絶望からの出発 私の実感的教育論


相手の立場を考える心を教える


■相手の立場を考える人は少ない
■いま社会に浸透している思考停止
■不潔にも耐えられる神経の持ち主に

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相手の立場を考える人は少ない
 学齢以前の幼児にも公衆道徳の感覚を植えつける、とい
うことは、実は単に、ゴミを散らかさすと汚いからとか、
芝生にはいってはいけないものだ、などということ以上に、
人間形成の上に重大な意味を持つのである。
 第一に、ゴミをどこへでも捨てるということはいけない
ことだ、というような具体的な禁止事項を通して、幼児は
他者の存在を認識するのである。
 もしかりに、一人の子供が狼少年のように、森の中で一
人で一生を過ごすなら、彼には他者の存在を考えることは
一切不要なのである。総て欲望のおもむくままに、動物的
本能を満たして行けばよい。しかし、私たちは必ず、人間
社会の中に住んでいるのである。そこでは、自分一人では、
とうてい手に入れて来られないような文化の恩恵にも浴せ
ると同時に、自分の欲望も常に或る程度、おさえねばなら
ない。どんなに面倒くさくても、他人に不快を覚えさせな
い程度に体を洗ったり、衣服を着たり、立ちふるまいにつ
いて抑制したりしなければならない。立小便をすることは、
或る意味では爽快なことに決っているが、立小便によって
道の片隅から立ちのぼる臭気が、他人にとっては不愉快だ
ろう、と考えるからやめるのである。
 人間も他の動物と同様、実際には一生に一つの生き方し
かできないのだが、動物と違うところは、自分とは違う人
生を想像力をもって考え得る、ということである。
 ここに実際には立小便をする男の子としての自分がいる。
しかし同時に、立ち小便の後を通らねばならぬ、通行人と
しての自分をも考えることができるのである。そこで初め
て、場所ならぬ所で、そのようなことをすれば、それは主
観的には気持ちがよくても、他人の立場からみれば不愉快
なことだということが子供にもわかって来る。もしこの二
重の操作ができなければ、恐らく人間は常に、自分にとっ
て快適なことしか選ばなくなり、それは動物と同じことに
なるのである。
 相手の立場を考えることくらい誰にでもできます、とお
っしゃる方があるかも知れないが、案外そうではない。い
っぱしの大人を見ても、相手の身になって物を考えること
はてんでできない、という幼児性をもった人物は実に多い
のである。
 社会は苛酷なもので、人間関係の殆んどは利害の対立す
る立場に置かれる。あらゆる商行為においては、常に一方
が損をすれば片方が儲かるという例が殆んどである。その
ような対立する人間関係の中で、なぜ、人間は共通のわか
り合える要素を持つのであろうか。それは、自分を相手の
立場に当てはめて考えてみるからである。
 一見どれほど明らかに、一方が正しく、一方が悪いよう
に見える人間関係に於ても、悪をなした側にも、どこかに
納得できる部分がある、というのが、私などの考え方であ
る。しかし、私はこの年になって初めて、世の中には、自
分と一定の他人だけは全面的に正しく、そうでない人は全
面的に悪いのだ、と言い切れる人がかなり多いことに気づ
いたのである。全面的に良き人間も、全面的に悪い人間も、
この世にはまずいないとみてよい。人間は誰もが、部分的
によく、部分的に悪いだけである。「人のふり見て、我ふ
りなおせ」などという古い言い方は、この頃はやらなくな
ったが、誰もが、他人の欠点の中に、自分と同じ要素を見
出し得るのである。と同時に、「極悪非道」と言われる人
の中にも、どこかに小さく微かに輝いている部分は必らず
あるのである。ところが、これを認められない人はいくら
でもいる。
 限られたい一回限りの自分の生の中から、どこ迄他人の
生活・他者の心を類推し得るかが、どれだけ複雑により多
くの人生を味い得るか、ということになる。ところが一部
の人に言わせれば、この頃の功利的な母親たちは、人生を
味うなんてことはどうでもいい、それによってどういうト
クがあるか、だけが問題なのだという。そういう人々に対
しては、私は、他人の立場をわかることが出世・商売のこ
つだし、他人と裁判沙汰になっても勝てますよ、というふ
うに言わなければいけないのかも知れない。

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いま社会に浸透している思考停止     
 公衆道徳を守らせることの第二の根本的な理由は、自分
の行為の結果を、反射的に考える癖をつけさせるためであ
る。
 アメを包んであった銀紙を芝生に捨てると、どういう結
果になるか。銀紙はほぼ永久的に腐らないものであるから、
それは誰かが改めて拾わない限り、いつ迄も芝生の中にあ
る。それは見た目にも、緑の芝生のイメージを壊すものだ
し、芝生そのものの生育にもよくない。それをとり除くに
は、誰か特別の人手がいる。その人手は今決して安くない。
××円の時間給として、その人は1時間に、×回しか、こ
のような銀紙をとり除く操作をすることができない。する
と、或る人が一回だけゴミを芝生に捨てることによって、
その人は国家だか市だかに確実に×円の損をかけることに
なり、恐らくそのお金は誰かの払った税金の一部なのであ
る。
 この通りに考えることもないが、現代の日本も、あらゆ
る機能がまことに先鋭にびっしりといりくんで作られてお
り、どこかに、ほんのちょっとした誤差ができると、たち
どころに、信じられないほどの大きな社会的な影響がでて
くる。
 ニューヨークの大停電は、天災ではない事故が、どれだ
けの社会的な異常事態を生むかをまざまざと見せつけた。
警察当局にけちなウラミを持った男が、東京で最も交通量
が多いと言われる祝田橋交叉点の真中で車を停め、内側か
らドアや窓ガラスをロックしてしまうと、立ちどころに、
交叉点を起点とする四方向とも、何粁にわたって車の渋滞
が続くのである。この人物は、復讐のためにやったのだか
ら、その結果はまさに彼の望むところであったのだろうが、
私の車が事故でそうなっても、影響は同じである。普通の
気の弱い者は何とかして、自分が大きな社会の迷惑になら
ないことを一生懸命考えるものである。
 森永のミルク工場やチッソの水俣工場では、誰かが工場
の機能が製品又は排水に及ぼす結果を真剣に考えるべきだ
ったのに、それをしなかったところに、事故が起きたので
ある。それらの工場には、技師と名のつく人は何人もいる
だろうし、他に工場長とか、課長とか、係長とかいう人々
はがたくさんおり、彼らはさし当り昨日と似たようなこと
をしていれば、月給ももらえ、非難もされないから、あま
り深くなりゆきを考えなかっただろう。
 実に、現代の社会に隅々まで浸透しているのは、このよ
うな思考停止の傾向である。
 発電所がうちの近くに建つのは反対。空気が汚れますも
のね。当り前ですわ。そんなもの建てられたら困りますわ。
《ですけど、電力は足らないんです。どうしたらいいでし
ょう》そんなこと、私しりませんわよ。そんなこと、そち
らがお考えになることでしょ。《こちらとQ町と候補は二
つ考えて来たんですが、Q町の方でも断じて困るから、こ
ちらに建てるようにおっしゃったんです》それじゃ、もっ
と別のところにお建てになればいいじゃないの。《ところ
が、この二ヵ所しか、どう考えても、建てられる可能性の
ある所はないんです》そんなことこちらの知ったことです
か。とにかく断じてうちの町は困りますは。《それなら、
×年後には、当社の電力供給源は底をつきます。その場合、
電燈を消せの、冷蔵庫はやめろ、と申しあげることはでき
ませんが、せめてテレビを見るのを、一日置きになさるこ
とで、節電にご協力頂けますか》あなた、何ていうことを、
言うんです。国民は皆、見る権利があるのよ。
 これは架空の会話であるが、決してないとは言えないで
あろう。つまり、自分さえよければ、結果がどうなるかは
一切考える必要がない、という利己的な思考停止の一つの
定型である。しかし発電所の近くの人々が、節電して建設
反対をする場合には私は心から協力するつもりである。
 もっとも先刻も書いたように、現代においてトクをする
には、思考を停止させた方がいいのである。
 この連載の第一回に書いた、アウシュヴィッツで他人の
身代わり餓死刑を受けたコルベ神父は、この思考停止がな
かったよい例である。神父は、自分と同じバラックにいた
ガイオニチェックという軍曹が、死刑を受けるべき不運な
十人に選ばれたことを嘆き悲しんだ時、素早く、自分がそ
の男と代ったら、と考えたのだった。神父である自分には
妻子もない。自分が死んでも、とくに悲しむ家族はなくて
済む。しかしこの男には、夫と父を奪われる何人かの身内
が残るのだ。そのような思考が神父を身代りへと駆り立て
る。きわめて具体的なソントク勘定から言えば、自分の行
為がどういう結果を生むかについて、素早く、深く、正確
に見える人間ほど、むしろ人生では、損な役廻りをさせら
れるものかも知れない。

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不潔にも耐えられる神経の持ち主に
 保安、しつけ、公衆道徳のどれかにかかわることを、親
が放置しておくことはいけない、と私は書いてきた。しか
し、ここで又、それと全く矛盾する危険につても書いてお
かなければならない。
 列を作って待っている人たちの腕の下を(子供である特
権を利用して)すり抜けさせ、電車の席をとりにやらせる
親はもちろん困るのだが、ごく稀に、子供の神経を不当に
締め上げているのではないかと思う親にも会うことがある。
 子供はごくふつうに放置すれば、犬猫はもちろん蛙や蛇
でさえも、とくに気味わるがるということはない。それは
子供に先入観がないからである。しかし、それをコワイも
の、と教え込むのは親である。
「そんなに手を出すと、噛みつきますよ」「危いじゃない。
知らない犬に手を出しちゃいけません」「蛾は毒なのよ。
さわったら、おててがバッチクなるは」
 それらは決して嘘ではない。蛾の一部には人間の皮膚に
炎症をおこすものがあるというし、狂犬病は確かに怖い。
幼児が中枢神経に近い部分、たとえば、首、顔、肩などを
真性の狂犬に噛まれたら、いかなるワクチンも間に合わな
いし、又、狂犬病は発病したが最後百パーセントたすから
ないのだという。
 しかし少くともここ数年間、日本には狂犬病はない。日
本人は自分の国の悪口を言うのが大好きな自虐的な国民な
ので、いいことはあまり認めようとしないが、狂犬病に関
する限り、実にみごとに完全に「制圧」したのである。だ
から極端なことを言えば、噛み殺されるという事故を考え
なければ、子供を犬猫に接触させることによる危険はあま
りない、と言ってよい。少くとも、私は子供が危険は危険
として知りつつ、蛇もクモもムカデも、何でもさわれるよ
うになることを望んだ。子供というものは不思議なもので、
親にその才能がないからといって、突如として、何か動物
と関係のある仕事につくようになるかも知れないのである。
それなのに動物は怖いということを、何もわざわざ教えこ
むことはない。原則は一つで、何ごともまず受けとめられ
るようにしておいた方がいい。その上で改めて危険を想定
する能力を与えることである。
 衛生観念もその一つである。


 衛生のために手を洗うのだが、それをあまり厳しく言う
と、手を洗うという行為そのものが目的になり、手を洗わ
ない人はヤバンだとか、手を洗わない人とはつき合いたく
ない、という反応を示すようになってしまう。私はむしろ、
子供にそのような判断を植えつけることの方が怖い。
 潔癖がこうじると、細菌ノイローゼになる。お金をクレ
ゾールに漬けたり、アイロンで熱消毒したり、家中のドア
の取手を、1日に2回ずつアルコールで拭いたりする。そ
れも一通りでない煩わしさではあるが、そうなると次第に
外出も交際もできなくなる。なぜならば、世間に出れば、
電車の吊革には、水虫の菌がべっとりと着いているに違い
ないし、自分の前に喫茶店のコップで水を飲んだ人は結核
か梅毒だったかも知れないのである。
 人間の体の自衛能力はまことにみごとなものらしい。私
たちが、たまたまさわった吊革に水虫の菌がいないから、
私たちは水虫にかからないのではない。病菌の多くはあら
ゆる所に偏在しているのだが、人間の体がそれに抵抗して
発病しないだけなのだ、という。
 敬語の言葉遣いの時にも述べたが、私個人は少くとも言
葉においても、幅広い使い方ができることを望むと同様、
子供の体と精神も、常に、どのような状況下にあっても、
それに適応できることを望むのである。私たちの日常は、
望むと望まざるとに拘らず、今や都会的である。食事の前
に手を洗うくらいのことはさしてむずかしいことではない。
しかし、そのような生活がいつもできるとは限らない。仕
事の種類によっては、たちどころに生活パターンはくずさ
ねばならない。
 私はかなり趣味的な外国旅行しかしていない筈なのだが、
それでも、自動車で中米を旅行している時や、インドへ癩
病院の取材に行った時は、かなり極限まで普段の私の生活
をくずさねばならなかった。二度とも問題は、軽度の食糧
の不自由さと不潔であった。合衆国を一歩南へ出はずれる
と、壜詰の清涼飲料水か椰子の果汁以外、本当に信頼でき
る清潔な飲料はないと言われる。もっと明らさまな不潔に
耐えねばならない。それもただの不潔ではない。癩病人の
血膿にたかった蠅がそのまま私の唇にとまるような不潔で
ある。その時は私も多少まいって、先生に笑いながら言っ
た。
「私がこれで発病したら、ここへ又、癒しにまいりますか
ら、どうぞ引き受けて下さいませ」
「僅か3週間くらいの接触で発病した例はあまりないです
からねえ。珍しがられていいでしょう。いつでもいらっし
ゃい」
 清潔であるべきことを教えつつ、不潔にも耐えられるよ
うにしなければならない。人間が矛盾の塊なので教育も自
然そうなる。そこまで考えると、私は又どうしていいかわ
からなくなって暗澹とするのである。

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