の席では、夫人の顔にありありと疲労の色が
読みとれた。
「あなた、引き受けていらして大変だったわね」
 田辺夫人の言葉は、いささか残酷に聞えた。田辺夫人
も上田夫人も戸倉夫人も、すべて夫たちは同じ商社に勤
めており、同僚の家庭から太郎を預って来るには、皆に
計って、いわば、同等の危険負担をするつもりだったろ
うに、近所に住んでいたために、言い出しっぺになって
いた上田夫人は、そんな形で、田辺夫人に責任をおしつ
けられたのである。
 9時には、沖の珊瑚礁の島まで連れてってくれる船が
来た。ホテルが用意したサンドイッチも積みこまれる。
日は又、じいじりと照らし始める時間だった。母親たち
は口々に子供を呼び集めて、船へ乗せた。誰かが帽子を
とばした。太郎は浜へゴム草履を脱ぎすてたまま走って
来て、船の木梯子をとじのぼった。
「太郎ちゃん、ゴム草履を捨てて行ってどうするのよ」
 気づいた上田夫人が言ったが、太郎が見向きもしない
ので、しかたなく、彼女は砂の上を百メートルばかり歩
いて、それを拾いに行った。上田夫人が戻るや否や、船
上で、戸倉夫人の娘の声があがった。
「ママ、太郎ちゃんが足から血、出してる」
 太郎は小さな踏みぬきをやったらしかった。
「何でもない、痛くない」
 太郎が言い張ったが、上田夫人は、つかまえて薬を塗
ろうとした。すると太郎は、上田夫人の手を蹴って、舳
の方へかけ出した。
「大丈夫でしょう。海の水は殺菌作用があるから」
 誰かが言った。すると、誰もが、みんなその気になっ
てしまった。口に出す出さないは別として誰もが、そう
思いたがっていたのだった。
 それに誰もがもはやこの子供を十分に従わせる気力を
失っていた。なぜか日本の涼風の中でならその元気もあ
りそうに思えた。しかしその時晴れ上った空は、巨大な
凸レンズのように太陽の光を集めて、私たちを焼いてい
た。私たちの思考力も自制力も半減していた。それが熱
帯であった。その何も考えなくなることが、熱帯の倫理
というべきかも知れなかった。
 太郎がその後間もなく、破傷風で死んだことを日本へ
帰って来てから聞いた時の私の衝撃は大きかった。あの
時の傷がもとだったかも知れないという時期に発病して
おり、上田夫人は半狂乱になったとも知らせてくれた人
があった。
 しかし私に言わせると、それは誰の責任でもないので
ある。彼を殺したのは、熱帯そのものだったと言うより
他ないのである。
 死に向っていつもかけ出していた少年。太郎はそんな
子だった。恐怖もなく、思うままに生きて、彼は彼なり
にしあわせだったかも知れない、と私は思うほかなかっ
た。
 
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乾いた花
  小説などを書いていると、時々、自分の生涯を本にし
てくれ、という手紙を貰う。誰でも自分の生涯が人並み
はずれたものだと思う癖はあるが、こういう手紙の差出
人の体験は平凡は平凡なりに、特異なものならば特異な
ものなりに、やはり書くに価するものなのでだろう。
 しかし「話」があれば書けるか、というと必ずしもそ
うはいかない。小説家は真実を書くために、事実をめち
ゃくちゃに並べかえ歪めてしまう。書かれる側は、遊園
地などで見かける凸凹の鏡にうつる不恰好な己れが姿を
見るように、あきれ返るか腹を立てるか、いずれにせよ
自分の生涯を小説に書いてくれなどと依頼したことを、
深く後悔するであろう。
 いつの間にか私はそういう手紙をもらうと、黙って返
事を出さないことにしてしまった。
 浅井広光という人から、妻のことを書いてもらいたい
という手紙を受け取った時も同様だった。住所は伊豆の
下田である。「私は妻に、さまざまの苦しみをかけて来
ました。けれど、妻は今日まで、実によく、私を励まし
て来てくれました。私たち夫婦は、今、限りなくしあわ
せです。小説は、不幸な話しかお書きにならないもので
しょうか。不幸な話しか読者の心をうたないのですか。
そうしたら、世間というものは実に愚劣です。彼らは他
人の不幸を楽しむことによって、辛うじて、自分のしあ
わせを確かめているのです。彼らは、私たちのような、
信頼しあった夫婦が、幸福に暮らしていることに、嫉妬
しているのです」
 私が、この手紙をそのまま捨ててしまわなかったのは、
二つの点で、この手紙が変っていたからである。
 一つはこの差出人が男であり、しかも、妻のことを書
いてくれ、と頼んでいることであった。ふつう身上話を
したがるのは女が多い。妻のことを書いてくれ、という
のは珍しかった。
 第二は、不幸しか小説のテーマにはならないのかとこ
の手紙の主が、私にくってかかった、その態度であった。
不幸な話で人をうつことはなるほど優しい。しかし私が、
ひっかかったのは、そのような表向きの論理ではなかっ
た。
 私はこの浅井広光夫妻が、なぜか彼の言うほどに幸福
だとは思えなかったのである。それは、私の第六感のよ
うなものであった。

 下田にでかけることになったのは、それから半年ほど
経ってからだったが、その日程が決まってからも、私は、
浅井広光氏のことなど思い出しもしなかった。浅井氏の
投書は変っていたから、私はそのことを覚えていなけれ
ばならないような奇妙な義務感を感じていたものの、私
の本心は、そのことを忘れたがっており、事実、決して
この人物に会うことはないだろうと、初めから心に決め
てかかっていたのであろう。
 しかし、下田での予定の仕事が終ってしまうと、私は
美しい景色の中で手持ち無沙汰になった。私はいつも言
うように「生活」のない風景の中にいると、どうにも退
屈でたまらなくなるのである。
 私は突然、浅井広光という名前を思い出した。彼は下
田のどこかに住んでいる筈だ。ためしに電話番号簿を開
けてみると、その名前がちゃんとのっている。電話をか
けてみなければならない、と私は感じた。それで、この
夫妻がもう留守ででもあれば、私は今日以後、はっきり
とあの手紙のことを頭からはなすことができる。
 ところが、浅井広光氏はいたのである。電話に最初に
出たのは、彼であった。低い、非常にひかえ目な口調で、
彼は私を今すぐにでも待っているといい、タクシーで来
る道順も教えてくれた。
「浅井さんのところへ行くのかね」
 タクシーの運転手は、私の行先をきくと、好奇心に満
ちた答え方をした。
「浅井さんていうのは、何をしている人ですか」
「お客さんは知らないのかね。何で熱川の方とかに温泉
の権利を持ってるとかいう話でね。別に何もしていない
人じゃないかな」
 私は微かな不安を覚えた。私は運転手に、浅井家の門
の前で必ず待っていてくれるように頼み、1時間経って
もでて来なかったら更に玄関のベルを鳴らして催促して
欲しい、と頼んだ。
「何か、あまり評判のよくない人なんですか」
「いやあ、別に、悪いことは何もないんだけどもね。只、
めったに人づきあいしない変人だから誰も本当のことは
よくわからないんじゃないかね」
 その時タクシーは小松の林が、そのまま生垣のように
なっている古い日本風の邸の前に停った。

 浅井広光氏は、かなり背の高い、痩せた55、6歳に
見える男で、玄関につっ立って私を迎えた。白いYシャ
ツの襟を少しだけ、茶色い裾幅の広い古ズボンもくたく
たで、彼があまりおしゃれな男でないということだけは、
容易に想像がついた。
「どうぞ、どうぞ、お入り下さい。よくいらっしゃって
下さいました」
 通されてみると日本風と見えた邸の一部には、古いモ
ルタル塗りの西洋館があり、すべて古びたままの調度が
――その中のソファなどは、もう布が破れかかっていた
が――そのまま、壊れものを大切にとってあるという感
じで置かれているのだった。
「今日は、あいにくと妻がでかけておりまして」
 この家の中の何となく生気のない感じはその故(せい)
だったのか、と私はほっと思い当るような気がした。事
実、マントルピースの上の古い時計も停っていた。もっ
とも私は、時計が壊れていることにはわざと気がつかな
いようなふりをしていた。
「女房は。お目にかかれなくて、本当に残念がると思い
ます。私とは12も年が違って、まだ若いものですから、
いつもころころとよく笑いましてね。結婚したのは終戦
直後で、私は結核がやっと少しよくなりかけだったもの
ですから、まあ、半失業者のようなものです。そんなと
ころへよく来てくれたと思いますが……まあ、詳しいこ
とは、妻から、お聞き下さった方がいいですな」
 彼はそこで言葉を切ってから、神経質に言いそえた。
「私は生活無能力者なんです。この家も、父の別荘でし
たし、私が病気をしていても食えるように、10年ほど
前、熱川の方に温泉の源泉を1本掘ってくれたのも、父
でしてね。この年になってまだ父の恩恵を当てにしてい
る私も情けないが……」
 彼はちょっと自信を失ったようだったが、やがて、気
をとりなおしたように言った。
「妻の部屋をごらんになりますか。私もめったにしか入
らないのですが、ごらん頂くと、彼女の性格もよくおわ
かりと思いますよ」
 留守の人の部屋に入っていいのだろうか。しかし、も
ともと浅井一家は、私に自分たち夫婦の心をさらそうと
して来ているのだった。私は根太の弛みかかった、古い
廊下を浅井氏の後に従って歩き、家の左側の翼に出た。
「ここです。どうぞお入り下さい」
 浅井氏は襖を開けながら、ほの暗い電燈をつけた。真
昼間にもか拘わらず雨戸は開けてなかったのだ。
 部屋は十畳ばかりの和室だった。そこには異様なカビ
臭さと、よどんだ空気の匂いがあった。部屋の中には、
一組の蒲団が敷きっぱなしにしてあった。僅かに華やか
さをとどめた海老茶色の小紋の縮緬で作った掛布団には、
白いカバーがかかっていたがそのカバーはもはや微かな
飴色に変色していた。
 日本風の姿見をかねた鏡台の覆いは、半分あげられて、
化粧品の壜も三つ四つ並んでいたが、何故か、そこには、
女主人が生活しているという、幾分でもあたたかく、華
やいだ匂いはなかった。 
 私は文机の上に目を移し、その瞬間背筋に悪寒が走る
のを覚えた。机の上には小さな銅製の花瓶があり、そこ
に花がさしてあった。いや、かって花であったものの残
骸があった。それはさわれば今にもくずれ落ちそうな、
白骨のような白い枝と、茶色く乾ききってちぢこまった
草花の干からびた茎であった。
「こんな状態ででかけてしまっていまして……彼女は体
があまり丈夫でないもので、いつ帰って来ても寝られる
ようにしてあるんです」
 白い蒲団カバーが、茶色くなっているのは、それが乾
いた花と同じくらいの長い間、敷きっ放されているから
だ。この部屋の主は、すでに長い間、外出中なのだ。
 私は戸口から身をひいた。
「今度、奥さまがいらっしゃる時に又、伺います」
 私はやっとそれだけ言った。
「そうですか」
 異様な部屋から半身を逃れた出た時、私は、廊下で心
配顔に待っている中年の家政婦らしい人の顔を見た。

「お驚きになりましたでしょう」
 家政婦は、いとまを告げて早々に浅井家の玄関を辞し
た私を門の所まで送って来ながら小声で言った。
「奥様は、6年前に従兄さんと自動車に乗っていられて、
崖から落ちて亡くなったんです。その日以来、旦那さま
は、頭が変になられましてね。あの部屋を、奥さまが亡
くなられた日のままにとっておこうとなさってるんです。
ですから、あの部屋はもう何年も、誰も入ったことはな
いんです」
 南伊豆の陽ざしは、そうした暗い話を聞くのに違和感
を覚えるほど明るかった。
「奥さまは、本当は旦那さまがお嫌いでね。その従兄さ
んをお好きだったんですけれど、幸いにも、旦那さまは、
狂っておしまいになって、そのことをお忘れになってい
るから、おしあわせですよ」
 狂ったから浅井広光は妻の不貞を忘れたのではない。
自分に自信のない男は、唯一の心の拠りどころだった妻
の姦通を許すためには、狂うほかはなかったのかも知れ
ない。私はそんなふうに思いながら、陽の中を歩いてい
たのだった。

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飛騨の若妻
 名古屋。
 正直なところ、遊びに行くところではない、という気
がする。きしめんや鶏や、おいしい味はあるけれど、あ
のだだっぴろい濃尾平野は、ひらけるだけ人為的にひら
けてしまい、今やどこもかしこも工場また工場である。
空はスモッグに曇り、人々はしゃにむに働いている。名
古屋人の生活は、堅実で名高い。
 この町で、私は、今も忘れられない、1人の気性のは
げしい美少女にめぐり会ったのだ。
 彼女は、名古屋駅前の地下の名店街にある或る洋菓子
屋の女店員だった。名前は安藤フサという。老女のよう
な名前だが、まだ19歳の娘であった。
 どうして洋菓子店の、一女店員の名前や年齢を知るこ
ととなったかはあとで詳しく述べる。
 私はその時、名古屋滞在のの最後の半日を、熱田神宮
の傍に住む高校時代の友人を訪ねることにした。友人は
今時珍しい6人の子持である。女女女男男男と続いてい
て、その日常生活の賑やかさは、級友が顔を合わせる度
に語り草になっていた。
 忙しければ、じゃまをするのも悪い、と思いながら電
話をかけてみると、「来てよ、ぜひ来て!」と声の若さ
も昔と変らない。もともと会いたかったのだから、すぐ
さま訪ねて行く約束をして、私は手土産のお菓子を買う
ために、地下街へ下りて行ったのであった。
 泊っていた駅前のホテルで店の名前をきいて行ったの
で、どこで買おうか迷わずにすんだ。本店はいずれどこ
か町中にあるのだろうが、Lという名の有名な洋菓子店
である。いやその方がケンカにならなくていいに決って
いた。同じものを子供達の分が六つ、親が二つ、計8個
買えばいいのだ。
 その時、白い制服を着た店員の娘の目許の涼しさと、
にこりともしない表情が印象に残っただけで、私は彼女
の顔をしかと見覚えたわけではない。只、どことなく自
分をしっかり失うまいとしているような、特異な雰囲気
をもった娘であった。私は8個入りの箱を作ってもらう
とすぐ店を出たのだが後でわかったところでは、5百円
札を出して、もらうべき20円のおつりを忘れてでてし
まったらしい。その店員の娘は私にお釣りを出し終わる
と別のお客に呼ばれて、そちらにかかりきりになり、後
でふと気がついてみると、丸いプラスチックのお盆の上
に出された20円はそのままになっていて、もう私の姿
は見えなかった、という次第だった。
 私が買物の時に放心するのは、何もこの時ばかりでは
ないのである。買ったものを置いて来る字さえある。最
もバツが悪いのは、お金を払わずに品物だけ持って店を
出そうになる時だ。
 その日、私は、洋菓子を買い、お金を払うところまで
は覚えていたのだから、お釣りをもらわなかったことぐ
らいまだしも上出来といわねばならない。
 友人に会い、笑い、食べ、ひとの子供なのに自分の子
と同じようにどなり、賑やかとも忙しいとも言いようの
ない時間を過すとその夕、蒲郡に出て、数日後に私は東
京へ帰ってきた。
 すると、私の後を追うようにして、駅前名店街L洋菓
子店内、安藤フサという差出人の名前の現金書留の封筒
が送られて来たのである。
 宛名人はまちがいなく私であった。封を開けて見て、
中から10円玉が二つ転がり出た時、私は狐につままれ
たような気持になった。
 中には、しっかりした文字と文章の手紙が入っていた。
自分はLの売り子であること、20円のお釣りを渡し損
(そこな)ったこと。お客さまが(つまり私のこと)ちょっ
と変った帆船模様の和服を着ていたので店の仲間が《あ
の人が駅前のホテル専用エレベーターの前にいたのを見
かけたから、きっとホテルにきけばわかる》と言ったこ
と、ホテルへ行ってみたら、帆船模様の和服を着たお客
さんはもう荷物を持ってホテルをひきあげて立って行っ
たのだということ、しかし支配人が事情をきいて住所を
教えてくれたこと、などが、やや愛想の悪いしかし、充
分に意を尽した文章で書かれていた。
「20円くらい切手でお送りしたら、という人もいます
けれど、お客さまにお返しすべきだったのは現金の20
円なのですから、そうさせて頂かないと私は気がすみま
せんでした。おかしな娘だとお思いでしょうが、私には、
そうせずにはいられない理由もあります。とにかく、無
事にお釣りがお手許に届くように祈っています。 安藤
フサ」
 私はその娘の顔を思い返した。笑わない娘、という感
じが強く残っている。
 彼女の表情には、終始一貫して、どこか悲しげな、心
楽しまぬものがあった。その感じはまちがっていなかっ
たらしい。貰った手紙の文章にも、その暗さはよくあら
われている。
 中身の金額よりもはるかに多い郵便料を彼女に払わせ
たこともすまなかったし、彼女の度はずれた潔癖さと責
任感は何によってきたったものだろうという好奇心も手
伝って、私は丁寧な礼状を書いた。勿論、なぜ20円く
らいのお金にそれほどこだわっているのかきいてやるこ
とも忘れなかった。
 しかし返事はそのまま来なかったので、私は間もなく
そんな事件のあったことさえ忘れてしまった。若い娘は
何でも意味ありげに思うことが好きだし、改まって私か
ら何故だ、などときかれたら返事に窮するのが当り前だ
と私は心のどこかで考えていたのだろう。
 しかし半年ばかり経った頃、私は突然、再び安藤フサ
から手紙を受けとったぼだった。
「長らくごぶさた致しましたが、その後もお元気でお書
きになっていられるのを見て嬉しく思います。お手紙さ
しあげる気になったのは、実は、先日、あなたが伊勢湾
台風の時にも偶然、名古屋におられて(大阪からの帰り、
嵐の中をついて名古屋に入った最後の汽車に乗っておら
れたということでしたね)駅前のあのホテルで、風速7
5メートルの風というものを実際にごらんになった話を
読んだからです」
 彼女の言う通りだった。私はあの年、放送の仕事で大
阪に行き、皆にとめられるのもきかずに東京行きの汽車
に乗りこみ、嵐を逃げきれることを祈りながら、ついに
名古屋で汽車が動かなくなるという目に会ったのだった。
汽車が滝壷のような駅のホームに辿りつくなり、私は荷
物をもってとび降り、停電で一瞬真暗闇になった地下道
伝いに駅前のホテルに逃げこんだ。私は逃げ足の早い臆
病者なのである。ホテルのビルは新聞社の持っているも
ので、自家発電装置も備わって、そのおかげで私はそれ
ほどに嵐がひどいとも知らず、人間が立って歩けない瞬
間風速75の風を見たのだった。
「翌日、駅前のパン屋に長蛇の列ができ、それほど惨状
がひどいと思わなかったので、名古屋の人は何てパン好
きなのだろうと思ったというお話を読んで、私はこの手
紙を書く気になりました。
 おっしゃるように、あの翌朝、空はからりと晴れまし
たから、自家発電のある駅前のビルにいられた旅行者に
は電気も切れたまま市内の生活が半身不随になってしま
っていることなどはわからなかったでしょう。私たちの
一家は幸いに無事でした。私の家は父母と私と弟の5人
暮しです。
 祖父はその午後、急に、俺は一もうけする、と言い出
しました。祖父は昔から、殆ど定職を持たなかった人で、
母はそういう舅(しゅうと)をひどく嫌っていました。
 祖父はそれから知人のパン店に行き、水に漬った罹災
者にやるのだからと言って、自転車の荷台につけられる
だけのパンを山のように買いこみました。それから知り
合いの船宿へ行って、そこの釣仲間の隠居をときふせ、
むりやり小舟を工面させたのです。
 祖父はそのパンを一包200円ずつで、水に漬ったま
まの屋根の上で救いを求めている人に売りました。初め
のいくつかは調子よく売れました。人救けや、と祖父は
笑ったそうです。
 しかし暫くして、1人が騒ぎたてました。あまりに暴
利だというのです。ひとりが祖父をおどすために、舟ば
たをちょっと脚でおしました。すると水が入って来て、
商品のパンが濡れたので、祖父はかっとなり、相手にと
びかかろうとした瞬間に濁水の中に頭から落ちこみまし
た。
 あたりにいた人は探さないではなかった。しかし、多
くの人は心の中で、天罰テキメンと思ったのでしょう。
私にもその場の光景が目に見えるようです。
 祖父は、人々の怒りにふれて間接的に殺されたのです。
40円のパンを200円で売ろうとしたために。
 これだけ申しあげれば、私が20円のお金にも神経質
になる理由がおわかり頂けると思います。
 祖父の死が噂にのぼって以来、私たち一家は、周囲の
人々の白い眼にさらされるようになりました。母は時々
こぼします。あの老人は死ぬ時まで、一家に迷惑をかけ
て行ったというのです。父は気の弱い人で、おろおろし
てますます口をきかなくなり、深酒をするようになりま
した。
 しかし私だけは、たとえ何と言われようと自分を失わ
ずに正しく生きよう、と決心したのです。
 私は来月、結婚することになりました。飛騨の高山の
農家に嫁ぎます。彼とは、名古屋でコーラスの大会がひ
らかれた時会いました。彼はすべてを知って私を受け入
れてくれようとしています。
 飛騨は美しい所です。私の家においで下さいとは図々
しくて言えませんが、もし飛騨を旅行なさることがあっ
たら、この里のどこかに、みじめな青春をのりこえてし
あわせな若妻になった女のいることを思い出して頂けた
ら幸いです。私は19歳です。 安藤フサ」
 住所はなかった。只、今度の手紙には文面に輝きがあ
り、その底からしあわせを掴もうとしている19歳の勝
気な娘の優しいほほえみが覗いて見えるようであった。

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滝の呼び声
 京の夜というと、私は錦小路の裏手に当る花屋という
小さな宿のことをいつでも思い出してしまうのだ。
 その宿は、陽の当らない露地裏にひっそりと暗い玄関
の三和土を見せている。部屋数は、七つか八つ、私の知
らない裏部屋がかりにあったとしても、せいぜいで十室
どまりであろう。
 京都公演のために来ている新劇の人々と泊り合せたこ
ともある。と言っても、どうもいわゆる俳優さんではな
いらしい。大道具か、照明さんか、衣裳部の人か、とに
かくいわゆる裏方さんの定宿らしい。鍵のかかる部屋な
んかないし、中には襖1枚で隣の部屋の客を物音から想
像するという、昔なつかしい気分にもひたれる。
 或る冬のことである。たまたま私の隣の部屋は、独り
旅らしい老人であった。時々、老人独特のしわぶきも聞
える。しかし、その物の喋り方といい、動作といい、慎
ましく好感がもてる。
 食事が運ばれて来る時だけ、女中さんと語る低い声が
聞えた。
「只今のお漬物、たいへん結構でしたよ」
「あら、そうですか」
「あれは、何でしょうか」
「高菜です」
「高菜?」
「ええ、ふつうの高菜なんですけど、只、うんとこまか
く切って、板前さん、味の素をかけていやはりましたわ」
 この宿のよさは、京の味でも何でももったいぶらない
ところだろう。しかし、あの老人はいったい、ひとりで、
何をしにこの商人宿ふうの旅館へ泊っているのだろう、
と私は訝しく思った。朝早いのでもない。夜もひとりで、
自室にこもっている日が多そうに思える。観光なら少し
せっせと歩きそうなものだし、商人なら、どことなく、
それらしい生々しさが感じられる筈だと思う。
 その夕、私は隣室の老人が、宿の丹前を慎ましく着て、
浴室の入口から出て来るのに会った。私は思わず軽く目
礼し、彼も会釈した。温厚で、物ぎれいな60代半ばに
みえる老人であった。私はそのまま玄関に出て行き、靴
をはきながら、女中さんに小声で尋ねた。
「あのお年寄、御常連ですか?」
「いえ、知り合いのお客さまの御紹介で今度初めておい
でになったんですよ」
「物見遊山、かしら」
「いいえ、何ですか、お寺に、お骨を収めにおみえにな
ったそうで」

 その次の日、私は昼の間中かけずり廻った。修学院の
傍に、会わねばならない日がおり、その帰りに欲ばって
三つばかりのお寺を歩いた。最後に、四条河原町の喫茶
店で、京都の新聞社に勤めている昔の友人に会い、彼が
どこか安くておいしいうちで御飯をごちそうしてくれる
ことになっていた。
 喫茶店は、「ティー・ポット」という名前で、丁度夕
食前だったこともあって、学生や、BGで賑っていた。
 新聞記者の友人はまだ来ていないらしい。私は約束よ
り15分も早く着いてしまったのだった。テーブルに着
いて、ふと気づくと、私の視線を自然にのばした所に、
花屋で同宿の老人が坐っている。はっとしたが、私の視
線を受けとめると、彼は一瞬ためらった末、ゆっくりと
歩を運んで私の傍までやって来た。
「お宿がご一緒でございましたな」
「はい」
「お連れさまをお待ちのところでしょうが、それまでお
隣のテーブルへ来させて頂いてもよろしいでしょうか」
「どうぞ、こちらへ、お気兼なく」
「疲れてしまいまして、ここで休もうと思ったのですが、
平生来なれない所へ来たもんですから、何となく、どう
したらいいかわからないような気持でいたところでした」
 老人らしくない、現実を直視しようという気構えが、
その言葉には感じられた。
「京都は、お仕事でいらっしゃいますか?」
 まさか女中さんから納骨の件をきいたともいえなかっ
た。
「いや、知人の納骨にまいりましてね。納骨と言いまし
ても、あなた、骨はないので若い娘の遺髪があるだけで
すが、それを母の骨の傍に葬ってやりたくて参ったんで
す」
「どうして、お骨がおありでないんですか?」
 私はおうむ返しに尋ねた。
「日光をご存じですか?」
 老人は訊き返した。
「いいえ、あんまりよくは」
「娘さんは例の華厳の滝にとびこんだんです。遺体はあ
がっていません。あがらないでしょうね。いつまでもそ
うして眠らせておいてあげるのがいいことかも知れない。
只、宿に簡単な遺書と遺髪がありました。髪だけ、お母
さんのところに帰して、と書いてあった。
 私は偶然その母親を知っていましたのでね。不幸な娘
でしてね、誰も、積極的に彼女の面倒を見てやろうとい
うものもいないらしいから、私がその役をかってでたわ
けです」

 初秋の午前中のことであった。こまかな霧雨が降って
いた。老人は華厳の滝を見る人々のために作られている
エレベーターを下り、トンネルを抜けた。飲物やフィル
ム、お土産品などを売っている売店の経営者の田中とい
う人に、彼が働いている温泉の組合の人事について相談
があった。田中氏とはいつも家で会うのだが、その日は
シーズン中でお客が多いので、雨にも拘らず滝壷の店へ
でかけてしまったと、電話できいたので、老人はここま
で田中氏を追って来たのだった。
 2人の老人は、店の奥の小さな木の椅子に坐って、事
務的なことを話し合った。雨でやや客足が落ちているの
で。店の女の子が熱い茶をいれてくれた。
 老人が茶を飲み干し、湯呑を卓の上に戻そうとした時
である。彼の背筋を、悪寒のようなものが走った。
「日が落ちたぞ」
 と彼は言った。田中氏は平然としていた。
「まさか」
「いや、今、ほんの一瞬、滝の音が変った」
「気の故だろう」
 返事のしようはなかった。雨と雲の切れっぱしとで、
滝壷の周辺はもうもうと煙っている。かりに人が落ちた
としても、見える訳はなかった。2人は話を続け、老人
は間もなく、茶店を辞した。家へ帰るとおっかけるよう
に田中老人から電話があった。
「いや、まいったねえ。あんたの言った通りだった。今、
警察から調べがあったよ」
 落ち口のそばにいた青年が、自分のすぐ近くから幻の
ように、身をなげた女があったのを見て、急いで地元の
警察に通報したのだった。その頃、湯本の旅館でも、前
夜から泊っていた客の部屋を掃除していた女中が、本の
間に隠すようにはさんであった遺書という封筒をあやま
って取り落し、騒ぎ出していた。
「私は、若い頃、滝壷の傍で10年以上働いていたこと
があるんですよ。10年間、来る日も来る日も華厳の声
を聞きました。水の多い時も枯れかけている時も、春も
夏も、凍って静かになった冬の日も、どんな日の華厳の
音も耳にこびりついているんですよ。それが一瞬、乱れ
るときがある。10年間に5回、私はその音の乱れを聞
きました。10年間に私は5人が飛びこむときに居合せ
た訳だ。ですから今聞いても滝の乱れる時ははっとわか
る」
 私は、恐ろしさに身を固くして聞いていた。
「あればかりははっと思った時はもう遅いのですからな。
あれほど予告もせずに現実と結果だけ告げて来る音はあ
りません。しかし今度は、そう言ってすまなかった。
 死にましたのは、菊池敦子という19歳の娘です。私
はその母親を知っていたんです。若い頃、私が高嶺の花
のように見ていた芸者屋の娘でした。私の初恋の女かも
しれませんですな」
 老人は穏やかな微笑を浮べた。
「菊地敦子は、その女の2度目の結婚によって生れた娘
です。私は、もうずっと前に、亡くなった家内と結婚し
ていましたが、その女のことだけは、いつも耳にしてい
ました。もっとも、もう、恋なんてものじゃありません
ですがね。只なんとなく気になっていた。男の心の中に
は、いつも思い上がったところがありますな。自分と結
婚していれば、彼女もずっとしあわせになったのではな
いか、などと思う瞬間もありました。もっとも、そんな
ことを考えることだけだって滑稽でしたがね。私と暮ら
してみたところで、あなた、別に大してうだつはあがら
なかったです。
 しかし、女の方は、2度とも結婚生活がうまく行かな
かった。敦子という娘が生れて間もなく、彼女は夫と別
れて、どこか酒場へでていたとか言います。苦労して子
供だけは育てるつもりだったんでしょう。しかし、そん
なことに耐えられる女じゃなかった。終戦後で時代も悪
かったし間もなく、彼女は睡眠薬自殺を致しました。敦
子はそれで再び父親の方にひきとられたが、もうすぐ後
に継母は来ているし、義理の弟も生れている。そのうち
に実の父親も死んで彼女は居場所がなくなって、家を出
ていたそうです。自殺することを思いついたのは、母親
の真似をしたからでしょうね。何もしてやれなかったろ
くでなしの母親が、子供に死ぬことだけ教えて行ったよ
うな気がしましてね。私は――哀れに思いましたな。そ
れに、私は宿に残された敦子の写真を見ましたんです。
私が夢中だった頃の母親のおもかげが、その睫毛とこめ
かみのあたりの線に匂っていました。
 敦子の義理のおっ母さんも迷惑そうだったので、私が
亡き実母の知人だからと言って遺言を果すことをかって
でた訳ですが、もしかしたら、私はそんな因縁がなくと
も。これぐらいのことはしたかも知れないと思い始めて
おりますです。なぜと言って、老人は億劫がるものです
から、何かきっかけがありませんと、京都を見る折もあ
りませんし、それに、第一、あの子が死ぬ瞬間、その呼
び声を聞いたのは私だけだったんですからね」

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星との語らい
 パーティのあったホテルの玄関を出る時、目の前に、
先刻から見なれたミンクのストールを肩にはおり、葡萄
酒色の帽子をかぶった老女が、踵(かかと)の太い靴をは
いて、ゆっくり歩いているのを見て、私は心のためらい
を覚えた。
 その老女のことを、私は先刻から気にしていたのであ
る。パーティと言っても、西欧人のやるような個人的な
社交の場ではない。私たちが出るパーティは、出版記念
会とか、「○○さんを励ます会」とか、いう名目をもっ
た集まりであって、ミンクの女などは、服装からして否
(いや)でも目立つ存在なのである。
 彼女はそのパーティの中でも、知人が少なそうに見え
た。たまに高齢の男たちが、話相手になってやっていた
が、年とった男だって、恐らく、若い娘たちと喋りたい
に違いない。その席には、こういう会の慣例で、銀座の
バーのママさんやホステスたちが来ていたから、お客た
ちは、ミンクの老女よりももっと気軽に喋る相手にはこ
と欠かなかったのである。
 しかし、私は彼女が気になってならなかったし、気の
せいか、彼女の方でも、時折、私の方をじっと見つめて
いるような気がしていた。そして私はその度に、卑怯に
も視線をそらせたが、パーティが終る頃までに、私は彼
女のことを、それとなく、聞き出していたのだった。
「ほう、あんたの年でも、彼女に会ったことがなかった
かね」
 或る批評家が言った。
「彼女は、熊田トキと言いましてね。婦人記者の草わけ
ですよ。平塚らいてう女史のの信奉者でね、青踏社運動
に加って、戦前長いことパリにもいたんだ。今でいうと、
パリ支局だけど、まあ、どれだけの仕事をしたかどうか
はわかりませんがね」
「結婚なさらなかったんですか」
「まあ、実質的なのは知りませんけど、正式の貰い手は
ああいう人だからなかったみたいだな」
 私はその言葉の中に、軽い男の意地悪さを感じた。今
の熊田トキは確かに、「嫁の貰い手」もないかも知れな
い。彼女は70近くになっていりだろう。背中が多少曲
り、肩の骨が四角く張っていて、そこへ又、いかにも老
人くさく見える丸いカーヴをつけて仕立てたストールを
かけている。しかし、若い活発な時代の熊田トキが女性
的魅力に欠けていたと判断することは他人の僭越なので
ある。
 それはクリスマスを後3日に控えた12月22日のし
かも土曜日の夜のことであった。その年は、クリスマス
も運が悪いと言われていた。クリスマス・イヴが月曜日
に当る。宗教を離れたクリスマスとしては、イヴが土曜
日に当るのことが願わしいのであろう。
  玄関を出た時、私は、雨が降り出しているのに気づい
た。気温はそのせいか、高くなって来ている。しかし、
玄関口は時ならぬ雨のために、ひどい混雑であった。赤
電話には人が群がっている。自分の車が車庫から呼び出
されて来るのを待つ人々も普段の倍も時間がかかるのに
じれていたし、タクシーに乗ろうとする人は、瞬く間に
長い列を作った。
 私は反射的に、熊田トキの方を見た。彼女は、脚をや
や開いて、仁王立ちになり雨を見ていた。動揺している
らしくもない。しかし咄嗟にタクシーの列に並ぶだけの
判断もつかないらしく、彼女はかなり長い間、放心した
ように雨を見つめているのだった。
「ひどく降ってまいりましたね」
 私は後から熊田トキに声をかけた。
「ほんとうですねぇ。コンクリートの建物の中にいると、
丸っきりわかりませんねぇ」
 若々しい温かい物の言い方である。
「お車、おあり、でしょうか」
 私はためらいがちに言った。
「いいえ、どうして帰ろうか考えていたところなんです。
地下鉄もたのしいし」
 私はその言葉にうたれた。
「よろしければ、私の車にお乗り頂いたら、と思ったん
ですけれど、地下鉄の方がおもしろいとお思いだったら、
お誘いすると悪いような気もします」
「いいえ、いいのよ。でもあなたはどちらへお帰り?」
「渋谷か目黒を通りまして西の方へ――」
「私、世田谷の上町なんです」
「じゃうちのすぐ近くです」
「ほんとう」
「はい」
「じゃ、決めました。乗せて頂くことに」
 素直な、少女のような愛らしい響きがあった。

 私は熊田トキを乗せて、暮の町を走り出した。雨と師
走の慌しさが重なって、町はいつもにない混み方である。
私は自分の名を名のり、熊田トキは私の作品を二、三読
んだことがあると言った。
「車に乗せて頂いてよかったわ。こうしてみると東京も
変ったわね」
 熊田トキはいきいきとした声で言った。
「今日は、クリスマス前の土曜日ですからこんなに混む
んだと思うんです。いつもこんなこともないんですけど」
 トキが地下鉄にしようかと言ったことを、私はまだ気
にしているのだった。途中まで地下鉄を使えば、トキは
今頃、もう家に帰り着いているかも知れなかった。
「混んでいるというのもいいことですよ。ひしひしと人
の気配がして」
 普段は広々として見える、青山通りもすさまじい車の
列だった。都心へ向う車は4列に並んでびっしりと道の
反対側に犇いており、こちら側は赤い尾灯の洪水のよう
に見えた。私は車のラジオのスイッチを入れた。すると、
私の知らないクリスマスの歌で、「今宵、天に集いて」
という曲が始まった。それは透明な悲しみに満ちたメロ
ディで、クリスマスの一切の狂おしさから、人間本来の
限りある生への自覚を呼びさますような静かな響きを持
っていた。
「本当に、この車の灯はみんなクリスマスのせいなんで
しょうね」
 熊田トキが言った。
「そう思います」
「あなたぐらいの年の方はまだあまり実感ないかも知れ
ませんけどね。私ぐらいの年になると、本当に手をとる
ように、昔のことを思い出すのよ」
 私は無言で頷(うなず)いていた。
「今日みたいに、きれいな車の灯の列を見ると、私なん
だか、昔のクリスマスのことを思い出すの。明るさから
言えば、今のほうがずっと明るいのよ。でもね、昔は楽
しいことがたくさんあったの」
「外国の生活がお長かったそうですね」
「ええ、まだ私も若かったから。これでも愛した人たち
がたくさんいるの。勿論、私だけが一方的に好きになっ
た人もいるのよ。でも、向うからも、愛してくれた人も
かなりいたの。私、美人じゃぁないから、私の顔に惚れ
てくれたんじゃないのよ。私が正直で、さばさばしてて、
気が休まるって言うの。私を見ていると生れっぱなしの
人間がいるみたいで、大切にしたくなるんですって。で
もね、それが皆うまくいかなかったの」
「どうしてですか」
「奥さんがあったり、なければ年下で、私が考えこんで
ているうちに、戦争になって、戦死したり。外人の場合
は。レジスタンスで死んだ人もあるのよ」
「そうですか」
「恋人ではなかったけれど、仲のよかった男の人たちも
いておもしろかったわ。淋しいなんて思ったこともなか
った。クリスマスもあちこちで過したのよ。ローザンヌ、
リミエ、マルセイユ、ウィーン。恋をしててもしてなく
ても、ああ、今年も私は、こんな形で生きていた、って
しみじみ思うようなことばかりだったの。歌を歌ったり、
恐ろしく寒かったり、雪の中を汽車で走り続けていたり。
そういう時に、いつも優しい人たちが身のまわりにいた
のよ。通りすがりの人もいれて」
 車は続けてクリスマスの歌をひそやかに奏(かな)でな
がら、僅かに進んだり、すぐ又停まったりした。
「でも、そういう人たちの、殆どが、もう死んでしまっ
ているか、生きていても死にかかっているかのどちらか
なの。今日は星は見えないけど、去年の、クリスマスの
晩は、実に星がきれいでしたよ。私は海の傍のホテルに
いたんですけど、その時、昔、私を愛してくれた人たち
が一人一人星になってるような気がしたの。《あ、今も
う、私の知り合いは、地上(ここ)より天上(あそこ)の方
に多いんだな》って思いましたよ。その時、私ね、とて
も嬉しかったの。死んだら、あの人たちに、又会えると
思ったから。そしたら、早く死にたいと思いましたよ。
あなたも、今にそんな気持ちになる時があるのよ。そう
すれば、死なんて、怖いものでも何でもないと思うでし
ょう」
 私は灯の中を走り続けた。町中の灯は雨に濡れた路面
に映えて倍の輝きを見せているのだった。
「今は、どんなお仕事をしていらっしゃるんですか」
「翻訳をしているんですよ。フランスやアメリカの。1
月いっぱいで、又1冊終りますから、そうしたら遊びに
来て下さい」
 熊田トキの家は上町の、純日本風の家で、姪の夫婦が
母屋におり、彼女は外からは見えない裏の方に、小さな
別棟をたてて住んでいるという話だった。
「24日の夜には晴れて澄んだ空になりますように」
 私はそう言って、熊田トキを家の前で下ろした。
「ありがとう、あなたとは、この世で知り合いになるの
が遅すぎたような気もするけど」
 雨はやんでいた。熊田トキの少女のような明るい声が
私の車の中に残った。
 今年のクリスマス・イヴは晴れるだろうか。
 熊田トキは未だに、健在である。

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