『清水義範の作文教室』 清水義範



作文教室開講事情

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作文教室開講事情
……その教室で子供たちが書いた作文を、弟がファック
スで東京にいる私のところ送ってくるのだ。私はそれを
見て。すべての作文に添削をし、原稿用紙一枚分のアド
ヴァイスをつけてかえす。その教室では私は東京先生と
なのっているのだが、次の週に教室へ行くと東京先生か
らの添削とアドバイスが返ってきているというわけだ。


……この教室を始めてからわかったことだが、子供の作
文を読むのは面白いのである。めざましく上達してうま
くなっていく子の作文も、そうではなく、ちっともうま
くならない子の作文も、とにかく毎週毎週読んでいくこ
とは楽しいのだ。いきいきとした真実に触れる面白さと
でもいうものが味わえるのだ。


 ある種の教育者が口にするような、「子供って純粋で、
無限の可能性を持っていて、すばらしいものなんだ」と
は私はまったく思わない。子供って不純で、インチキで、
すぐ調子にのり、よく嘘をつく困ったものなのだ。大人
と同じである。だけど、そういう困ったものであるから
こそ、面白いではないか。話しかける気もするというも
のだ。
 子供の作文に触れるということは、そういう困ったも
のとしての子供の実態に触れられるということである。
思わず出てしまった本音を読むということである。だか
ら面白いのだ。
 これはなかなかやめられないな、ということになった。
 とはいえ、楽ではない。集まった生徒が六人とか七人
とかで情ない、とは書いたが、それは塾経営上の問題点
であって、指導していく上では実はそれぐらいが清一杯
なのである。毎週毎週、六人分とか七人分の、つまり原
稿用紙にして十枚から十五枚くらいの作文が、ファック
スからジジジと出てくるのですぞ。
 それを読み、添削をし、一人一枚の、つまり六枚から
七枚のアドバイスを書かなければならないのだ。原稿の
締切りに追われる身にはこれはかなり大変な作業である。
今日は生徒が二人休みました、なんて言われると、助か
った、と言いたくなるような気分である。
 そういうことを、もう三年とちょっと、私はやってい
るのだ。


 まあ、見てやって下さい。子供たちの作文と、その上
達ぶりと、私、つまり東京先生の指導ぶりとを。
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