学齢以前の幼児にも公衆道徳の感覚を植えつける、とい
うことは、実は単に、ゴミを散らかさすと汚いからとか、
芝生にはいってはいけないものだ、などということ以上に、
人間形成の上に重大な意味を持つのである。
第一に、ゴミをどこへでも捨てるということはいけない
ことだ、というような具体的な禁止事項を通して、幼児は
他者の存在を認識するのである。
もしかりに、一人の子供が狼少年のように、森の中で一
人で一生を過ごすなら、彼には他者の存在を考えることは
一切不要なのである。総て欲望のおもむくままに、動物的
本能を満たして行けばよい。しかし、私たちは必ず、人間
社会の中に住んでいるのである。そこでは、自分一人では、
とうてい手に入れて来られないような文化の恩恵にも浴せ
ると同時に、自分の欲望も常に或る程度、おさえねばなら
ない。どんなに面倒くさくても、他人に不快を覚えさせな
い程度に体を洗ったり、衣服を着たり、立ちふるまいにつ
いて抑制したりしなければならない。立小便をすることは、
或る意味では爽快なことに決っているが、立小便によって
道の片隅から立ちのぼる臭気が、他人にとっては不愉快だ
ろう、と考えるからやめるのである。
人間も他の動物と同様、実際には一生に一つの生き方し
かできないのだが、動物と違うところは、自分とは違う人
生を想像力をもって考え得る、ということである。
ここに実際には立小便をする男の子としての自分がいる。
しかし同時に、立ち小便の後を通らねばならぬ、通行人と
しての自分をも考えることができるのである。そこで初め
て、場所ならぬ所で、そのようなことをすれば、それは主
観的には気持ちがよくても、他人の立場からみれば不愉快
なことだということが子供にもわかって来る。もしこの二
重の操作ができなければ、恐らく人間は常に、自分にとっ
て快適なことしか選ばなくなり、それは動物と同じことに
なるのである。
相手の立場を考えることくらい誰にでもできます、とお
っしゃる方があるかも知れないが、案外そうではない。い
っぱしの大人を見ても、相手の身になって物を考えること
はてんでできない、という幼児性をもった人物は実に多い
のである。
社会は苛酷なもので、人間関係の殆んどは利害の対立す
る立場に置かれる。あらゆる商行為においては、常に一方
が損をすれば片方が儲かるという例が殆んどである。その
ような対立する人間関係の中で、なぜ、人間は共通のわか
り合える要素を持つのであろうか。それは、自分を相手の
立場に当てはめて考えてみるからである。
一見どれほど明らかに、一方が正しく、一方が悪いよう
に見える人間関係に於ても、悪をなした側にも、どこかに
納得できる部分がある、というのが、私などの考え方であ
る。しかし、私はこの年になって初めて、世の中には、自
分と一定の他人だけは全面的に正しく、そうでない人は全
面的に悪いのだ、と言い切れる人がかなり多いことに気づ
いたのである。全面的に良き人間も、全面的に悪い人間も、
この世にはまずいないとみてよい。人間は誰もが、部分的
によく、部分的に悪いだけである。「人のふり見て、我ふ
りなおせ」などという古い言い方は、この頃はやらなくな
ったが、誰もが、他人の欠点の中に、自分と同じ要素を見
出し得るのである。と同時に、「極悪非道」と言われる人
の中にも、どこかに小さく微かに輝いている部分は必らず
あるのである。ところが、これを認められない人はいくら
でもいる。
限られたい一回限りの自分の生の中から、どこ迄他人の
生活・他者の心を類推し得るかが、どれだけ複雑により多
くの人生を味い得るか、ということになる。ところが一部
の人に言わせれば、この頃の功利的な母親たちは、人生を
味うなんてことはどうでもいい、それによってどういうト
クがあるか、だけが問題なのだという。そういう人々に対
しては、私は、他人の立場をわかることが出世・商売のこ
つだし、他人と裁判沙汰になっても勝てますよ、というふ
うに言わなければいけないのかも知れない。
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