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ちょっと、気になる作品


♪高峰秀子『人間住所録』文春文庫 〜 7月刊 (486円+Tax)♪

   たけしの母と秀子の母


「たけし」といえば、たいていの人は「あ、ビートたけ
しネ」という顔をする。
 これほど知名度の高いビートたけし、本名、北野武と
いう人に、私は会ったこともなく、テレビをほとんど見
ないので、その才能や人気の秘密がどこにあるのかも知
らないけれど、チラッとみかけるスナップ写真のたぐい
からは、かなりシビアで屈折した性格の人ではないか、
という印象をうける。笑いを演じる職業ではあるけれど、
たけしのガラス玉のような眼玉は、たぶん1度として本
当に笑ったことがなく、というより、眼玉はいつもシ
ラーッとして山の彼方の空遠くあたりをさまよっている
のではないか、と、私はおもう。今様にいえば無機的人
間とでもいうのだろう。
 芸能人といわれる人の芸を見ず、小説家の小説を読ま
ずして、つべこべと書き散らすことが、いかに僭越、不
遜なことか、というくらいのことは、私のようなアホウ
にもわかっているけれど、私が書きたいのはたけしの芸
や眼玉のことではない。
 私は、たけしの書くエッセイの愛読者の1人である。
たけしの前衛的な毒舌は世に定評のあるところだが、毒
舌では人語におちないと自認するこの私でさえ、「寸鉄
人を刺す」かとおもえばヒョイと1歩下がって自らをカ
リカチュアっぽくちりばめるところが心憎く、誰にでも
出来る芸当ではない、と、いつも感服している。
 たけしが月刊誌「新潮45」に連載している最近のエ
ッセイに「おいらの母物語」というタイトルで、たけし
は自分と母親のことを語っている。
 たけしの文章を少々引用させてもらうと――。
「(オフクロの)口調は、『あたしはもともと高山男爵家
の女中頭をやってて、子供の教育係だったんだ。おまえ
たちのお父ちゃんとは教養が違う』だった。
 これは相当怪しいんだけれども、オフクロは師範学校
を出て、すぐ男爵家の教育係に呼ばれたほどの才媛だっ
たんだという。(中略)どこまで信用できるかわからない
話は他にもいっぱいあって、オフクロは男爵家の紹介で、
最初は海軍中尉と一緒になったんだとも言っていた。そ
れでオフクロは、北野という姓になったんだって。その
中尉が死んだ後、『北野』って名前を残せって言われて、
養子という形で親父をもらった。
 だから、親父は『北野』じゃないらしい。おまけにオ
フクロは、あの人は2人目なんだと公言してはばからな
かったから、親父がぐれるのも無理はなかったんだ」
 と、たけしは書いている。
 これだけ読んでも、お母さんという人はザックバラン
を通りこして、相当な傑物であるらしい。ここまであけ
すけに何でも言ってしまえば、子供は母親に対して、余
計な不信感や猜疑心を持つ余地もなく、エネルギーの倹
約になる、というもので、賢明なお母さんである。
 たけしには勝という亡くなった長兄がいて、勝はどう
やら母親と、死別した海軍中尉との間の子供だったらし
く、
「というのは、天才だったって、オフクロによく聞かさ
れたからだ。仏壇に写真があって、線香を上げるたびに、
『たけし、かっちゃんは偉かったのにな、お前の一番上
だよ。これはできたんだ』というようなことをしじゅう
言われた。言外に、おまえら菊次郎(たけしの実父)の子
供はばかだっていう意味だから、がっくりきた」
 たけしの苦笑いが見えるようである。
 日本の芸能人の宿命といえるかもしれないが、芸能人
の中にはとかく複雑な家庭の事情を背負っている人間が
多い。たけしの事情もややこしいけれど、私、秀子の家
庭の事情も、イイお父さん、イイお母さんの優しい愛に
育まれて、というような結構なものではなかった。
 秀子は北海道の函館で生まれた。
 4歳にもならぬとき、母親が結核で死亡。秀子は養母
となった人の住む、東京は鶯谷の家に連れてこられた。
養母には、夫らしい男性がいたようだが子供はいなかっ
た。とつぜん4歳の子供の母親となってとまどい気味の
養母がはじめてしたことは、「自分たちは実の母子であ
る」ということを正当化しようとする作業だった。
 養母は1日に何回も「あんたの母さんはこの私、あん
たは私の子供だよ。分かったかい?」と、執拗にくりか
えした。が、秀子の眼には、ついこの間死んで、座棺の
中に坐っていた母親の顔がしっかりと残っていた。
「私の母さんは死にました。おばさんは私の母さんでも
ないくせに、実の母子だなんてよく言うよ。ウソツキ」
 とは思ったものの、4歳の秀子がそんなことをちゃん
と言えるはずがない。が、この時点から秀子の心の中に、
大人への不信感が根づいたのはたしかだった。
 これがもし、たけしのオフクロさんだったらどうだっ
たろう? いとアッケラカンと、
「あんたの母さん、死んでいなくなっちゃった。しかた
がないからこれからは、このオバサンと仲よくやってい
こうよ」 
 とでも言ったかもしれない。もしそう言われたら秀子
は子供心にもどこかで納得をしただろうし、その後の養
母との生活が、ボタンのかけちがいのようにちぐはぐと
ねじくれたものにならなかったのではないか、とおもう。
 養女になって1年も経たぬころ、秀子はヒョンなこと
から松竹映画の蒲田撮影所に入社した。子役といっても
西も東もわからぬ赤ん坊同然、養母が口うつしに教えこ
むセリフを喋り、カメラの前でウロウロしているだけだ
ったけれど、どういうわけか人気がでて、ブロマイドが
飛ぶように売れた。5歳の秀子が、当時の大学卒のサラ
リーマン並みの月給をとるようになったとたんに、養母
は内職をやめて秀子のつきそいに専念、それまではたま
にふらりと顔をみせるだけだった養父(旅まわりの活弁
士だったらしい)が家でゴロゴロするようになって、一
家の生活は秀子の収入ひとつにかかった。
 明けても暮れても、養母に手を引かれての撮影所通い
は、小さな秀子にとってラクなことではなかった。が、
養母は1度として「子役はイヤか? やめたいか?」と
聞いてくれたことはなかった。撮影所へゆけば「秀チャ
ンのお母さん」とチヤホヤされて舞あがり、秀子という
虎の子の小さな手をしっかりと握りしめた養母は、いま
でいうステージママの、はしりとなった。
 撮影現場にいるのは、明治生まれのオジサン、オバサ
ンだけで、子供はいないから、秀子には全く遊び友だち
がいなかった。
 夕方、撮影所から帰る途中に小さな駄菓子屋があって、
店先にはいつも5、6人の子供たちがたむろしていた。
子供は、子供の寸法でモノを見る。秀子は自分と同じ年
頃のその子供たちと遊びたくて、店の前を通るときは思
わず足が停まった。そんな秀子を見た養母は、なにを勘
違いしたのか、子供たちを蹴散らすようにズイと店内に
入ると、アメ玉やチビチビとした玩具を手あたりしだい
買いこみ、店の看板になっているキンカ糖のバカでかい
招き猫まで買って駄菓子屋のおばさんを煙にまいた。
 家に帰って、畳の上に、アメ玉や金平糖、玩具や招き
猫を並べてみても秀子の心はいっこうに弾まない。秀子
が欲しいのは、一緒に遊んでくれる友だちであって、モ
ノではなかった。
 とんちんかんな養母と、じめじめとした陰気な秀子の
毎日とはちがって、勇猛果敢なたけしのオフクロさんと、
4人兄姉の末っ子に生まれたイタズラ小僧たけしとの日
常は、他人からみれば親子のチャンバラゴッコのようで
ほほえましい。オフクロさんも憎まれ口の名人で、二言
めには「ばかやろう」「お前みたしなばかは死んじま
え」と、たけしを虚仮にしながらも、如何にしてたけし
に学力をつけさせようかと心を砕いた。
「あれは、6年生になった年の誕生日だった。オフクロ
が何か買ってやるから、たけし、早く支度しなって、突
然出だしたことがあった。
 遠足以外で電車に乗るなんて初めてのことだったし、
まして何か買ってくれるというんだから、おいらはほん
と興奮して舞い上がってしまった。道中、グローブがい
いかな、電気機関車が」いいかなって考えていたら、神
田で降りることになった。
 連れていかれたところが、大きな本屋。『本かあ』と
つぶやくと、後から思い切り殴られた。
 世界名作全集か何かならまだよかった。子供用の参考
書『自由自在』を算数から何から10冊も買われたとき
は、めまいがした。なにが自由自在だ。おいらには不自
由不自在な日々じゃないか。今でもラジオかなにかで
『馬のマークの参考書』って歌を聞くと、暗〜い気持ち
になる。
 その晩、家に帰るなり『自由自在』を広げさせられた。
ちょっとでも手を抜くとぶん殴られたし、ほうきの柄で
つつかれたこともある。そのくらいおいらに勉強させた
かったんだ。
 当時の親というものは、多かれ少なかれそういうとこ
ろがあった……」
 と、たけしは書いているが、そういうところがない親
もいたのである。秀子の養母がその1人だった。

 6歳になった秀子は小学校に入学した。が相変わらず
の撮影で忙しく、学校へゆくヒマはほとんどなかった。
養母はひらがなしか読めず、自分の名前を書くのがやっ
とという人だから秀子になにも教えることができない。
といって秀子に家庭教師をつけるなどという才覚は全く
なかった。たまに学校へ行って教室に座ってみても、授
業はずっと先へ進んでしまっていて、秀子はいつもポツ
ンと孤独だった。そんな秀子を哀れに思ったのか、担任
の指田先生は、秀子が地方へロケーション撮影に出ると
きには必ず2、3冊の絵本を持って駅まで見送りに来て
くれた。秀子は絵本を抱きしめ、穴のあくほどくりかえ
し瞠めて、少しずつ文字を覚えるようになった。秀子が
読み書きができるようになったのは全く指田先生のおか
げである。
 指田先生は秀子の神サマだった。
 本を読む楽しさを知った秀子にとって、読書は唯一の
友だちになった。少女に成長してからは書店を物色する
ことをおぼえ、秀子の本棚に1冊、また1冊と本が増え
ていった。
 撮影所から戻って風呂に入り、夕食が終ると好きな本
を抱えて寝床にもぐりこむ。秀子にはそれがなによりの
楽しみだった。が、本を読みだすと必ず、養母がつかつ
かと入ってきて、ものも言わずにパチリと電灯を消して
しまう。……なぜだろう? 夜更かしをすると明日の撮
影にさしつかえるから、という意味なのか、それとも養
母には読めない漢字まじりの本を読んでいる秀子に、一
種の嫉妬を感じるからなのか? ……たぶん後者だった
ろう。とにかく養母は秀子が活字を読むことを嫌った。
勉強することも嫌った。「勉強なんかしなくたって、金
さえあれば何でもできる」それが養母の考えかただった。
「参考書を買う金はあっても、食い物にはあまりお金を
かけないというのが、オフクロの方針だった」というた
けしのオフクロさんとはたいへんな違いである。
 そんなとき、秀子の心にはいつも、ひっそりと「もし、
死んだ実母だったら……」というおもいが走った。秀子
の、声にならない悲鳴の持ってゆき場所は、なぜか生き
ている人間ではなくて、死んだ実母だけだった。秀子は
結核だった実母の母乳をもらえず、重湯とミルクで育て
られたという。実母に抱かれたという記憶もない。が、
それでも秀子にとって、実母は絶対の人なのだ。こうい
うことを世間の人は「だから、血のつながりが云々…
…」というけれど、秀子には分るような気もするが、も
うひとつピンとこないところもある。
 嫉妬、といえば、秀子が少女から娘になり、人気女優
と呼ばれるようになったころから、養母は、母子という
より、女対女の嫉妬の眼で秀子をみるようになった。秀
子の映画や舞台、すべての出演料は全部養母の手に入る
仕組みになっていたが、秀子という金の生る木には2本
の足が生えている。いつ、どこへ行ってしまうかわから
ない、という不安からか、養母は収入を湯水のように使
って、秀子のオンお母様という存在の確立にヤッキとな
った。肩にはミンクのショール、指にはダイヤ、札ビラ
を切って集めたおとりまきとの麻雀三昧。……そんな養
母を見るたぶに、秀子はげんなりとしながらも、「決し
て、養母のような人間にはなるまい」と、くりかえし思
うのだった。
 少年のころからオフクロさんとのチャンチャンバラバ
ラで、いつもお面のとられっ放しのたけしは、折角入っ
た大学をとつぜん中退して一念発起、自分の道を1人で
歩いていこう、と決心する。長年のオフクロさんの呪縛
から解かれたい、というおもいもあった。といっても、
さて、その道がどこにあるのかわからない。あちらこち
らとアルバイトを転々とし、フランス座、松竹演芸場な
どの舞台を踏む内に徐々に顔を知られるよぷになった。
その後テレビの画面にも進出して月給が100万円にな
ったとき、たけしは久し振りにオフクロさんに電話をか
けた。
「テレビに出てるね、金稼いでいるのか?」というオフ
クロさんに「まあまあネ」と答えたとたんに「じゃあ、
小遣いくれ」とピシャリと言われて、たけしは鼻じろん
だという。以来、2、3ヶ月に1度ほど「小遣いくれ」
と請求され、たけしは「なんだ、相変わらず金なのか」
と寂しいおもいをするようになった。それでいて、たけ
しが警察に捕まったときは「頼むから死刑にしてくれ」。
事故を起せば「死んでしまえばいいんだ」と、相変わら
ずの毒舌で、オフクロさんがそれなりの愛情を持ってい
るのか、菊次郎の息子はやっぱりばかだと思っているの
か、オフクロさんの真意がさっぱり分らず、さすがのた
けしもかなり混乱したらしい。

 今年(1997年)の冬のある日、たけしは、92歳に
なり、軽井沢の病院に入院中のオフクロさんを見舞いに
行った。オフクロさんは、
「今度おまえが来るときは、あたしは名前が変わってん
だ。戒名がついているからさ。葬式は長野で出すから、
おまえは焼香のだけ来りゃあいい」
 と、相変わらずの憎まれ口を叩いたが、主治医にきく
と、「骨がかなりもろくなっているが、重症ではない。
とにかく年齢のわりには頭はしっかりしています」
 とのことで、そりゃあ、あれだけ口が回るんだから、
頭は大丈夫だよな、とたけしは1人呟いて、帰りの電車
に乗った、という。そして、たけしの姉さんが「たけし
に渡してくれ」とオフクロさんから預ったという紙袋を
開けてみた。

「何だ、これは。おいらは言葉を失った。それは、おい
らの名義の郵便貯金通帳だった。

 51年4月×日 300,000
 51年7月×日  200,000

 おいらが渡した金が、1銭も手つかずにそっくりその
まま貯金してあった。
 30万、20万……。一番新しい日付は、ほんのひと
月前だった。軽井沢郵便局のスタンプが横にある。全部
で1千万円近くになっている
 車窓の外の街のあかりが、にじんでみえる。最後の勝
負は、おいらが九分九厘勝ったはずだったのに、最終回
にひっくりかえされたというわけだ。
 兄貴たちから聞かされていたことを思いだした。
『オフクロは、いつもたけしのことを心配しているんだ
よ。芸人なんていつ落ち目になるかわからない。私は亭
主の仕事がパタッとこなくなったとき、どうなったか知
ってるんだ。その時に貯えた金がなかったら終わりなん
だよ。あいつはばかだから入った金はどんどん使っちゃ
っているだろう』
 オフクロは、おいらの人気なんか明日にもなくなる、
と心配していてくれてたんだ……」

 青眼の構え。見事に1本とられたたけしはグウの音も
出ず、ガラス玉の眼玉が潤んだ。
 92歳の今日まで、たけしのよきライバルという母親
であり続けたオフクロさん。なんだかんだとブーたれな
がらも、魔術にかかったようにオフクロさんを慕う息子
のたけし。血の気の薄い秀子でさえ「これが血というも
のなのか」と、ホロリ涙のひとしずく、語るに落ちると
はこのことである。
 昭和25年。5歳から20年間、ひたすら働きつづけ
た秀子に、遂に限界がきた。
 養母に疲れ、アブクのような人気女優であることに疲
れ、自分が単なる金銭製造機であることに疲れ、身心と
もに疲れ果てた秀子は、すべてを振り捨てて単身パリへ
飛んだ。人々は、当時はまだ珍らしかった海外旅行を羨
ましがったが、秀子にとっては命からがらの海外逃亡だ
った。
 パリに着いて間もなく、秀子は1通のエアメールを受
け取った。秀子の生涯でただ1度の養母からの手紙で、
1枚の便箋に鉛筆でただ1行、
「おかねをおくってください。母より」
 とあった。パリへの出発前、秀子は家を養母の名義に
書きかえ、養母の生活費にと借金までしたのだった。秀
子はイタズラ心をおこし、フランスフランを送ってビッ
クラさせてやろうか? とおもったが、そんなシャレが
わかる養母ではない。秀子は養母の手紙を屑籠に放りこ
んだ。
  7ヶ月のパリ滞在を終えて東京の家に帰った秀子は、
それこそビックラ仰天した。養母は土地を担保に吟行か
ら金を借り、家を改築して、13人の従業員を使う料理
旅館のおかみに納まっていたのである。もちろん看板は
秀子だった。そして、もっとビックラこいたことは、娘
の秀子に宿泊代からクリーニング代までしっかりと請求
したのである。
 秀子は、わが家の客人であることをやめ、パリから持
ち帰ったふたつのスーツケースをぶらさげて、帝国ホテ
ルへ引越した。わが家の宿泊代は1泊2千8百円、帝国
ホテルが2千7百円だったことを、秀子はいまでもおぼ
えている。
 ようやく養母からはなれて、同じ麻布に住居を構えて
いた秀子は、昭和30年に松山善三と婚約をし、その報
告をしに久し振りで養母を訪ねた。訪問時間約15分。
終始無言で秀子の報告を聞いていた養母が、はじめて口
を開いた。
「結婚披露宴の、私の紋つき一式はあんたがそろえてお
くれ。結婚後は毎月30万円、小遣いを届けてちょうだ
い」
 けれど、養母は秀子が整えた紋服を地味だと気に入ら
ず、ししゅうゴテゴテ、関取の化粧まわしのような紋服
で披露宴に現れた。
 それからの約20年間、養母がヘルペス(帯状疱疹)に
冒されるまでの間が、養母にとって、文字通り、栄耀栄
華をきわめた時代だった、とおもう。養母のヘルペスは
たちが悪く、ウイルスが脳に入って言語障害を起こし、
そこへ、いまでいうボケが加わって廃人同様になった。
当然店は閉店、養母の「一人天下」は終った。
 タクシーで、まるで投げこまれるようにわが家に送り
こまれてきた養母の持ちものは、ガーゼの寝巻き2枚と、
カラのハンドバッグひとつだった。やがて俳諧がはじま
り、寝室で店頭して胸を打った養母は、浜松の病院に入
院、ある朝、ベッドの上でアッという間に死んだ。診断
は心臓マヒだった。

 晩年の養母は相変わらず、金銭以外の何物も信用せず、
ただ欲のかたまりのままこの世を去った。秀子の結婚の
仲人だった川口松太郎先生に「オニのようなおふくろっ
だったなァ」と言われたことがあるけれど、絵画などで
みるオニはなんとなくユーモアがあってマンガチックだ
が、養母は秀子にとって一触即発、地雷と寝起きしてい
るような日々だった。が、それも終った。
 親子は、仲が良ければそれに越したことはない。仲の
良い親子ははた目にも爽やか、健康で羨ましい。が、負
けおしみではないけれど、仲の悪い親子もまた、捨てた
ものではない、と、秀子は考える。秀子の養母はオニの
ような母だった。けれども秀子はその母から、人間の持
つ卑しさ、おぞましさ、あさはかさなどをイヤというほ
ど見せられたことで、人生の大きな勉強をした、と今で
は思っている。養母は秀子にとって完璧な反面教師であ
った。
 遠い昔、養母に手をひかれ、「子役がイヤか? やめ
たいか?」と問われて「ウン」と答えていたら、今日の
秀子は存在しなかっただろうし、監視にも近い、養母の
いびつな愛がなかったら女優にはなれなかったし、スキ
ャンダラスな事件もなく、まっとう(?)な結婚も出来な
かっただろう。そう考えると、トクをしたのは秀子ばか
りのような気もしてくる。「血は水よりも濃い」という
言葉がある。が、本当に濃いのは血ではなく、子供のし
つけ、日常の過しかたの濃い薄いではないか、と秀子は
思う。「たけしのオフクロさんはよくぞしつけた」は
「秀子の養母はしつけを知らなかった」。
「母を恋うる記」は世に多い。たけしのオフクロさんへ
の想いも、秀子の養母への思いも、その根にあるものは
過ぎ越し日々の「ある日はオニのような」「ある日は慈
母のような」恩愛の情ではなかっただろうか。どちらの
母も、今は、光り輝いている。■
                  ―了―

〔高峰秀子『人間住所録』文春文庫 〜
 7月刊 (486円+Tax)〕

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