『清水義範の作文教室』 清水義範


セキュリティの問題から原文の固有名詞と、その周辺の文章の一部を変えさせていただいております。ご理解ください。 Webmaster


■私の家族
■姉はぼくの宝物
■今日、一番心に残った言葉
■死んだハムスター
■ぼくは怒ったぞ
■四月の日記/なぜつまらない作文を書くのか
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私の家族 Sさん(二年生)
 わたしの家族は、やさしかったりなき虫だったり、こ
わかったりします。
 まずお父さんは、いろいろとわたしたちをあそんでく
れたり、かん字とか、いろいろとおしえてくれます。と
てもやさしいお父さんです。しごとはじゅくの先生と、
今ではエッセイもかいています。わたしは、そんなお父
さんが大好きです。
 お母さんは、とてもピアノが上ずです。
 わたしにもピアノをおしえてくれます。
 おしごとは、お父さんといっしょにじゅくをやってい
ます。お父さんのかいたエッセイも見ます。おこるとこ
わいけど、私は大好きです。いもうとの知美は、ちょっ
となき虫なところがあります。エレベーターでお母さん
をまっていたら、人がのってきたので、
「おりてまってよ」
といったら、
「やだ」
 といってないてしまいました。
 よくなくところはふつうだけど、やっぱりなかよくあ
そんでるときは、とてもかわいいです。
 いもうとのミホは、ぽっちゃりしてて、とってもかわ
いいです。
 かぶと虫とつりがねが大きらいで、けんかなんかした
時とかに、
「かぶと虫よぶよ」
 というと、すぐやめます。
 たくさんおもしろいところがあって、かわいいいもう
とです。

東京先生のアドバイス
・家族のことがよくわかりました。
 さいしょの文は、ほんとうならつぎのようにかくのが
いいですね。
「わたしの家族は、やさしいときも、こわいときも、あ
ります。その上、なき虫までいます」
 でも、このままでもおもしろい。
・いもうとたちのことがよくわかって、いい作文です。
「よくなくところはふつうだけど、やっぱりなかよくあ
そんでるときは、とてもかわいいです」
 ここで、「ふつう」では言いたいことがうまくつたわ
りません。「よくなくところはこまった妹だけど」

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姉はぼくの宝物 Yくん(六年生)
「ドタドタドター」
 はげしくかい段をおりる音でぼくは、目がさめた。目
を開けこしを立てると、目の前には、仁王さまみたいに
姉が立っていた。姉はニッと少し笑いながらこう言った。
「史朗が早く起きないから、私の朝食がおそくなるのよ」
 と、言うと中から姉の顔は、こわくなり、言い終わっ
た時にはおにのような顔だった。ぼくは、その顔を見て
目が覚めて食たくに走った。
「いただきまあす」
 こうして、ぼくの一日が始まる。姉の悪い所はさまざ
まで、おかしを独りじめにしたり、ぼくの物をかってに
とったり、ぼくがねている時いたずらしたり、その他色
々ありますが、けっこういい所もあるのです。例えば、
この前、ぼくが熱をだして学校を休んでいる時、姉はい
つもより早く帰ってきてくれて、リンゴをむいてくれた
り、ジュースをくれたり、前取ったおかしをかえしてく
れたりしてくれ、一番すごいのは、ぼくの家の仕事を全
部やってくれました。他にもあります。ぼくと姉は、よ
くけんかするのですがかならず、最後には、姉が、
「さっきは、ごめん」
 と言ってくれるのです。こう言ういい所もたくさんあ
るんです。その他色々やさしい所、ひょうきんな所ばっ
ちい所自まんできる所色々ですがそう言うとくちょう一
つ一つがぼくの生きた宝物です。

東京先生のアドヴァイス
・初めてYくんの作文を読みました。内容が、身近なこ
とで、心がこもっているから、いい作文です。
「仁王さまみたいに」
「おにのような」
 こういう比喩(ひゆ)がうまく使えています。
 でも、生きた宝物(これも、比喩。「まるで、生きた
宝物のような」の省略だから)という比喩の使い方が、
ちょっとこんらんしています。
 おもしろい言い方だけど、姉が、ぼくの宝物であって、
姉のとくちょうが宝物ではないよね。「そういうとくち
ょうのある姉のことを、ぼくは、ぼくの宝物だと思って
います」だね。 

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今日、一番心に残った言葉 Yさん(六年生)
 今日、私のお父さんが風邪で会社を休みました。私は
春なのに風邪をひくなんて体弱いなあと思いました。
 食事の時、せきをゴホゴホひどくしていたので私はめ
いわくでした。
 8時になったので分団におくれると思って、
「いってきます」
 と言って出ていこうと思ったら、お父さんが、「がん
ばってこいよ。お父さんもがんばるから。とくに勉強」
 と言っていました。
「むりしないでね」
 と言い家を出ていきました。よく考えると私をはげま
してくれたのか、風邪でえらかったのにと思いました。
 学校から帰ってきたら元気におきていました。私はお
とうさんに、
「だいじょうぶ。熱はある」
 と言いました。そうしたら、
「だいじょうぶ、熱もさがったし」
 と言ってあんしんしました。本当にお父さんがよくな
ってよかったと思いました。
「これからも、じょうぶでいてよ」
 と言いました。お父さんは、
「ありがとう」
 と言っていました。お父さんっていい人だなあと思い
ました。


東京先生のアドバイス
・お父さんの風邪のことをしんぱいする気持ちと、その
お父さんが麻千子さんのことをはげましてくれて感動す
るところが、よく書けています。
 欲(よく)を言えば、お父さんのことばに感動するとこ
ろがこの作文のポイントなのだから、そこをもうちょっ
と強調して書いてもよかったネ。
(学校へ行くために家を出たところのあとに)
「はじめは何も思わなかった、よく考えると、お父さん
は私をはげましてくれたんだと気がつきました。自分が
風邪をひいてつらいのに、私のことを心配してくれたの
です。やさしいんだなあ、と思いました」
 このぐらい書くと、作文の題名とつながって、読む人
に感動が伝わりやすいんです。

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死んだハムスター Mくん(六年生)
「ガチャン」
 おりを開けて、エサをあげようとすると、ピクリとも
動かず冷たくなっていた。
「ロッキー、ロッキー」
 と、よんでも動かなかったからかゆさぶってみた。そ
うしたら目を開け動こうとしたのだが、またそのまま冷
たくなって動かなくなり死んでしまった。ぼくは、これ
を見てあと一ぴきしかいないのだと思ってもう一ぴきを
見た。そうしたらその一ぴきがおりをガチャガチャさせ
ながら不思議そうにぼくを見ていた。それから二、三分
たってロッキーをおりの中に入れたまんま新聞紙をかぶ
せてベランダに出してそのままぼくは見つめていた。そ
してけっしんがつき中に入ってテレビを見ていた。だけ
ど自分のペットが死んでかなしくテレビを見ててもつま
らなかった。そして、ロッキーが死んだ次の日あまり元
気がつかない間に学校へ行った。だけどぼくは、よく口
が回るからそのことを何人もの人にしゃべってしまった。
それから八事のれいえんにいきまるでハリガネみたいな
若いお兄さんに動物の焼く場所をおしえてもらいハムス
ターをおいて帰りました。その帰る時、ぼくは、もう一
ぴきは、ぜったいに死なせないぞと決意した。


東京先生のアドバイス
・自分が、心にドキッと感じたペットの死のことを書い
ているから、しぜんにいい作文になってしまう。心がな
んにも感じてないことを、ムリに書いてもいい作文はで
きにくい、ということだネ。いい作文です。
・最初に、「ハムスターのロッキーが」という主語がな
いと、ずーっと、何が死んだのかよくわからないままな
ので注意。
・この作文は、心にショックがあったことを書いている
ので、文章がみんな、「――した」「――あった」と、
言いきりの形で書いてある。そしてそれが、強くせまっ
てくる感じを出している。なのに、「帰りました」だけ
は、「――です」「――ます」の形で書いてあって、弱
々しくなっちゃっている。この場合はここも、
「ハムスターをおいて帰った」としたほうが、心の中の
悲しさがよく伝わる。
・「ハリガネみたいな若いお兄さん」というのはいい比
喩です。
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ぼくは怒ったぞ Yくん(六年生)
「もうお先まっくらだああ」
 新年そうそうわが家は、又さわがしい。ぼくの声を聞
いて母が二階から降りてきた。
「お母さんでしょここにあったお年玉をちょ金したのお
!」
「そうよお、史朗つかっちゃうからあ。それに大人にな
ればやく立つでしょう」
 母は口がうまいからすぐごまかされる。うまいこと言
ったってむだだよう、けっきょく最後には自分が使うん
でしょ、とぼくは思った。そしたら急にはらが立ってき
た。思い出せば去年もその前の年もお年玉を取られた。
二度ありことは三度ある、と思い用心していたがすきを
つかれた。ぼくは、仏の顔も三度まで、と言わんばかり
の鬼のような顔で怒ったが母は、何もなかったように、
しらを切ってまるであいてにしてくれない。とうとうぼ
くは、おもちゃのピストルを出し母の目の前でならした。
「バンバンバン」
 大きな音がなって、母はやっとこちらを向いた。鉄ぽ
う玉が飛ぶように、勢いよくぼくはどなった。どなりな
がら思った。どうせこんなに一生けんめい言っても、ど
うせ聞いてくれないな、と思った。少し話しを止めた。
すると母はめずらしくこう言った。
「今度からは、ちゃんと聞くわ」
 やったあと思った。ぼくも怒ったかいがあった。怒る
のは、あまりよくないが、必要な時は、怒って自分の気
持ちをはっきりつたえるのがいいと思った。


東京先生のアドバイス
・まず、おはなしがおもしろい。お母さんにお年玉をと
られて怒るはなしだけど、書き方にユーモアがあるので、
本当に怒りまくっている感じにはならなくて、笑えるの
だ。
「思い出せば去年もその前の年も……」こういう言い方
の中に、本当に怒ってるわけじゃなくて、そのことを自
分でもおもしろく思ってる気分が伝わる。
・比喩をうまく使っている。
・ことわざの使い方も、まあいいだろう。
・「まっくらだああ」とか「そうよお」というような、
話し言葉をそのまま書くのも悪くはないけど、これは「
」の中の、セリフのところだけにしたほうがいいかのし
れない。セリフじゃない文章にもこれを多く使うと、
「説明があ、ろんり的じゃなくなるんだあよう、という
ことはァ、わかるだろうおう」

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四月の日記/なぜつまらない作文を書くのか
 作文の授業時間は一時間半あるが、その間中生徒が作
文を書いているわけではない。小学生にとって一時間半
もひとつのことに集中するというのは不可能である。
 授業の前半は、弟の幸範が作文がらみの、ということ
はつまり国語の授業をする。先週の作文と、東京からフ
ァックスできた私のアドバイスを返し、それにからんだ
話をしたり、問題集をやらせたりする。本を読んできか
せる、というようなこともしていたようだ。
 たとえば私が、誰かの作文に対して、うまく比喩が使
えていいね、なんていうアドバイスを書いていれば、幸
範がそれを受けて、比喩ってどういうものか、という講
義をするわけだ。直喩とか隠喩とか、そういう知識をつ
めこむことはない。比喩ってのはこういう言い方のこと
で、面白いだろ、と語ってやればいいのだ。
 そういう講義があるせいで、生徒の全員が、比喩って
のをやってみようかな、という気になる。四月の後半ご
ろになってみんなの作文に比喩的表現がふえてくるのは
そのせいである。
 そういう意味で、この作文教室は半分は弟・幸範の教
室でもあるのだ。言ってみれば私と彼の二人三脚という
ところか。うん、この本の印税のうちのいくらかは彼に
渡そう。
 ともかく、そんなふうに作文教室は始まった。作文を
読んで感じるのだが、六人のメンバーはなかなかユニー
クで、期待が持てそうである。
 五年生のTくんは今のところまだ、典型的な小学生の
作文パターンで書いているが、大きくて力強い字からは、
やる気のようなものが感じられる。
 三年生のKさんが、最も普通の小学生の、それも低学
年の作文を書いている。勉強の成績がよくて、一応ちゃ
んと物事を記述することはできるのだが、あんまり面白
くない作文である。つまり、それを面白く書いてもいい、
なんていう発想がないのだ。
 二年生のSさんは、二年生にしてはしっかりした文章
が書ける。この教室が二年目だし、もともと本を読んだ
りマンがのストーリーを楽しんだりすることが大好きだ
からだろう。
 なかなか楽しみな生徒たちである。
 しかし、もちろんのこと、この教室であらためて作文
というものを書きだした彼らの、とりあえず書いてみた
作文は、おおむねつまらない。
 当然のことである。小学生の書く作文なんて、まあそ
の大部分がつまらないのである。
 だって、書く動機がないのだから。
 学校で国語の時間に、きのう行った工場見学のことを
作文に書きましょう、と言われる。意欲はわかないのだ
が、先生の指示なんだからとりあえず書くことになる。
書きたくてうずうずしているわけでもないのに。
 ならば、まあ普通の子は、ありきたりの、行きました、
○○を見ました、おもしろかったです、という作文を書
くよねえ。
 この作文教室だって同じことだ。お父さんかお母さん
が、こういう教室があるそうだから行きなさい、と指示
したのである。本人はなんだかよくわからないままに、
親の命令だからというので来ている。そこで、作文を書
きなさい、と言われる。まずは自分の家族のことなんか
でもいいよ、と言われて、私の家族は何人で、どういう
人たちで、私には大切な人たちです、という作文を書く
わけだ。このことを書きたい、という気がないんだから、
ありきたりで薄っぺらい。
 それに加えて、小学生の作文をつまらなくしているも
うひとつの要因がある。
 それは、子供たちがいい作文を書かなきゃいけないと
思いこんでいる、ということである。
 どこで、誰に植えつけられてしまったんだろう、そん
な考え方を。作文には、いいことを書かなきゃいけなく
て、悪いことを書くのは悪い作文だという考え方だ。
 私の家族は、いろいろ文句もあるけどやっぱり大切な
人たちで、ぼくの姉はぼくの宝物で、お父さんには長生
きしてほしくて、旅行は楽しかったです。
 そういうふうに書くのが作文というものだと子供たち
思っている。
 そのことが如実にあらわれるのが、小学生の作文の最
後の一文である。
 たとえば家族で行楽に行ったとする。ところが、雨は
ザーザー降るし、道路は渋滞して車は進まないし、遊園
地は満員で何に乗るにも一時間待ち、芋堀りは泥だらけ
腰が痛くなってきて、お父さんとお母さんは喧嘩をはじ
める。
 ということを作文に書いてきて、小学生は最後の一文
をこうしめくくる。
「ちょっと大変なところもあったけど、まあ楽しかった
です」
 ははは。私のことだから例がちょっと面白すぎるけど、
でも、小学生の作文が非常にしばしばそういう文章で終
るというのは本当のことである。
 最後の一文がないほうがはるかにいい作文なのになあ、
と思ってしまう。
 なのに、小学生は、そうしめくくらなければ作文が終
らないと思っているのだ。そうしめくくって、なんとか、
いい作文になると思いこんでいる。
 作文にはいいことを書かなきゃいけないという思いこ
みを小学生に植えつけているのは、親でもあり、大人全
体であり、社会でもある。そして、そこに全部の責任が
あるとは言わないが、学校の先生のせいでもあるのでは
ないだろうか。
 子供の作文を読んで、どう指導していけばいいのかは
大変にむずかしいことで、私にもまだその答が完全には
わかっていないのが事実だが、こういう指導は愚かだ、
というのがある。
 それは、作文をではなく、その作文に書いてあること
を評価するやり方だ。
「私は妹がにくらしくなり、殴ってやりたいと思いまし
た」
 という作文に対して、
「姉妹はなかよくしましょう。弱い子を殴るのはよくな
いことです」
 という指導を書きそえる。なんじゃい、それは。それ
は国語の指導にはぜんぜんなっておらんではないか。
「子供たちにいじめられている亀を助けて海にはなして
やりました」
 という作文に対して、
「とてもよいことをしましたね」
 そんな評価はせんでもよろしい。作文の指導は、作文
力とでもいうものを高めるためにするもので、道徳教育
をするためのものではないのだ。事実がちゃんと説明で
きているか、その時の気持ちが読み手に伝わるか、さら
に言えば読み手を同感させられるか、という文章面のこ
とを評価し、指導しなくちゃいけない。
 そうしないで、書かれている事実を評価していると、
子供は、大人に文句を言われないことを書かなくちゃ、
と思ってしまう。いい作文でなくちゃ、だ。
 私は、この教室で、子供たちが書いてきたことの、事
実には絶対文句をつけないでおこうと考えている。「い
やな奴なのでみんないじめてやりました」という作文で
あったとしても、「いじめてはいけないよ」とは言わな
い。その、いじめたい気分が読む人にくっきり伝わるよ
うに書けているかな、という面からのみ指導する。
 そして、こういう内容を作文に書いてはいけないんだ
よ、ということも絶対に言わない。それは別の局面で指
導することであって、作文指導ではないのだから。
 何を書いてもいい。ただし、読み手にちゃんと伝わる
ように書くんだよ、というのが私の立場である。
 もっとも、そうは言っても子供たちはそんなひどい(
たとえば、いじめは楽しいとか)作文をまず書いてきま
せんがね。
 でも、基本的な心構えの問題です。

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