何度か、ここで書いたけれど、私の育った家は東京の
中産階級の、しかもあまり円満とはどう見ても言えない
家庭だった。しかし、今思いなおしてもよかったと思う
のは、私の家に、生まれによる差別の意識が全くなかっ
たことと、両親がお金に対してあまり「汚く」ないこと
だった。
父はよく、母に「もらっておかないようにしなさい」
という意味のことを言っていた。それは、頂いたものに
はすぐお返しを送りつければいい、ということではなく、
ひとから貰えばトク、という気持はいけないのだ、とい
うことであった。
初めに別の角度から、言いわけめいたことをしておか
ねばならないが、私は決して「武士は食わねど高楊枝」
みたいな態度を好きなのではない。私は自分が今日食べ
るものに事欠くようになったら、他家のゴミバコの中を
漁り、乞食でも何でもして、握り飯一個でも投げ与えら
れたら、「ああ、よかった」と手放しで喜ぶだろう、と
いう自信がある。なぜなら、そのような反応は自然だか
らである。
しかし人間は、それなら自然なことだけしていればい
いものだろうか。この場合の「いい」という言葉は、道
徳的なものではなくて、「それで済むだろうか」という
意味である。私が乞食のように受けようとしている施し
は、あくまで肉体を養うかてである。しかし精神は肉体
と、決して同じような養い方をされない。
今、偶然、乞食という言葉がでたので、先にそのこと
にふれよう。乞食というものは戦後の混乱期を境に、日
本からいなくなった。本当に生活に困る人は、物乞いを
しなくても、一応の生活保護を受けられるようになった
のである。今の日本をよくないとしきりに言う人が、乞
食がいなくなっただけでも、日本は確実によくなったの
である。私の小さい頃、スキヤ橋の上には、必ず乞食が
いた。今にして思えば、乞食は哀れっぽくなければお貰
いが少ないから、彼らはわざと意識的にみすぼらしくし
ていたのかも知れないが、子供の私からみると、彼らは
本当に悲惨だった。着ているものはボロボロで、それら
は一様に、コーヒーで煮しめたような色をしていた。眼
が悪かったり、痩せた子供を抱いている母親の乞食もい
た。
一国に、乞食がいるのがいいのか、いない状態がいい
のか、と言ったら、もちろん、いないに越したことはな
いのである。しかし、乞食という経済的、社会的、心理
的状況を見せつけるという点でだったら、乞食の存在は
きわめて教育的だった、と私は思っている。荒っぽい言
い方をすれば、乞食がいなくなった頃から、日本の教育
は、おかしなことになりかけた、という気もしてならな
い。
乞食をして食うことがなぜいけないか、ということに
対して答えることは、実は意外とむずかしい。少くとも
私には、一応手数がかかることである。まず第一に、私
の中に乞食というものの概念が単純ではない。印度では
一つのれっきとした職業であると聞かされた。それに乞
食はいけないというが、誰の心の中にも、怠けたい心は
あるであろう。何もしないでごろんと寝ていると、天か
ら一万円札が一枚降って来るとか、目がさめると目の前
に、おにぎりが一個ころんと置いてあるとかいう情景を、
一度も想像したことのない人間がいるだろうか。誰の中
にも乞食根性は存在するのである。第一、こちらから「
乞う」かどうかは別として、私たちが今日生きているの
は、すべて他人のお蔭である。他人から与えられている
のである。与えられる、という形態から言えば、乞食と
同じである。
ただ、どこが違うかと言えば、乞食は感謝をしない、
ということである。私たちは小さなことをしてもらって
も、多くの場合、そのいわれがないから感謝する。しか
し、乞食は一応「ありがとうございます」と言うが、十
銭くれた客には、なぜもう十銭くれないか、と思うので
ある。
私は東南アジアの国で、乞食をする子供に何度かお金
をやった。彼らは本当に食うに困っている場合もあるし、
貰えれば貰っただけトクだ、という気持で、乞食をして
遊んでいる子もいたと思う。そのうちの一人に金をやる。
すると、さっと仲間にとられないように、反対の手に握
りしめて、又もや性こりもなく手を出すのもいる。一度
くれた人は二度とくれないだろう、とも考えない。地球
上のあらゆる人種は、日本人よりしつっこいのではない
かと思った時もある。
メニューへ戻ります
|