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あおぞら


あなたってほんとはどんな方かしら!!!

 『あおぞら』宮嶋康彦  
 あの人あの町あのときの風
 情報センター

 写真家・宮嶋康彦さんの写真と文とで構成された
 小型の青い美しい本である。
 是非、お手にとられて写真も見てほしいです。
 ここでは一部をお目にかけましょう。


   あおぞら――@
 
 パキスタンからやってきたという、ピエロの投げあげ
た赤いボールが、新宿の空へ吸い込まれていくかにみえ
て、また、白い手袋のピエロの手に落ちた。
 カラチの郊外の白砂の海岸で、数年まえ、ぼくはラク
ダに乗った。まっ青な空と藍に深い海を見た。ながく、
アフリカの荒れ地を旅したあとのことだった。そのため
か、海と空の光に照らしだされたあらゆるものが、朽ち
た船でさえ、みじみずしい生命に輝いてみえた。潮の匂
いをかぎながら、ぼくはフタコブラクダの背中で、熱く
静かに湧きあがるものを感じていた。心地よく。そして、
湧きあがるものの核心が、手をのばせばとどきそうな近
さに揺れているようにも感じた。
 ピエロは「オーケー」と叫んで、赤や青のボールを次
次に空へ放った。ピエロを囲んだ人々の視線がいっせい
にボールを追う。ボールといっしょに空が落ちてくる。
 アフリカの荒れ地の旅というのは、砂漠へ木を植える
人々に会いにいったこと。ほんとうに木が育つかどうか、
木を植える人たちにもわからない。くる人もくる人も乾
いた青空のもとで、不毛とも思える作業を続けていた。
 ピエロが帽子をもって人の輪をまわりはじめる。笑顔
で、深々と腰を折るピエロの黒い帽子へ、十代の娘たち
が恥ずかしそうに百円玉を投げ入れる。それからピエロ
は、アスファルトへひざまずいた。天をあおぎ、口をも
ごもご動かしたあと、コーラをひとくち飲んだ。そして
また「オーケー」と叫んで、赤いボールを空へ高く放り
投げた。ピエロを囲んだ人々が、いっせいに天を向く。
ボールの先へ築かれていく彼の故郷の空を見る。
 空の青が海に溶けこんだインド洋のへりで、あの日ぼ
くは、「空が青い」「空が青い」と心にくりかえしなが
ら、湧きあがるものと向きあっていた。歓喜と悲哀とが
ラクダに揺られてごちゃまぜになった感情。それはひと
つの感動といえるものだったように思う。
 桜が咲いた。花が空を気づかせてくれる。一九九一年。
この町はまだ青い。

 
 青空はときどき心地よく悲しい
 それは
 宇宙(そら)の普遍と人の流転のせいだ
 元気にやろう

   あおぞら――A  吹きに吹いた吹雪の翌朝。  まっ青に晴れあがった峠に立つと、深い谷あいに小さ な集落が新雪に埋れてあった。  峠をくだってその集落へはいると、「清津村」と書い てある。遠くでカラスがのどかにふた声ばかり鳴いた。 腰のまがった婆っちゃが、いかにも体をいたわるように、 ゆっくりした動作で玄関の雪をかき出していた。  庭さきのものほしざおの端にかんじきがふたつぶらさ がっている。  たあいのない世間話を婆っちゃは頭の姉さんかぶりの 手ぬぐいをとって、どうということもない問いかけに、 いちいち応えてくれては背を伸ばす。婆っちゃは爺っち ゃとふたり暮らしだ。  ふたつの、かんじきのとめ金がつるつる銀色に光って いる。使い込まれているのだな、と思う。  話し声にさそわれて、くらい家のなかから爺っちゃが 日なたへでてきた。ぼくへ、見知ったものへするように 軽い視線をおくり、まびしい顔をして空をあおいだ。し わくちゃの顔を空へ向けたまま「いい日和だの」と、八 二才とは思えないかん高い声をだした。すぐあとに。爺 っちゃのあとからヌッと顔だけをだした犬がぼくに吠え かかった。爺っちゃが「これっ」と叱る。婆っちゃはホ ッホ、ホッホと軍手の手で口をおさえて笑う。  カラスの鳴き声と犬一匹と、沢からひかれた融雪水の 道路をくだる音と、老夫婦に出会っただけの、静かすぎ る村だった。またいつ来るともしれない、いうなれば通 りすがりの村でしかなかった。  集落をでて、もと来た峠の道を登りながら婆っちゃに 聞きわすれたことに気付いた。かんじきのことである。 とめ金の輝く二足のかんじきを、老いすぎたふたりが、 どんなふうに使うのだろうということだ。  別れしなに爺っちゃが「こんどは夏にいいときに来て くんねえ」といった。「きっと来ますから」などと、か ら返事をしている自分を、もうひとりのぼくが傍らで聞 いていた。から返事のぼくの背中の青い空を、雲がすー っと隠していくような心地がした。それで、かんじきの ことを聞きわすれた。  峠へ登りつめて車をおりた。村を見返ると、白く輝く 深い谷の雪に埋れた婆っちゃと爺っちゃの家が、ぼくを、 しん、として見上げていた。
   あおぞら――B  夏の尾瀬で、はげしい雷雨にみまわれた。  ブナの木陰で雨の音に包まれていると、足もとへ、じ わじわと水溜まりがひろがっていった。  やがて通り雨は止んで雲はいき、水溜まりに青い空が ひろがっていく。  この星の創世期もそうであったろう。  何千年も降りつづいた雨が止み、この世にあらわれた 巨大な水溜まり、海は、はじめに青い空を映しだしたの だろう。
   あおぞら――C  西鹿児島の駅に十年ぶりにおりたつと、停留所にとま った路面電車のなかから、ひとり、晴れた空に描かれて いく飛行機雲を見ていた。ちかごろ、にぎやかな街の通 りで、ふと、空を見上げている人を、見かけることが多 くなった。おもえば、空の青を映す水のように、ひとは かって、それぞれの空をたたえていたものだ。
   あおぞら――D  朝鮮海峡を眼下に見おろす千俵蒔山の頂の草むらに寝 ころんで、トンビの飛翔をあきることなくながめていた。 だれもいない。ひそやかな風の音さえきこえてくる。夜 になれば、ユーラシア大陸の東端に突きでた、乳首のよ うな朝鮮半島の灯りが、この頂からよく見えるという。 夜まではまだだいぶ時間がある。  対馬にはトンビが多い。つくづくトンビの島だと思う。 視界のなかへスーッと入ってきては消え、視界の外で、 ひゃらるるる……と鳴いている。それの繰りかえしだ。 視野からはずれるトンビを追うこともしない。ほかには 何にもおこらない。  ただ、とらえようもない青に深く大きな空と、こうし て向きあっていると、きのうのこともおとといおこった ことも、生まれながらに背負わされた荷物の重みも、夢 のようにかき消えて、ふっと笑いがこみあげてくる。子 どものようにむじゃきになって、歌ともつかない唄を口 ずさんで拳をにぎりしめている。  すると、しあわせとかゴクラクとかテンゴクといった 花束をいっぱいくっつけた「せつなさ」がこみあげてき て、空もトンビも青ににじんで見えなくなっていった。
   あおぞら――E      学生らしい男の      箸が音をたてて床へおちた。      そとは雨が降っていた。       駅前の食堂ではたらく      厚いめがねと白いエプロンの      まだ髪も皮膚もやわらかな      娘の      笑顔と箸がもういちど男の      テーブルへならんだ。      娘へ        恋は      こんなふうにおとずれるのか。      雨雲の向こうの      きっと青い空をおもいながら      旅の       オムライスをたべおえた。
   あおぞら――F  アイヌ・コタンの裏山で、母子の鹿と向きあった。白 いまばゆい、よく晴れた午後のことだ。  雪の林道をラッセルしてきて乱れた呼吸をととのえな がら、三頭の鹿と見つめあった。鹿は、もう何億年も青 いままの空を背にしていた。  ぼくの呼吸が落ちついていくにつれて、鹿たちの視線 は、雪の照りかえしより強くなっていった。緊張した鹿 の肢(あし)が、ひとつ、雪の大地を蹴る。鹿の瞳を射る ような輝き。凛(りん)とした眼光には、鹿が鹿として生 きてきたはるかな歴史(とき)が宿っている。種としての ヒトをときどき忘れてしまうぼくへ、恥じらいのような ものがひろがっていった。
   あおぞら――G  上野発札幌行の寝台特急が宇都宮をすぎた。B寝台の 個室は人気で、なかなか予約がとれず、当日のキャンセ ルを待ってようやく寝台券を入手した。  四号車のサロンで同席した学生ふうの女性と一○分ば かり話をした。八つうえの兄の結婚式で、札幌の実家へ 帰るところだという。自分は、仕事のために寝台特急で 札幌までいき、それから特急にのりかえて釧路へ、さら に各駅停車で根室までいくのだといった。  この行程は二五時間と一分かかるのだが、せめて片道 でも、目的地へ移動する過程を楽しみたいと、かねてか ら思っていたことを話した。 「それ、いいですね。私もそんな旅がしてみたいなあ。 いいわねー」  女性は、母親を真似ているのではないかと思わせるよ うな、ゆっくりした感嘆符をならべた。  しばらく、なんということもない話を交してからビー ルを一本のみきって、「じゃあお先に」というと「私も 戻ります」という。  四号車8番の自分の部屋のドアを開けると、その女性 は7番のドアを開けた。「なんだお隣りさんか」という と、予約制になっている夕食を、いっしょにいかがとい う。残念ながら食堂の予約はしていなかった。  部屋に入ると下弦の三日月が窓に冴えていた。幕の内 をおいしく食べた。室内には懐メロがながれていた。ワ イルドワンズ、シューベルツ。『遠い渚』『風』。なん だか楽しくなって音量をいっぱいにあげた。歌詞は、け っこう憶えているものだ。月をながめて口ずさんでいる うちに、おおいにうれしくなってサロンへビールを買い にいった。  冷やっとするビールを持った手で、7号室をノックし た。快活な「はい」という返事がきこえた。 「ビールでもどうかと思ってー」 「あ、いえ、けっこうです」  開かないドア越しの会話だった。掌のビールがジンと 冷たい。 「余分に買ったから……」  こんどは返事がなかった。ドアののぞき穴が目の前に あった。車内灯をうけた、その小さなレンズの輝きが、 やわらかく艶やかな髪の女の、ひっそりした視線のよう で、思わず、目をそらした。  部屋に戻ると、あいかわらず地平線に低く、三日月が 列車についてくる。月の隣の星も月に負けずに輝いてい る。その小さなきらめきが、明日の晴天をじゅうぶんに 予感 させた。 『小さなスナック』『ブルーシャトー』『夕陽が泣いて いる』。室内のオーディオのスイッチを入れると、遠い むかしの坊主頭に記憶された曲がまだつづいていた。  午前六時すぎに車内のアナウンスで目をさました。車 窓にいっぱいの青空があった。北斗星1号はすでに道内 に入り、登別あたりを走っていた。遠くの山には残雪が 見えるが、光はやわらかな春のものだった。  午前八時五○分。札幌に着いた。この、うるわしい町 がふるさとだという昨晩の女性に、朝の挨拶でもと列車 をおりると、白いニットのワンピースを着た小柄な彼女 は、大きめのショルダーバッグを左肩にさげて、小走り にホームの階段をおりていった。声をかける間はなかっ た。  のろかえのために、釧路行の入っているホームへ移動 した。四月の札幌は、冷たい風のなかにも確かな春を宿 している。この朝に出勤していく人々は、もうすぐそこ まできている春といっしょに歩いていた。 

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