ちょっといい話


♪♪♪ 道ありき〈青春編〉 三浦綾子 新潮文庫 ここでは一部をお目にかけます。……是非、本をお手にとられてお読みになられますことをお勧めします。 わたしは無宗教ですが13年以上にも及ぶ闘病生活の中で創作された筆者と口述筆記で支えた三浦光世さんの努力に感動しています。♪♪♪


■道ありき〈青春編〉
■綾子さんの短歌
トップページに戻ります
『ちょっといい話』の目次へ











道ありき〈青春編〉
「われは道なり、真理(まこと)なり、生命(いのち)なり」
 イエス・キリスト
      (新約聖書、ヨハネ伝福音書第14章6節)

   
   はじめに


 わたしはこの中で、自分の心の歴史を書いてみたいと
思う。
 ある人は言った。
「女には精神的な生活がない」
 と。果してそうであろうか。この言葉を聞いたのは、
わたしが女学校の低学年の頃であった。その時わたしは、
妙にこの言葉が胸にこたえた。なぜなら、たしかに女の
話題は服装や髪型、そして人のうわさ話が多いように少
女のわたしにも思われたからだ。
(女にだって魂はある。思想はある。いや、あるべきは
ずである)
 その時わたしは、そう自分自身に言いきかせた。

 これは、わたしの心の歴史であって、必ずしも、事実
そのままではない。というより、書けない事実もあった
と言ったほうがいい。なぜなら40代の私の自伝には、
他の人にさしさわりのある場合が多いからである。人を
傷つけるようなことは、極力避けるつもりである。そん
なわけで何人かは仮名にした。
 しかし、心の歴史である以上、わたしの精神的な生活
を豊かにし、生長させ、もしくは傷つけた事柄は、なる
べく事実に即して書いていきたい。
 話は昭和21年、24四歳の時から現在に至るまでで
ある。

   1  昭和21年4月、たしかその日は13日ではなかった だろうか。啄木忌であったと記憶している。わたしの所 に西中一郎から結納が届く日であった。  よころが、どうしたわけかわたしは急に貧血を起こし て倒れてしまった。生まれて24年、かって1度も貧血 など起こしたことのないわたしであった。だから、より によって、婚約の日に貧血を起こして倒れたということ は、わたしには不吉な予感を与えた。  床の中で意識をとりもどしたわたしは、自分がどんな 気持ちで婚約しようとしていたかを、反省せずにはいら れなかった。実はあきれた話だが、わたくしは、もう一 人のTという青年とも、結婚の約束をしていたのである。 つまり二重婚約ということである。そのような荒れた生 活に至ったのには理由があった。  昭和21年という年は、敗戦の翌年であった。その敗 戦という事実と、わたし自身の問題とを語らなければ、 このわたしの婚約もわかってもらえないのではないかと 思う。  わたしは、小学校教員7年目に敗戦にあった。  わずかこの1行で語ることのできるこの事実が、どん なに日本人全体にとっては勿論、わたしの生涯にとって も、大きな出来事であったことだろう。  七年間の教員生活は、わたしの過去の中で、最も純粋 な、そして最も熱心な生活であった。わたしには異性よ りも、生徒の方がより魅力的であった。  授業が終って、生徒たちを玄関まで見送る。すると生 徒たちは、 「先生さようなら」「先生さようなら」  と、わたしの前にピョコピョコと頭を下げて、一目散 に散って行く。ランドセルをカタカタさせながら、走っ て帰っていく生徒たちの後姿をながめながら、わたしは 幾度涙ぐんだことだろう。(どんなに熱心に、どんなに かわいがって教えても、あの子たちにはどこよりも母親 のそばがいいのだ)  わたしは、内心子供たちの親が羨ましくてならなかっ た。わたしは、ずいぶんきびしい教師であったけれども、 子供たちは無性(むしょう)にかわいかった。  あるいは、こんな受持教師の愛情を、母親たちは、知 らないのではないだろうか。よく勉強のできる子をかわ いがるとか、美しい子をひいきにするとか言って、受持 の教師の悪口をいう母親たちが今もいる。  しかし、1度でも生徒を受け持ってみたらわかること と思う。たしかに、最初の1週間ほどは、眉目(みめ)か たちの美しい子や、積極的に質問する生徒は目につく。 それは、目につくということであって特に目をかけると いうこととはちがう。  だが、1週間も過ぎると、できる子もできない子も、 美しい子も目立たない子も、一様にかわいくなってくる のだから不思議である。それはちょうど、結婚したら顔 のことなど、それほど気にならないような、夫と妻との 関係に似ている。  わたしは生徒1人ひとりについて、毎日日記を書いた。 つまり、生徒の数だけ日記帳を持っていたことになる。 生徒の帰ったガランとした教室で、山と積み重ねた日記 帳の1冊1さつにわたしは日記を書きつづっていった。
2  満17歳にならないで、小学校の教師になったわたし の最初の赴任校は、ある炭坑町にあって、40人ほどの 職員がいた。その学校は、甚だ変った学校であった。  第一に、その出勤時間の早いこと、午前5時には校長 はじめ何人かの先生が既に出勤している。本当は六時半 までに行けばよいのだが、校長が5時に出勤しているか らである。  ある先生が、うす暗がりの校庭に箒(ほうき)を持つ校 長の姿に、 「すみません、おそくなりまして」  と言ったところ、 「あんたはいつもすまんというが、わしより早く来れな いのかね」  と言われたことを、去年も思い出話の中で聞いた。  何しろ、戦時中のことである。国中がどこか狂ってい たような時代であったから、このような学校もあったわ けだろう。午前五時から六時半頃まで法安殿の回りや、 校庭はきれいにそれこそ箒の目が立てられる。その箒の 目を踏んで登校する時の気のひけたことを今も忘れない。  午前6時半から、7時までは修養の時間とか言って、 全職員は自分のための修養の本を読むのである。七時に は職員朝礼である。それは教員に賜った勅諭を奉読し、 教育歌をうたう。 「真清水の、よし濁ることがあろうとも  そこに咲く花を清く育てるのがわが使命である」  こんな意味の歌詞ではなかったかと思う。  うたい終ると、当番の教師が感話をする。たとえば次 のような話が印象に残っている。 「雪のふる日」校庭を横切るのに、真直ぐに歩こうと、 目標を定めて歩いて行く。目標の所に来て振り返ると、 真直ぐに歩いたはずなのに自分の足跡はひどくあちこち に曲がりくねって歩いている」  この話をした森谷武という先生は、特に国語の力のあ った先生で、わたしも尊敬していた。この言葉は、女学 校を出たばかりの17歳のわたしには、非常に含蓄のあ る、教えられる言葉であった。  こんな感話の後、校長が感想を述べる。朝が早いとい うことは辛かったが、この職員朝礼はわたしにはおもし ろい30分であった。  七時から7時半まで生徒の自習時間、7時半から朝礼 で2千名以上の生徒が整列して、運動場に集まり、そし てまた教室に戻るだけで優に30分はかかる。授業の始 まる午前8時には、コックリコックリ居眠りをする先生 がいるという伝説が生まれたほど、何しろ出勤時間の早 い学校であった。  出勤時間ひとつをとってみても、まことに恐るべき学 校であり、また時代であったといえるように思う。他は おして知るべしで、何かとおもしろい(今となってはお もしろいといえるが……)話がたくさんある。 とにかく、女学校を卒業して、いきなり飛びこんだ社 会が、出勤時間からかなり異常であったにしろ、教師と いうものはこのように朝早くから修養につとめ、勉強す るものであるということを、疑いもなくわたしは受け入 れていた。  そして、そのことは若いわたしにとって、薬にこそな れ、大した毒にはならないようにその時は思っていた。 「如何なる英雄も、その時代を超越することはできない」  という諺(ことわざ)がある。まして、英雄どころか、 西も東もわからぬ小娘には、その時代の流れを的確につ かむことはできようはずはなかった。 「人間である前に国民であれ」  とは、あの昭和15、6年から、20年にかけての最 も大きなわたしたちの課題であった。今、この言葉を持 ち出したならば、人々はげらげらと笑い出すことだろう。  そうした時代の教育は、天皇陛下の国民をつくること にあったわけである。だから、この教育に熱心であると いうことは、わたしの人間観が根本から間違っていたと いうことになる。  敗戦がわたしにとって、どんな大きなものであったか と前に記した理由がわかってもらえるだろうか。  敗戦と同時に、アメリカ軍が進駐してきた。つまり日 本は占領されたのである。そのアメリカの指令により、 わたしたちが教えていた国定教科書の至る所を、削除し なければならなかった。わたしの言葉に、生徒たちは無 心に墨を磨る。その生徒たちの無邪気な顔に、わたしは 涙ぐまずにはいられなかった。先ず、修身の本を出させ、 指令に従いわたしは指示する。 「第1頁の2行目から5行目まで墨で消してください」
   3  昭和21年3月、すなわち敗戦の翌年、わたしはつい に満7年の教員生活に別れを告げた。自分自身の教える ことに確信も持てずに、教壇に立つことはできなかった からである。そしてまた、あるいは間違ったことを教え たかもしれないという思いは、絶えずわたしを苦しめた からであった。  全校生徒に別れを告げる時、わたしはただ淋しかった。 7年間一生懸命に、全力を注いで働いたというのに、何 の充実感も、無論誇りもなかった。自分はただ、間違っ たことを、偉そうに教えてきたという恥ずかしさと、口 惜しさで一杯であった。  教室に入ると、受持の生徒たちは泣いていた。男の子 も、女の子も、おいおい声をあげて泣いている。その生 徒たちの顔を見ていると、わたしは再び決して教師には なるまいと思った。  無論、わたしも泣いた。1年生から4年生まで教えた 子供たちに、限りない愛着を覚えずにはいられない。も う、ここに立って1人ひとりの顔を見、名前を呼ぶこと もできなくなるのだと思うと、実に感無量であった。
   4  婚約者の西中一郎は、ひとことで言うならば、真面目 で誠実な男性であった。わたしが発病するや否や、彼は 遠くの地から、直ちに見舞いにやって来た。そして、そ の見舞いは、彼のその後の何年間かの仕事となってしま った。ある月は、その月給の全額を、わたしの見舞いに 送ってくれたこともある。旭川に来ると、 「駄目だよ、そんなものを食べていては」  と、筋子や肉などを沢山買いこんで来てくれたことも ある。何とか病気をなおしたいと言って、生長の家の本 を何冊も持って来て、枕元で読んでくれたこともあった。  わたしが、痰を出そうとすると、いち早く手を伸ばし て痰壷を取り、わたしの口元まで持って来てくれる。実 によく気のつく親切な人でもあった。俳句をつくったり して、よく手紙もくれた。生活力もあり、ミスター北海 道にかつぎ出されようとしたほど、美しい容貌と、優れ た体格をしていた。  わたしの弟たちの親切で、弟たちは「一郎さん」「一 郎さん」と言って、よくなついた。いわば、一点の非の 打ち所のない男性に思われた。  しかし、わたしの心は、彼を離れて暗く荒れて行った。 もはや、その時のわたしには、「信じる」ということが、 一切できなくなっていたのである。  23三歳の年まで、信じ切ってきたものが、何もかも 崩れ去った敗戦の日以来、わたしは、信ずることが恐ろ しくなってしまった。そうした、わたしの心の動きを、 西中一郎はわかってくれそうもなかった。  ある日、わたしは尋ねた。 「一郎さん、あなたは、どんな悩みを持っていて?」 「ぼくには悩みなんて、何もないな。悩みなんてぜいた くだよ」
   48  ここでわたしは、当時の日記を開いてみたい。幼稚な 日記ではあるが、わたしにとっては、大切な記念碑なの だ。    5月11日  わたしの魂は飢えている。知的なもの、高度の情的な ものに飢えている。  自殺したKさんの日記を読む。Kさんて、素敵な、独 創的な魂を持った心憎いような人だった。生れながらの 詩人。  少し遺言ノートを書く。死ぬ準備は、いつでもOKに しておきたい。人間は、死をいつも静かに待っていて、 その不意討に驚いてはならない。わたしはダメだ。  自分が考えているよりも、もっと命が尊いものだとい うこと。わたしたちは気がついていないのではないか。 このわたしの命は、イエス様の命と引替に与えられたも のなのだ。いまやっと、それがわかった。頭ではなく、 胸でスカッとわかった。わたしの命が尊いということの、 本当の意味がわかった。すみません。イエス様。  わたしの日記は、わたし自身の心を写してゆらぎ、乱 れている。
   49  神は、わたしから前川正を取り去った代りに、三浦光 世を見舞わせ、西村先生を天に召した代りに、1人の信 仰の導き手を与えてくださった。  当時わたしは、前に述べたように、多くの療養者や囚 人たちと文通していた。その中に、Sという死刑囚がい た。彼は神奈川県の元やくざで兄貴株だった。そして遂 に厚木で2人の人間の命を奪ってしまった。そのSが死 刑囚になってからキリストを信ずるようになった。俗に、 悪に強い者は善にも強いという。彼は実に真実なキリス ト者となり、同囚の人を幾人もキリスト教に導くように なった。  彼はわたしを、死んだ姉のようだと言い、時折り10 円切手を10枚か20枚送ってくることがあった。それ は、療養中のわたしが、切手代や葉書代に困るのではな いかとの、思いやりからであった。
★Webmaster's Break: ■ネットの知人たち推薦の、三浦(旧姓・堀田)綾子さん の『塩狩峠』『ひつじが丘』『道ありき』、灰谷健次郎 さんの『砂場の少年』『我利馬の船出』を求め一気に読 んでしまいました。私は無宗教のバチ当りですからクサ イ(お説教・お説法臭い!)のは苦手なのですが三浦さん の作品とりあえず読み通しました。 灰谷さんの作品はいろいろ考えさせてくれて退屈しませ んね。教員さんたちにお読みいただき感想を聞きたくな りました。 ■三浦さんは旭川の高等女学校を卒業して小学校の教員 になったとき17歳になっていなかったと書いています が16歳って今は高校1〜2年生でしょうか。ムカ〜シ は無謀! ともおもえる教育システムを展開していたん ですねぇ。 「優秀な人材を効率的に生み出すシステムである」と嫌 ってGHQが解体した教育制度ですから全体を見てみな いと何ともいえませんが…… 大村はまさんは高女≠ニいわれる高等女学校の教科書 の水準が男性の中学校のものとは比較にならないほど低 レヴェルで、女性が偉くなれない仕組みになっていたと 書いておられました〔『教えるということ』ちくま学芸 文庫〕が……教科書のことは実際に見比べてみないと具 体的に判らないものの、宇野千代さんは岩国高女、宮尾 登美子さんは高坂高女出身。みなさん凄いですねぇ。 三浦さんは先生になって担任のクラス(55〜56人)の1人 ひとりについて日記を書いていたそうですから書くのが 好きだったのでしょうね。 〔知人への私のメールから転写しました〕。             *   綾ちゃん、人間はね、1人ひとりに与えられた道がある んですよ 〔『道ありき』〕 いつ、どこで、自分の生活を断ちきられても、その断面 は美しいものでありたい。 〔『ひつじが丘』〕
メニューに戻ります











綾子さんの短歌: 『道ありき』記載の作品です〕 夜半に帰りて着物も更へず寝る吾を この頃父母は咎めずなりぬ (『アララギ』初投稿・「土屋文明選」初入選の歌) 湯たんぽのぬるきを抱きて目覚めゐる このひと時も生きてゐるといふのか 妖婦(ヴァンプ)てふ吾が風評をニヤニヤと 聞きて居りたり肯定もせず 極量の2倍を飲めば死ねるといふ 言葉を幾度か思ひて今日も暮れたり 自己嫌悪激しくなりて行きし時 黒く濁りし雲割れにけり 惰性にて生き居る吾と思ひたり 体温計をふりおろす時 乞食なども羨ましくなるこの夜よ 郵便局のベンチに臥してをりしに 「主婦の友」の内職欄を読みて居つ 胸病む吾に生くる術あれや フォルマリン匂ふ寝巻に着更へつつ 心素直になりて行きたり 導かれつつ叱られつつ来し2年 何時しか深く愛して居りぬ 吾が髪をくすべし匂ひ満てる部屋に ああ耐へ難く君想ひ居り 相病めばいつまでつづく倖ならむ 唇合わせつつ泪こぼれき 50歳の社長夫人にいつもいつも コーヒーを奢られてゐるあなたは嫌ひ ベッドよりずり落ちそうな吾が蒲団を 直して帰り給ひしが最後となりぬ 平凡なことを平凡に詠ひつつ学びしは 真実に生きるといふこと 雲ひとつ流るる5月の空を見れば 君逝きしとは信じがたし 君死にて淋しいだけの毎日なのに 生きねばならぬかギプスに臥して 君逝きて日を経るにつれ淋しけれ 今朝は初めて郭公が啼きたり 君が形見の丹前に刺しありし 爪楊子みれば泪のとまらざりけり 耳の中に流れし泪を拭ひつつ 又新たなる泪溢れ来つ 闇中に眼ひらきて吾の居り   ひょっとして亡き君が     現はれてくるかも知れず 吾が髪と君の遺骨を入れてある 桐の小箱を抱きて眠りぬ マーガレットに覆はれて清しかりし 御柩と伝へ聞きしを夢に見たりき 君の亡きあとを嘆きて生きてゐる 吾の命も短かかるべし さまざまの苦しみの果てに知りし君 その君も僅か5年にて逝きぬ 君の写真に供へしみかんを下げて食ぶる かかる淋しさは想ひみざりき クリスチャンの倫理に生きて童貞の ままに逝きたり35歳なりき 女よりも優しき君と言はるれど 主張曲げしことは君になかりき 煙草喫ふ吾に気づきて悲しげに 面伏せし君に惹かれ行きにき 最後迄会ひ初めし頃と変らざりき その言葉正しく優しきことも 死体解剖依頼の電文も記しありき 医学生君の遺言の中に 夢にさへ君は死にゐき亡骸を 抱きしめてああ吾も死にゐき 祈ること歌詠むことを教え給ひ 吾を残して逝き給ひたり 原罪の思想に導き下されし 君の激しき瞳を想ひゐつ 山鳩の啼きゐる夕べの丘なりき 躓(ひざまづ)き共にイエスに祈りき 妻の如く想ふと吾を抱きくれし君よ 君よ還り来よ天の国より 病む友の1人ひとりの名を呼びて 祈る聖画のもとに臥す日々 癒えぬまま果つるか癒えて孤独なる 老に耐へるか吾の未来は 君が逝きし午前1時を廻らねば 眠られぬ慣ひに1年過ぎつ 父母に秘めて血を吐くこの夜の 部屋の空気は蒼く見ゆるも 独りにて果てぬ願ひのたまゆらに 父となりたき思ひかすめつ 拍手されてゐるわたしたち婚約の しるしの聖書を取り交しつつ 降る雪が雨に霰に変る街を 歩みぬ今日より君は婚約者 手を伸ばせば天井に届きたりき   ひと間なりき     吾らが初めて住し家なりき 吾が部屋の屋根裏は隣家の物置にて 下駄響かせて歩く音する 壁の向うの隣の納屋に夜更けて 薪を崩してゐる音聞ゆ メニューに戻ります
ご意見ご感想はこちらへ
トップページに戻ります
『ちょっといい話』の目次へ

[PR]動画